Darwinism〜岸を離れる日9







 それまで沈黙を守っていた青年からかけられた言葉は、けして語勢の強いものでは
なかった。

 平時の青年の人柄を思わせるかのような、静かな、聴く者にけして気負いを与えな
い問いかけ。敢えて意識せずとも自然とそんな振る舞いをしてのけ
る青年の為人は、殺伐とした日常を送る白鳳にとって、いつでもある種の癒しを与え
てくれるものだった。


 だが……幾度となく荒んだ心を和らげてくれたセレストの静かな呼ばわりが、今は
ひどく耳に痛い。

 セレストは……この青年は、表沙汰になれば間違いなく身柄の自由を拘束されて
いるであろう自分の罪業を、そしてそこに至った自身の後ろ暗い過去を知る、数少な
い知己の一人だった。

 彼の仕える国家の転覆すら一度は図った自分の暗躍に、個人的な釘刺し以上の
干渉を受けなかったのは、自分に対する彼の厚意ゆえだ。主家に仇なす存在は誰で
あろうとも容赦しないと言い切った青年が、それでも、これ以上の害意が自分にない
ことを認め、ギリギリのところで許容の線引きをしてくれたから、自分は今でも、こうし
て行動の自由を黙認されている。

 目指す目的のために、貫くことを決めた自らの意地と矜持。だから、それほどの厚
意を示してくれた青年の為であれ、自分はきっと、この生き方を変えられない。
 それでも……ほんの数ヵ月前までは赤の他人に過ぎなかった自分に向けて、青年
が幾度となく伸ばしてくれた差し出し手が、どれほどに得難いものであったのか、そ
れもまた身に沁みて解っていた。

 時に身を縛る枷にもなるのだと承知しながらも、寄せられた信頼を損なうような結
末を自ら招きたくないと、そう思う。それが、自分の気弱さに起因する「逃げ」である
なら、なおの事だ。

 これが自分だと、声高に主張できるだけの裏付けがあるのなら、それがどれほど
世間から非難されるものであったとしても、自分はまっすぐに顔を上げていられる。
自分の所業を不問に処してくれたセレストと彼の主人も、その処遇の見返りに自分
達にひたすら従順な存在でいろとは言わないだろう。

 だから、いつどのような場所で顔を合わせることになろうとも、彼らの前でまっすぐ
に顔を上げていることが、彼らの信頼に対する自分の意地だ。
 いたたまれなさや悔悟の念に捕らわれて、相手の顔を見返すこともできないような
自分には、なりたくない。それが、どれほどの急場であろうとも。


 ――――そうだ。どれほどの不様を晒そうと、彼らに顔向けもできない自分の弱
腰を、自分に許したくはなかった。

 今にも四散してしまいそうな矜持をかき集めて、ともすれば逃げをうちたがる自分
を叱咤するように、ぐっと奥歯を噛みしめる。そうして改めて見据えた視線の先で……
そんな自分の覚悟を待っていたかのように、セレストは改めて白鳳の名を呼んだ。


 「白鳳さん……ノーベル学者さんは……」

 続く言葉を一瞬呑み込んだように見えたのは、白鳳の抱える事情を慮った、セレ
ストの逡巡だったのか……しかしそれでも、セレストは続く言葉を誤魔化しはしな
かった。

 「ノーベル学者さんは……貴方の手で、捕らえないと」
 「……っ」
 「そうしなければ、すべての男の子モンスターの捕縛が果たせない……それでは、
  スイ君が……」


 刹那―――後発隊として合流した残り二人の反応が、真逆に分かれた。
 セレストの言葉を聞いても表情を変えることなく沈黙を守る少年と、虚を突かれた
ような面持ちで自分とセレストを交互に見やる青年。その反応だけで、十分だった。

 ああ、やはり、と思う。
 自分の抱える事情を知りながら、素振りにも見せず言葉にも出さず、それでも言
外に助力を申し出てくれた少年の厚情。
 ここに至る経緯を知らされぬまま、自分に振り回される事にさぞや苛立たされた
のだろうに、それでもこうして、自分と関わることをやめなかった青年の情深さ。

