1. 5年前のこと(2)
帰宅した勇介が、博士の破滅的に乱雑な書斎を泳ぐようにして机に向かうと、確かにそこには一通の封筒が鎮座していた。
しかも、封筒の下にある本は「3歳からの基礎魔法教本」である。
どうやら本気で勇介を魔法使いにするつもりらしい。
2頭身ぐらいにデフォルメされた可愛らしい魔女の表紙も、今の勇介には小憎たらしく見えてならなかった。
この世界でいう所の魔法使いというのは、技術者にあたる。
電気の代わりのエネルギーが魔力であり、それを扱う技術を魔法と言う。
発電所の代わりにあるのは、「魔力牧場」という、魔力の高い魔物から一般家庭に送る魔力を精製する為の施設だ。
電気の代わりに魔力と言うところ以外は、生活ぶりも町の様子も読者の方の世界と何ら変わりない。
世界地図も全く同じ形をしているし、アメリカもあれば東京もある。
動物の代わりが魔物なのだが、向こう側に魔王が存在しない限りは少々形が違う動物と変わりない。魔王さえいなければ、魔物も魔族も魔に飲まれることはなく、大人しいものだ。
よって、一般人の生活は全くもって魔法とは無関係である。
パソコンを使うことは出来ても、その構造は知らない。と言うのが良い例だ。
空には今日も飛行機が飛び交い、人が箒に乗って飛ぶなんて光景は見られない。
ただし、その飛行機の飛ぶ力は魔力によるもので、魔法という技術を用いて作られている。
その魔法を使って、人々の生活を豊かにすべく四苦八苦してものづくりをするのが魔法使いと言う職業だ。
漫画やゲームで見かけるような、所謂火を出したりという技術も魔法に含まれが、それも魔法使いのみができる技である。
この世界では誰もがいくらかの魔力を持っている。しかし、ただ持っているだけで、その量は微弱であり、それを扱うとしても専門の知識と訓練が必要となる。
つまり、ほとんどの人間は魔法など使うこともなければ、見る機会もないのだ。
魔法使いというのは一部の優れた魔力を有する者たちのみに目指すことを許された特別職であり、誰もが憧れる名誉職でもあった。
ところが、勇介は生まれてこの方魔法などに関心を示した事はない。
直ぐ隣には、名だたる魔法使いの中でも三本の指に入るらしい大賢者の博士がいつもいたにも関わらず、だ。
まあ、実際彼はほとんど日常生活で魔法を使っていなかったので、その素晴らしいと称される腕前にお目にかかる機会も無かったのだが。
とにかく、勇介は魔法を覚えるより友達と外を駆けずり回るほうが良かったし、何が欲しいかと問われれば、立派な杖よりも全自動食器洗い機だった。
「そのおれがこんな立派な魔法学校行けるかっての…」
帝都魔法学院は日本の東京にある、世界一の魔法使い養成学校である。
満12歳から入学を許され、卒業する年齢はまちまち。なぜなら完全実力主義で、クラス分けも年齢別ではなくその生徒の能力によって分けられるからだ。
下級クラス、中級クラス、上級クラス、特進クラス、研究生と5つの階級があり、そのクラス中もいくつかの小クラスに分けられており、それも当然実力分けという、かなりシビアな学校なのだ。
中には、半年に一度行われる全校一斉昇級試験でどんどん飛び級し、小グループどころか階級すら飛び越えていくような変り種もいる。
とは言っても、ほとんどの生徒は大体同じような速度で進級し、20代前半で上級課程を終了してそのまま卒業するので、落ちこぼれさえしなければ普通の学校とそう変わりはない。
しかし、勇介は全く魔法を使えない。
どう考えても落ちこぼれ一直線な気がする。
そもそも、そんな人間がこんな超エリート校に入学できるものなのだろうか。
冷や汗を流しながら封筒を開けると、そこにあったのは案内書だけではなかった。
ひらりと一枚現れた紙にははっきりと記されている。
『帝都魔法学院 第152期生 入学試験受験票 希崎勇介』
受験票の上からポストイットが貼られており、そこに書かれている見慣れた文字は勇介を更なるどん底に突き落とした。
『試験受けなかったら呪いかかるようにしてあるからな。』
そんなわけで。
