『―――梅の香りに包まれて―――』 |
「これって・・・梅の木、ですよね?」 花梨は突然、一本の大きな木の傍に寄った。 「えっ?あぁ、そのようですね。それがどうか致しましたか?」 ありふれた、どこにでもある木に関心を持つ少女に、一緒に居た頼忠は首を傾げた。 「随分大きな木ですね。花が咲いているところを見たかったな。綺麗だろうなぁ。」 残念そうに呟く。 「梅の花がお好きなのですか?」 「一番好きな花です。」微かに笑みが浮かぶ。 「これほどじゃないけど、私の家の庭にも大きな梅の木があって、春には凄く綺麗な花が咲くんです。花の甘い香りが家中に香るの。」幹に手を触れる。 「・・・・・・・・・・・・・・・。」頭を幹に付けると、眼を閉じた。 「・・・・・・・・・・・・・・・。」 頼忠は、自分の世界の事を思い出して感傷に浸っている少女を、ただじっと見守っていた――――――。 夜。 昼間、梅の木を見たせいか、花梨は眠れずにいた。 家の庭には大きな梅の木がある。 父と母と、そして私。 幸せの象徴とも言える、沢山の楽しい思い出がある木・・・・・・・・・。 今は皆がみんな、私を信じてくれているのに。優しくて親切にしてくれて、そして色々と気遣ってもくれているのに。不満なんて無い筈なのに。それなのに。 自分の世界が、家族が恋しくて寂しさと悲しみに押し潰されそうになってしまう。逃げ場など無くて、頑張るしかなくて、泣いている暇なんて無いのに。 燈台の火がゆらゆら揺れている事さえ、不安を煽るようで落ち着かない。 花梨は袿を一枚羽織ると簀子に出る。そして、ぺたりと座った。 見上げれば、きれいに冴え渡る月が見える。 「この月は、お母さん達が見ているのとは違うんだ・・・・・・。」 高欄にもたれると目を閉じる。 『風が・・・気持ち良い・・・・・・・・・。』 今だけ。今だけで良いから。ほんの少しの間だけで良いから。明日からまた頑張るから。 だからお願い――――――優しい思い出の夢を見させて――――――。 「ん〜、よく寝たぁ!」 花梨は起き上がると思いっきり背伸びをした。久し振りにぐっすりと眠れたせいか、気分もすっきりしている。 「何かすっごく幸せな夢を見ていたような気がするんだけどなぁ。」 起きたと同時に忘れてしまったのは、何時もの事だけど残念だ。でも、幸せな気分が残っているからそれだけでも嬉しい。 「さてと。着替えようっと!」 枕元に置いてある服に手を伸ばした時、初めて気付いた。 「あれ?香炉・・・?」手に取って見ると、微かに甘く、優しい香の匂いがする。「私が寝ている間にお香を焚いてくれたんだ。これのおかげかな?良い夢が見られたのは。」 「神子様、おはよう御座います。」 その時、神子の身支度を手伝う女房達が入ってきた。 「あら?顔色がよろしいですわ。よく眠れたようですね。」 「うん、こんなにすっきりした気分なのは久し振り!このお香のおかげかな?有難う!」 にっこり笑顔の花梨とは対照的に、女房達は不思議そうに顔を見合わせる。 「お香、ですか?私達は知りませんが。」花梨の持つ香炉を手に取り、眺める。「これは良い品ですが、どちらかと言うと殿方が好まれる物です。神子様にこれを使う女房はいないと思うのですが。」 「えっ?そうなの?じゃあ、誰がこれを焚いてくれたの?」 女房達は再び顔を見合わせる。 「神子様の御寝所には、気安く入れる者など少ない筈なのですが・・・・・・。」 「申し訳ありません。礼儀知らずの者がいたようです。もう少し教育をきちんと致します。」 年かさの女房が謝る。 「うん?別に謝らなくて良いよ。それどころか、これを焚いてくれたおかげで気分が良いんだから、お礼を言いたいぐらい。」花梨は苦笑する。「良い香りだね。何と言うお香なの?」 「梅香、ですわ。梅の香りです。お気に召したのなら、今度、衣に焚き染めてみますか?」 「えっ、いいの?」 「はい。京の者は皆焚き染めております。今まで気付かず申し訳ありません。」 「この香りが気に入ったんだけど、これ、使っても良いかなぁ?」 「置いてあったのですから、大丈夫だと思いますわ。では、神子様が外出なさっておられる間に準備しておきますね。」 「お願いしま〜す♪」 花梨は一人になると、香炉を眺めながら考えていた。 女房達ではないとすると、考えられるのは仲間の八葉の誰か。気配りは全員がしてくれるけど、風流な事をこっそりやるのは翡翠さんが一番可能性が高い。 「だけど翡翠さんなら、香炉にも気配りしそうだもん。翡翠さんじゃないような気がする・・・・・・。」 いくら考えても解らない。 気分を変えようと室を出ると簀子に座り込んだ。そして、衣の袖に鼻を近付けて移っていた微かな匂いをかぎながら考え込む。 確か、勝真さんが梅香の香りが好きだって言っていたっけ。