恋人1



「神子殿、困った事になったよ。」
りんの室に入って来た翡翠は、開口一番そう言った。
「どうしたんですか?」
のんびり白湯を飲んでいたりんは、顔を上げた。
「最近、こちらの都合も考えずに昼夜問わず押し掛けて来ては付き纏う女人がいるのだよ。」りんが差し出した円座にゆったり優雅な仕草で座った。「明王の課題が終わったとはいえやらなければいけない事も多いというのに、こちらに伺う事が容易でなくてね。それに町中で出会うと騒ぎを起こされるから、気軽に出歩く事も出来ない。」
「はぁ、そうですか。」
気の無い返事を返した。翡翠は困った困ったと言いながらもどこか楽しそうだ。大体この翡翠が一人の女に手を焼くなんて事があるのか?信じられない。
「それは翡翠さんがどうにかして下さい。まぁ、手伝えるような事があれば喜んでするけど。」
社交辞令的な気持ちで軽く言ったのだが、途端、翡翠が嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そう、それで助けて貰えまいか、と思っていたのだよ。」
椀を持ち上げ、ごくりと飲む。一呼吸間が開いた後。
「何ですか?」
警戒するような瞳で訊いた。
「あまりにしつこいから、つい、通っている女人がいると言ってしまったのだ。」
「へぇ?」
だから、と続きを話すように眼で促す。
「しかしこの前も言っただろう?最近はこちらのお役目で忙しくてね、いないのだよ。フリをしてくれるように頼めるような女人もね。」
「ふ〜〜〜ん。じゃあ、ここの女房さんに頼んでみようか?翡翠さんなら喜んでしてくれるよ。」
「いや、そうでは無くてね。」脇息に肘を付けると手の甲に顎を乗せた。「色々と後が面倒だから、実際にはいない女人が良いのだ。」
「・・・・・・・・・。」その言葉を繰り返し考える。が、何度考えてもよく分からない。眉を顰めた。「つまり、どういう事ですか?」
「君に頼めないかと考えているのだ。」
「―――は?」
「女姿となって私の恋人のフリをしてくれまいか?」
「はぁ〜〜〜〜?!」
思いがけない頼みに、室中に響き渡るほどの素頓狂な声が口から飛び出した。



その夜、神子の室の前の庭ではコソコソと動き回る影があった。
『お前らも来たのか?』
イサトがみんなの顔を見回しながら小声で訊いた。
『えぇ、気になったものですから。』
泉水が答えると、彰紋と泰継が慎重に周りを見回した。
『翡翠殿は女人では危険が及ぶかもしれないと仰っていたそうなので、りんさんは大丈夫なのか心配で・・・・・・。』
『神子を守るのは八葉としての役目だ。』
『だけど、翡翠の手に負えない女なんているのか?どうせりんで遊んでいるだけだろ。』
『それはそうなのですが、ですが万が一、という事もありますし・・・。』
幸鷹がもごもごと呟いた。
「・・・・・・・・・。」
そんなみんなの会話を頼忠は眉を顰めながら聞いていた。翡翠の事だから、そして頼忠が警護をしているのだから、何の心配も無い。それなのにこ奴らが此処にいる理由は。


「何でこんな事になっちゃたんだろう?」
花梨は室のど真ん中で呟いた。
女装なんて嫌だ無理だと散々言ったのだが、運が悪い事に翡翠に口で対抗出来る幸鷹や勝真、泰継といった人はいなかった。他の案も思い浮かばないうちに、その女が諦めてくれなければ役目を果たす事は無理だから、と押し切られてしまったのだ。
「ごり押しは翡翠さんの言う無粋ってもんじゃないの?」
豪華で美しい衣を纏い、薄く化粧して髢まで付けていた。鏡で姿を映して見ると、センスの良い翡翠自らりんの為に見立てただけあって、自分で言うのも何だが中々似合っている。花梨の世界では普段出来ない格好だし、久しぶりにおしゃれ出来た事は正直楽しかったし、嬉しい。そう、喜んでいるのだが。
「女とバレたら困るんだけど・・・・・・。」
嘘をついていた事に怒る者もいるだろう。ヘンに気を遣うようになって遣り難くなるかもしれない。何より、無理をさせないようにと役目を先延ばしされるような事になったら困るのだ。今までの苦労が無駄となってしまう。
「私よりも美人な男の人って沢山いるし、大丈夫、だよね。うん、大丈夫・・・・・・。」
泉水や彰紋を思い浮かべながら呟いた。しかしバレなければ、それはそれで悲しい。乙女心は複雑だ。


『それにしたって、りんに女装してくれと頼むなんて翡翠は何を考えているんだ?いくらあいつがちっちゃくて華奢だと言っても男だからな。女のフリなんて出来るのか?』
『そうですね・・・・・・。』
勝真が弓を抱え直しながら言うと、彰紋が複雑な顔で頷いた。
『慣れてない衣ですから、ぎこちないでしょうね。』
『笑ってやれば良いさ。からかってやればさ。』
幸鷹やイサトまでそんな事を言うが、眼は神子の室の辺りを彷徨っている。
『お前ら、神子殿の女姿が見たいだけではないか・・・・・・。』
頼忠は己の感情は棚に上げて一人怒っていた。


「翡翠さん、まだかな・・・?」
通い婚であるこの世界では、恋人の訪れを首を長くして待っている女性も多いのだろう。こんな落ち着かない気持ちのまま。
「・・・・・・・・・。―――バカらしい。」
少し大きめな声で言うと鏡を放り投げた。翡翠は恋人でも何でも無い。しかも、りんは男だと思っている筈。そんな男を待ってドキドキしているなんて馬鹿馬鹿しい。
「気分転換でもしようっと。」
何もする事の無いまま一人でいるより、雪の降る庭でも眺めていれば暇つぶしになるだろう。立ち上がると、そのまま室を出た。


