痛み |
「神子殿。」 朝早くから幸鷹が挨拶に来た。 「こんにちは・・・・・・。」 あの後、頼忠の態度が気になって眠れなかった。寝不足と筋肉痛で精神状態は最悪だ。 「あの・・・お身体の具合はいかがでしょうか?」 「昨日一日寝ていたけど、まだ駄目です。ギシギシ音がしそう。」 首を回し、背中や足を揉みながら顔を顰める。 「・・・・・・・・・。申し訳ありません。」 そんな状態の花梨をどう思ったのか、深刻な表情で俯(うつむ)いた。 「何がですか?」 いきなりの謝罪の言葉に戸惑って尋ねる。 「翡翠殿の事を謝罪したいのです。私は以前から翡翠殿の事を存じておりました。あなたに・・・こんな不届きな振る舞いをするのを予測して警戒するべきでした。」 「不届き?え?ちょっと待って。幸鷹さんが謝る事なんて何も無いですよ?」びっくりして否定する。「あぁ、確かにこんな酷い筋肉痛になるなんて思ってもいませんでしたけど。」 「・・・・・・・・・。」 「でも、これも一つの経験、勉強だと思うし。」 「・・・・・・・・・。」 「何だかんだで楽しかったし。」 「・・・・・・・・・。」 「そうそう、馬って結構高いんですね。上から見下ろすと怖かったです。それ以上に振動も凄くてお尻が滑るし。」 「・・・・・・・・・。―――え?馬?」 予想外の言葉に、幸鷹は床の模様を見ていた眼を上げた。 「・・・・・・・・・。」 「落っこちないようにしてたら変な所に力が入っていたみたいで、お尻だけじゃなくて全身が痛くて痛くて。」 しかめっ面で言う。 「・・・・・・・・・。」 「幸鷹さんも馬に乗るんですか?」 「―――まぁ、乗馬は貴族としての心得の一つですからそれなりに。」 「みんな優雅に格好良く乗っているから、私、簡単だと勘違いしていました。難しいんですね。」 「・・・・・・・・・あの。」 「はい?」 「翡翠殿と何をしていらしたのです?」 眼を瞬かせると、躊躇いがちに尋ねた。 「あぁ、言っていませんでしたっけ?海、海に行ったの。」 「海?」 「そう、海。夕陽が水平線の彼方に沈む所を見ようって言うから。」 「夕・・・陽・・・・・・・・・。」 その言葉を理解するのに、かなりの時間を必要とした。 「間に合わないからって、物凄いスピードで走るんだもん、振り落とされないように翡翠さんにしがみ付いちゃった。」 翡翠さんが私を落とす訳は無いんだけどね、と笑う。 「・・・・・・・・・。」 「本当は満天の星が海に映っている所も見たかったけど、さすがに寒くて風邪を引いちゃうからって止められちゃいました。」 「・・・・・・・・・。」 「で、帰りは行きよりもゆっくりに走ってくれたから怖くなかったです。」それとも慣れたのかな、と首を捻る。「それでね。走っている間中ずっと、色んな恋物語を聞かせてくれたの。物知りなのは知っていたけど、あんなにも多くの恋物語を知っていたのには驚いたよ。」 「・・・・・・・・・。」 一人感心して頷く花梨を呆然と見つめる。 ―――抱き合って夜を過ごしただけ――― ―――つい無理をさせてしまった――― ―――大人の恋を教えて差し上げようと――― ―――一度も嫌だとはとはおっしゃらなかったよ――― ―――私にしがみ付いていたよ。震えながら――― 嘘は言っていない。確かに、翡翠は嘘を言ってはいない。だが―――。 『あなたという人は―――っ!』 膝の上に置いた手が固い握り拳となり、わなわなと震える。 「でもね、悲恋物ばかりなの。私はやっぱりハッピーエンドが好きなんだけど。」 「悲恋物?」 「そう、哀しい恋物語。好きになった人には他に恋人がいたとか、天女に恋したけど天女は天界に帰ってしまったとか。」 『翡翠殿?』 「今度は恋人同士が幸せになった話が聞きたいな。」 「・・・・・・・・・。」 「でね、夕陽が海に沈んでいくのって、海に溶けていくみたいだね。人魚姫が泡となって海に消えましたって感じ。綺麗だけど儚いっていうか、見ていて切ない気持ちになる。」 「・・・・・・・・・。」 