「あれ、捨てたの?」  宮下秀洋九段

 

 私が二十歳を過ぎたばかりだったから、あれは1956年だったろうか57年だったろうか。松山に宮下秀洋が遊びに来られた。宮下九段と言えば「福島の猛牛」の異名で知られる強腕の棋士である。1962年王座戦優勝を始め各棋戦で活躍された。

 

 私の師匠小山久義六段が、宮下九段と本因坊の弟子として同門だった縁で、思いがけずも、私が指導碁を打って頂くことになった。四子である。小山師範以外はプロ棋士に打って貰うのは生まれて始めて、ましてや相手は九段である。私がカチカチになったとしても不思議ではない。無我夢中で打っていると終盤近く

 

 「あれ、捨てたの?」

 

 という九段の小声が私の耳元にした。私に石を捨てる芸なんか更々無い。なんのことかと奇怪に思っていると、次にポンと白に一着打たれると、なんと私の大石に生きが無いのだ。そこで、先の私にしか聞こえなかった声の意味が始めた分かった。その声は

 

 「捨てたらまだ打てますよ、もがいたらいけません」

 と言ってくれているのだ。

 

 私は決然と捨てた。実は取られたのだが。そして二目勝たせて頂いた。少なくとも彼がわざと負けたとは言えない。しかしこの可愛いい青年に勝って欲しいとは思った。(当時は私も可愛いかった)。あの声が聞こえなかった周りの観衆は、これを華麗な振り替わりとみたようだ。局後の解説でも

 

 「すっかり私がビフテキにされてしまいました」

 と冗談を交えながら、最期まで丁寧に指導して下さった。

 宮下九段は、197662才の若さで他界された。「猛牛」の綽名が似つかわしくない、スマートで優しい先生だった。

 

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