だけど、勝真さんが使っているのとは微妙に香りが違うような気がする。それに、夜は頼忠さんが警護しているから、普通、私の部屋には入れない。――――――入れない? 「あれ・・・・・・?」 もう少しで解ると考え事に集中していた花梨は、頼忠が怒った表情で近付いてくる事に気付かなかった。 「神子殿!またそのような薄着で簀子に出られて、お風邪を召されたらどうなさるのですか!」そう言いながら、ひょいっと花梨を抱き上げた。「室にお連れ致します。」 「うわっ!」 花梨は、慌てて頼忠の胸に手を当てると顔を見上げた。 すると。 ふわり。 自分に染み付いたのと同じ梅香の香り。それが頼忠からほんの微かに匂っている。 「頼忠さん、ありがとう。」 「え?」突然花梨からお礼を言われて戸惑う。「どうなさったのです?」 「お香焚いてくれたの、頼忠さんでしょう?おかげでぐっすりと眠れました。」 「あ・・・。」どう誤魔化そうかと眉を寄せて考えるが、その前に言われてしまう。 「頼忠さんから、私と同じ香りがします。」 「あっ!そのぉ・・・。」一瞬、しまった!との表情をしたが、すぐに諦める。「以前、梅香の香を手に入れたのですが、私は使わないので仕舞い込んでいたのです。ですが、神子殿が梅の香りがお好きだとおっしゃられたので。」 「はい、梅の香りは大好きです。でね、あの梅香の香りも大好きです。」頼忠の腕から降ろしてもらいながら、笑顔で言う。 「お気に召して頂けて、よう御座いました。」眉間の皺が消え、代わりに微かな微笑を浮かべる。 「あのお香、これからも使いたいんだけど・・・・・・。」遠慮がちに尋ねる。 「あれは神子殿に差し上げたのですから、ご自由にお使いください。」 「本当?貰っちゃって良いの?」目を輝かせる。「やったあ!嬉しいっ!頼忠さん、ありがとうっ!!」頼忠の手を握ると、ぶんぶん振り回す。 「お礼をしたいんだけど、何かありますか?」 「いえ、神子殿が気になさる事はありませんっ!」顔色を変える。「主の望みを叶えるのが従者の役目。私の事はご自由にお使い下さい。」 『主と従者って頑固だなぁ・・・。』花梨は内心苦笑する。だが、何度言われようと頼忠を従者だなんて思えない。 それに、今まで怖いぐらいの生真面目な表情しか見た事が無かったのに、今日は色々な表情が見られて楽しくてしょうがない。頼忠が困っているのは解るのだが、そんな表情をさせるのは自分だけだと思うと嬉しい。 「私は頼忠さんの望みを叶えたいな。出来る事は少ないけど、何か一つ願い事を言って?私、頑張るから。」 「神子殿・・・・・・。」頼忠は困ったように言うが。 「私の望みを叶えるんでしょう?ほら、考えて!」花梨は全く気にしない。「今すぐじゃなくて良いから、ゆっくり考えてね?楽しみにしているから♪」 「・・・・・・・・・・・・。」言葉通り、あまりに花梨が楽しそうにしているから、断れずに承諾した事になってしまう。『困った・・・・・・・・・・・・。神子殿に叶えて欲しい『お願い』は唯一つ。言える訳が無い―――。』 その日から。 花梨は、部屋でも衣からでも頼忠のくれた梅香の香りに包まれる。 そして。 香炉を見る度に、その香りを感じる度に、自分の何気ない言葉の一つにさえ心に留めて、優しく見守ってくれているひと男の存在を思い出す。 それが、安心感だけでなく、幸せにしてくれて――――――。 あの後。 花梨は頼忠と会う度に尋ねる。「頼忠さんの『お願い』って何ですか?」と。 「外出の供に付きたい。」 「物忌みの付き添いをやりたい。」 「休みの日の話し相手をしたい。」 頼忠は悩み考え、勇気を振り絞って『お願い』をするのだが。 「それは頼忠さんが言わなくても私から頼みます。だから、それは『お願い』にはなりません!」却下されてしまう。 「我が儘を言えば良いの!ほら、考えてっ!」 「・・・・・・・・・・・・・・・。」 己が贈った梅香の香りに包まれた少女。言えない願いを望む気持ちは強くなるばかり。 結局。 頼忠が心から叶えて欲しいと願った事を言えたのは、神泉苑での最後の戦いの後。 それは。 花梨が頼忠に叶えて欲しいと願った事と一致していた―――――――――。 注意・・・第3章初めの頃。 花梨が寝ている間の話は『―――梅の香りに包まれた貴女―――』 テーマは『梅香のお香』。 頼忠が花梨に梅香の香を贈るという、ほのぼのとした話を書くつもりでした。 が。 最初は、シリアスな内容となってしまって却下。次に書いたら・・・頼忠が犯罪者にまで暴走してしまって、またもや却下。何度書き直しても、どうやっても暴走する頼忠。ほのぼのとした、可愛いお話が書きたかったのに〜〜〜!! もう諦めます。だけれど、その部分は別作品として分けました。 2004/08/20 02:58:40 BY銀竜草 |