「何時か日の出も見てみたいなぁ。日の出は一日の始まりだから幸せな気持ちになれそうだもんね。でもあんな遠くまで行くのは無理か。歩くにも牛車でも辛いよね。」 頭を振り振り残念そうに呟く。 「そうですね。しかし乗馬はコツさえ掴めばそれほど難しくはありませんよ。余裕を持って出発して休憩しながらならば神子殿でも大丈夫だと思いますよ。」 「う〜ん、でも乗馬はなぁ・・・・・・。」 「一人で乗るのが不安でしたら、得意な者に乗せて頂けば宜しいのではありませんか?会話しながらでしたら恐怖感もまぎれましょうから。」 「あ、そうか。」膝を打つ。「今回は翡翠さんに連れて行って貰ったんだし、次も誰かに頼めば良いのか。じゃあ、今度頼忠さんに―――。」 言葉が止まる。 「神子殿?」 「・・・・・・・・・。」昨夜の頼忠の態度はおかしかった。毎朝挨拶に来てくれていたのに、今日は来てくれなかった。用事があるとの文も無かった。何か、自分は何か嫌われるような事をしてしまったのだろうか?「ねぇ。頼忠さんは―――。」 「頼忠がどうかしたのですか?」 再び言葉途中に黙り込んでしまった花梨に尋ねるが。 「あ、ううん。何でもない。何でもない・・・・・・。」 「・・・・・・・・・。」 「・・・・・・・・・。ごめんなさい。疲れたから休みます。」 「あ、申し訳ありません。お疲れのところを御無理させてしまって。」ささっと立ち上がる。「神子殿は明日、物忌みでしたね。ゆっくり休んで下さい。」 「ありがとう御座います・・・・・・。」 機械的に答えると、御簾まで見送る。 「では。」 「・・・・・・・・・。」 ゆっくりと頭を下げ、そして上げた。しかし背中を見送る事も無くその場に座り込む。 「いない・・・。どこにも・・・・・・。」 何時もは控えている筈の男の姿を探して、庭をずっと見つめる。だが、遠くの物陰から花梨を見つめる視線には気付かなかった。 「神子殿、あなたは・・・・・・。」 門を出た幸鷹は振り返って屋敷を見上げた。 ―――花梨は人の子だよ。温かい血の通った、ごく普通の女人だ――― ―――手に入れたいと、本気で願うよ――― 「えぇ、確かにその通りです。」 ―――夕陽が海に沈む――― ―――哀しい恋物語――― 「次は・・・私の番ですね・・・・・・。」 先ほどまで感じていた翡翠への怒りが他の思いに変わった。大きく息を吐くと歩き出した。 警護のお役目を与えられている義務感でこの屋敷を訪れはしたが、少女の姿を見るのも声を聞くのも辛く、室の側には近付けない。離れた場所から怪しい人影は無いか、注意を払っていた。しかし、自然と御簾の側に座り込んでいる少女へと眼は吸い寄せられてしまう。 「神子・・・殿・・・・・・。」 何時からだったのだろう。一つの役目としか考えていなかった少女の恋人役、それを楽しむようになったのは。そこから喜びを得ていたのは。暖かい笑顔、明るい笑い声。そして予想外の言動に惑わされ、幸せを感じるようになったのは。少女の傍にいられるのはこの頼忠だけで、それが当たり前のように感じていた。だが。 「それは・・・ただのお役目、だった・・・・・・。」 この幸福な時間は、幻、だったのだ。少女が本当の恋をすれば、恋人が出来れば終わる、おままごとの恋人役。 「美しくなられた・・・・・・。」 今も幼さの残る可愛らしい少女。だが、遠くを見つめるそれは、想う男を探す女の眼差し。 翡翠に連れ去られたと知った時、その場にいなかった事を悔やんだ。お守り出来なかった事が申し訳なくて。 だが、少女にとって悦びに満ちた時間だと知った時の衝撃は、耐え難いほどだった。生命を賭けても守ると誓った筈の主が、己にとって笑顔を守りたいと願う唯一の女人だった事が。そして同時に、この少女が手の触れる事の出来る女(ひと)であった事を知った時には、もう既に抱き締めた男がいるという事実が。 |
注意・・・第4章後半。『波紋』の翌朝。 おいおいおいおい(呆れ)。 2007/07/01 02:37:31 BY銀竜草 |