 やはり知っていたのか。やはり知らされていなかったのか。
 それでも尚……彼らは、自分を追ってここまでやってきたのか……


 真逆に向けられた認識は、瞬くほどの間に一つに融け合って、疲弊しきった白鳳
の心をじわりと満たした。
 そして、そんな風に双方の面目を慮った立ち回りを続けてきてくれたのだろうセレ
ストが、今になってその差異を埋めるような布石を、敢えて投じて見せたその真意も
……渇えを癒され、精神的な余力を与えられた心に、思い至らない訳にはいかな
かった。

 白鳳が抱える事情の全てを、その主人と仰ぐ少年にさえ、セレストは語り聞かせ
た訳ではないだろう。おそらくは、彼がカナンの耳に入れた情報は、彼が自身の主
筋に対して通すべき「筋」を違えないためのもので、彼は彼の主人を、適度に距離
を保った「蚊帳の外」に置いておきたかったに 違いなかった。

 アックスについては言わずもがなだ。自分と彼の双方の為に、セレストは彼自身
の言動で、自分達の相関に影響を与えないよう気を回してくれていたのだろう。
 それはきっと、白鳳の抱える事情の概要を曲がりなりにも知る者が、この面子中
で自分一人であることを、セレストが重く受け止めているからだ。 彼がそうして、表
に出ないところで立ち回ってくれていたからこそ、自分達は一国の命運さえ作用す
るような騒動に関与した後も、こうして変わら ない相関を保ってこられた。


 そのセレストが、彼の独断で敢えて水向けした、自分と男の子モンスターとの因
縁。

 今自分が置かれた窮地を脱するためには、どうしても外部からの助力が必要で
……もう自分一人の意地ではどうにもできないところまで来てしまった自分を、この
現状から引き上げるために、彼が差し出してくれた、人為的な契機だった。


 その命に代えても守り抜くと誓った主筋の少年と、国家の存続をかけた件の騒動
以来、巻き添えにする形となった負い目を抱いているであろう、盗賊団の首領。
 その二人を、「こちら側」の事情に更に巻き込む結果となる事を承知の上で、セレ
ストは自分に水を向けたのだ。

 男の子モンスターのコンプリートを、お前はどうあっても果たさなければならないは
ずだと。
 弟を……翠明を取り戻すために、その身に受けた呪いを解くために、頼れる筋の
全てを使ってでも、お前はこの境地を切り抜けろと。


 平時の彼らしくもない、にわかには信じがたいほどに、強引な真似をす るものだ
と思う。いつでも人好きのする穏やかな面ざしをしたこの男に、こんな思い切った行
動ができるとは考えもしなかった。

 どれほどの思いを以て……それは、為された決断であったのだろう。


 「……セレスト…」

 自らの独断専行のツケをその身で払わされ、自尊心を踏みにじられる屈辱を味
わわされながら、それでもギリギリのところでかき集めしがみつき続けた、なけな
しの矜持。一度失われてしまったら、もう二度と立ち直れないとまで思いつめたそ
の意地が、自分の中で音を立て、砕け散ったのが解った。


 一度は足元へと落としてしまった視線を意志の力で再び上げれば、そこに自分
の決断を待つセレストの静かな眼差しがあった。頭を巡らせた先には、彼の問い
かけに口を挟むことなく静観の姿勢を通した、アックスとカ ナンの姿がある。

 順に眺めやった彼らの姿が、胸の内から押し出された激情の残滓に滲み、束の
間揺らぐ。瞬きと共に眦から吐き出された思いの発露を、不思議と恥だとは思わな
かった。


 「……捕獲、しますよ。こんなところで、諦める訳にはいかない」
 「白鳳さん……」
 「あれを捕らえないと……スイの呪いは、解けない」


 ややもすれば堰を切りそうになる激情をやり過ごすかのように、意図した仕草で
何度か瞬きを繰り返す。そうしてこみ上げるものを振り払った白鳳は、眼前に立つ
青年を改めて見遣った。




 「……セレスト。切って下さい、このベルトを」





                                    TO BE CONTINUED...



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