『う〜、寒っ。今日はやけに冷え込むな。』
夜、それも雪が積もっている庭にただ突っ立っていれば身体が冷える。勝真が普段まともに着た事の無い上着をきっちりと羽織った。
『翡翠殿は何時来るのでしょう?』
『屋敷の者はみんな休まれたようですし、そろそろだと思うのですが。』
退屈しだし、門の方を見たり周りを見回したり、ウロウロと歩き回る。
と。

カタリ。

『静かにしろ。―――出て来た。』
御簾が捲られたのに気付いた泰継が、みなを制止した。


格子が一つだけ閉じられていない。そこから外を覗いた花梨は手を擦って温めながら空を見上げた。昼間は吹雪いていたが、今は星が出ている。
「あれ?雪は止んだんだ。良かった・・・・・・。」
しかし簀子は濡れている。廂に腰を下ろすと格子板に寄り掛かった。
庭を見回したが、頼忠の姿は無い。さすがに寒くて警護は止めたのだろう。風邪をひく恐れが無くなってホッとするが、同時にがっくりと肩を落とした。心配してくれる優しい瞳に逢えない事がこんなにも淋しいと思うとは、少し前なら考えられなかった事だ。ため息を吐きながら、頼忠が普段立っている場所を眺める。


『あれは・・・、神子殿?』
幸鷹の唇から感嘆のため息が零れ落ちた。
廂に座り込んで外を眺めているのは、長い髪を背中で一つに縛り、何枚もの袿を重ね着しているひと。その顔はりんと驚くほどよく似ている。しかし、どこからどう見ても、女、だ。
『りん、だよな。』
『はい、そのようですね。』
赤面しつつも確認するように呟き、お互いに頷き合う。
確かにりんは可愛い顔をしているが、女と見間違えるような綺麗な顔の男は何処にでもいる。しかし、悩ましげにため息を吐くその姿はあまりにも儚く、心が騒ぐ。瞳が吸い寄せられたまま、離せない。
『・・・・・・・・・。』
『・・・・・・・・・。』
抱き締めたい、と本気で思う。額に頬に唇に口付け、その憂いを取り除いてやりたいと、心の底から願う。
『りんが女なら・・・・・・っ!』
胃の辺りに握り拳を押し付け、じっと魅入る。


ザクリ。

しかし、雪を踏みしめる足音が聞こえて来て我に返った。


ザクリ。ザクリ。ザクリ。ザクリ。
翡翠が木陰に隠れている男達に一瞬視線を投げ掛けると、口元に笑みを浮かべて階に歩み寄って行く。


『りんさん、大丈夫でしょうか?』
彰紋が心配そうに眉を顰め、隣にいるイサトの腕を掴んだ。
『あれでもあいつは男だからな。翡翠は女タラシだが、男には興味無いだろう。』
何時の間にか逆上するかもしれない女の存在ではなく、側に寄って行く男の心配をしている。
『あぁ。翡翠だから大丈夫だと思うが―――。』言葉が止まり、一瞬考え込む。と、勝真はチラリと頼忠を見ると眉を顰めた。『いや、心配は心配だな。』
全員が翡翠の背中を睨むように見つめる。


「やあ、姫君。こんな寒い所にまで出て来るとは、私の訪れを待ちきれなかったのかな?」
「翡翠さん!」
突然暗闇から現れた男に、飛び上った。
「嬉しいよ、姫。」眼の前で跪くと、りんの手を取った。「こんなに冷えてしまって可哀想に・・・・・・。」
その指先に口付けた。
「うわっ!いきなり何をするんですか!?」
真っ赤になって悲鳴を上げた。


「むっ?翡翠!!!」
隠れている男の一人が腰の太刀に手を掛けると、駆け出した。
「うわっ!?よ、頼忠!」
「馬鹿!落ち着け!!」
木の陰から飛び出す寸前、勝真が頼忠の襟首を掴んで引き留めると、イサトが身体ごとぶつかって押し倒した。
「あやつ、神子殿に不埒な真似を―――!」
『し、静かにっっ!』
『誰か来ます!』
彰紋と泉水がその身体の上に乗っかると、手で頼忠の口を塞いだ。
『女、です。』
『女人ですね。』
『ではこの方が問題の・・・・・・?』
息を潜めて女を見つめる。その女は長い髪を背中で一つに縛り、町娘にしては豪華な衣を纏っていた。美人の部類に入るが、気位が高そうで高慢ちきな雰囲気を醸し出している。
『翡翠の係わりたくない気持ちがよぉ〜〜〜く分かったよ。』


ザクリ。ザクリ。
「ヘンな音がしたわ。何かしら・・・・・・?」
キョロキョロと辺りを窺っている。


『う・・・・・・。』
ど、どうしよう?と焦っていると、
「みゃあ。・・・・・・みゃあ。」
彰紋が猫の鳴き声を真似た。女の動きが止まったのを見て、他の者達も一斉に裏声を使って鳴き声を真似る。
「ふんみゃあ!」
「にゃあ〜。」
「みゃお〜〜〜。」


「猫。何でこんな所に猫が?―――いえ、そんなのはどうでも良いわ。」視線を建物にいる二人に戻した。「翡翠殿・・・・・・。」


「私の責任だからね。お風邪を召さないよう、温めてあげよう。」
「なっ!?」
ひょいっと抱え上げると奥へと入って行った。










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