勇介は今、大荷物を抱えて帝学前駅に立っている。
周りには家族に付き添われた少年少女が口々に励ましの言葉を受け、そして名残惜しげに別れていく。
今、勇介の頭に浮かぶ言葉は「俺は何でここに居るんだろう…」の一つだけだ。
他の子供たちのように、緊張の表情でも、余裕の表情でもない。ひたすらに疑問ばかりが渦巻いている。
たしかに、勇介は2ヶ月前に入学試験を受けた。
博士に恥をかかせることになるのも悪いと思い、試験日までの少ない時間で必死に勉強したが、6割程度しか回答欄を埋められなかった記憶がある。しかも、埋めた所だって多くを勘に頼っている。
にもかかわらず、その後彼の家に届いたのは合格通知だったのだ。
何かの間違いだろうと何度も読み返したが、宛名は「希崎勇介」だったし、合格という文字にしか読めなかった。
学校の方に問い合わせの電話をしても「間違いだった」という言葉を言ってはもらえなかった。
代わりに、「4月5日の入学式には必ず遅れずに出席して下さい。」と言われてしまった。
そして、勇介はここに来たのだ。
由緒正しき魔法使い養成学校、帝都魔法学院に。
新入生たちは、来た順に上級生に誘導されてまずは寮に案内された。
寮の前に長机が設置され、そこで受け付けとなるらしい。
寮の部屋はもう決まっており、名前を伝えると部屋の番号が入った鍵を渡された。
勇介の渡された鍵には1−512という青いプレートがついていた。男子寮1号館の5階、そこが勇介の新居である。
エレベーターホールでエレベーターを待つのは当然勇介だけではなく、何人かの少年たちが到着ランプを見つめていた。
ふと、近くにいた金髪の少年の手の鍵を見ると、1−511とあったので勇介はポロリと言葉をもらした。
「隣の部屋だ。」
その少年が勇介に気付いて顔を上げた。くりっとした青い目に、勇介の深緑の髪が映った。
「変な色…」
「ああ、髪?だよなぁ。これでも地毛なんだ。しかも日本人。」
「へぇ〜。…部屋、隣なの?」
問われて、勇介は彼に自分の鍵を見せた。すると、彼がにっこりと人懐っこい笑顔を見せる。
「すげー偶然!オレ、キュビエ・ラース。寮部屋って変わんないらしいから長い付き合いになるな。よろしく。」
「おれ希崎勇介。…おれとはそんなに長い付き合いにはならないかもよ?」
ちゃんと卒業できる自信ない。苦笑してそういうと、キュビエはそれを笑い飛ばした。
「ダイジョーブだ。オレも実技以外全然自信ない!でも、この学校って自分のペースで進級できるんだからマイペースにやればいいんだよ。」
「そっか。そういう考え方もあるよなぁ。ちょっと安心した。キュビエとここで会えてよかったよ。」
キュビエに励まされ、少し楽になった勇介は学校にきて初めて笑顔を浮かべた。
実に和やかな雰囲気で彼らは部屋までの短い距離をともに歩いた。
「おぉ。もうプレートに名前入ってる!」
キュビエが指さしたとおり、ドアの隣にあるアルミのプレートにはしっかりと名前が刻まれていた。
どこも二人一部屋らしく、1−512には勇介の名の他に「東雲喜一」と記されている。
「ユースケ、お前の同室キイチ・シノノメか!?」
「そう書いてあるみたいだけど…キュビエ知ってんの?」
「そいつ学院長先生の孫だよ!同期にいるって聞いてたけど、隣かぁ。緊張するー。」
学院長先生は勇介の育ての親と並ぶ大魔法使いだ。この世界に属するものたちの憧れの的である。
その孫と言うのだから、やっぱり特別な人だろうか。そんな疑問が浮かび、ポツリと声に出ていた。
「やっぱり、優秀なのかな?」
「だったらラッキーじゃん!勉強教えてもらえる!」
キュビエはとことんプラス思考らしい。緊張すると言っていたわりにはその言い方は既に仲良くなる気が満々なようで、勇介も思わず笑みがこぼれた。
あとで一緒に学校探検をする約束をして、キュビエは自分の部屋に入った。
廊下に残された勇介は鍵を握り締め、じっと扉を見つめた。ルームメイトは先に来ているだろうか。まだ来ていないだろうか。
できれば来ていて欲しい。これから一緒に暮らすことになるのだから、少しでも早く会って仲良くなりたい。
基本的に、勇介は人見知りしない性格だった。人と仲良くなるのも得意だった。
だから、学院長の孫と同室だと聞いてもあまり心配していなかったのだ。
ところが、扉を開けた勇介は固まった。
そこには、ルームメイトと思われる金髪の物体が、体の回りに白いチョークで線を引きたくなってしまう程、見事にぶっ倒れていたからだ。
何故こういうことになるのか。
彼は部屋のど真ん中、冷たいフローリングの床にうつ伏せになって眠っているらしい。微かにその背が上下しているので死体ということだけはない。
倒れている少年の伸びた右手の先には、彼の荷物らしきボストンバッグがあるが、その口が中途半端に開いていて中身が回りに散乱している。
一見したところ、物取りに遭ったとしか思えない光景だった。
おそるおそる彼に近づいて肩をゆすった。
「お、おい。大丈夫か?」
「…………。」
返事どころか微動だにしない。
もしかして、強盗に殴られて脳震盪真っ最中とか。
下手に動かすのはまずいんじゃないだろうか。
勇介は色々な可能性を考えて青くなった。
慌てて誰かを呼びに行こうと立ち上がり、部屋の扉に手をかけたとき、ふと背後で何かが動いた気配がした。
振り返ってみても何も変化はなく、相変らず金髪の少年が倒れているだけだ。
こういった勘をあまり外したことのない勇介が首を傾げて部屋を眺めていると、倒れていた少年の手がぴくりと動いた。
呼びかけても揺すっても、何の反応もなかった彼が唐突に覚醒したらしい。
「……ん、たり…あん?」
「へ?」
のそりと起き上がった彼は勇介のことなど目にくれず、じっと自分の影を見つめていた。
その行動はおかしなものであったが、とりあえずはどこにも外傷はないようだし、散乱した荷物も気にしていないようなので、当初の物取りに遭ったという心配だけは拭われた。
「しののめ…?」
勇介が呼びかけても、影を見ているばかりだ。しかし、その見つめる表情が徐々に苛立ったものに変わってきた。
「…んだよ、呼んでおいて……」
一瞬自分に向けられた言葉かと思ったが、そうではないらしい。彼は相変らず影ばかりを見ている。
何がなんだかさっぱり分からない。
いきなり部屋で倒れているかと思ったら、不自然に覚醒し、突然イライラしている。
かなり、妙な人物だった。
苛立ちに任せてバン、と一度床を叩いたあと、彼はようやく勇介に視線を向けた。
彼の猫のような目には弱冠の憤りがあるようだが、勇介に向けられる視線は好奇なものだった。
しかし、興味深そうにじろじろ見るだけで何も言ってこない。
その空気に耐えられず、勇介は自分から声をかけた。当然笑顔も忘れずに。
「おれ希崎勇介。よろしくな!」
「…………」
「し、東雲喜一って、お前のことだよな?」
「……そう。」
「えぇと、いつ来たんだ?俺も大分早く来たほうだと思うけど、すっごい熟睡してたもんな。」
「…………」
「で、でもまあ!早く来た分入学式まで時間あるし、色々話できていいかもな!」
「…なんで?」
「へ?」
「なんで話す?」
「…だって、仲良くなりたいじゃん。」
「なんで?」
「これから一緒に暮らしてくんだから、仲良い方がいいだろ?」
「なんで?」
「ギスギスしてたら嫌だろ…?」
「なんで?」
「…………。」
勇介は生まれて初めて日本語が通じるのに言葉が通じないという体験をした。
入学初日からかなり大きな試練だった。
しかも、相手はこれから長い間同じ部屋でともに寝起きするルームメイトなのだ。できればこの試練を乗り越えて何とか普通の関係を築きたいものである。
しかし、勇介が必死に言葉を選んでいる間に相手は会話は終わったと判断したらしく、のそのそと片方のロフトに上って行ってしまった。しかも直ぐに寝息が聞こえてくる。
ついさっきまで部屋のど真ん中でぶっ倒れて眠っていたというのに。
今の今まで眠そうな様子など少しもなく話をしていたというのに。
なによりも、これから入学式だというのに。
彼の荷物で散らかった部屋を見て、新生活に多大なる不安を抱いた勇介だった。