雪の夜に。1





「〜ぁあ、寒っ!」


自分の身を自分の腕で抱えるようにしたまま、半ば体当たりのようにコンビニの扉を開いた時任は、店内のあたたかい空気に、やっとホッとしたように肩の力を抜いた。

顔、凍りそー。耳冷てえ。
鼻水出そ。
…最悪。

心の中で纏めて誰に言うでもなく悪態をつくと、とりあえず商品の陳列されている棚に向かい、目的のものを探し出す。
そして、しっかり"カロリーメイト・チーズ味"の存在を確認すると、それを手にとってすぐさまレジに向かおうとした。
が、やっぱり、もうちょっとあったまってからでいっかと思い直し、そのままチーズ味を棚に戻して雑誌コーナーに向かう。
指先はもう、マンガのページを捲るのもやっと、という感じに凍えていたから、読み飛ばしたくもないのに2ページくらいが一緒に捲れてしまう。

”ああもう、クソ…!”


苛ついた様子で雑誌を読み出す時任を嘲笑うかのように、店の外ではちらちらと白い粉雪が舞い始めていた。








いつの間にか、すっかり立ち読みに没頭してしまっていた時任が、毎週チェックしている連載のマンガを一通り読み終えて、本を閉じ満足げに顔を上げる。
そして、”何時だ…?”と店の時計をちらりと見、一瞬で固まった。

――家を出てから既に、一時間は軽く経過している。

(わ、やべ…! もうこんな時間…! 久保ちゃん、風呂だったから何も言わずに出てきちまったのに!)

焦りつつ雑誌を棚に戻し、とにかくカロリーメイトと、菓子の棚から激辛スナックを1つ選んで、ついでにピスタチオと缶ビールを2つ籠に放り込み、時任が大股でレジに向かう。
そして早々に会計を済ませると、足早に出入り口へ向かい、その扉を押そうとして―。
目に入ってきたガラスの向こうの景色に、時任はぎょっとしたようにその場に立ち竦んだ。



「うっそ…」



いつのまにか降り出した雪が既に積もり出していて、そこには、来た時とはまったく違う真っ白い世界が広がっていたのだ。

時任が驚きのあまり目を見開き、ガラス越しの空を仰ぐ。
そして、まったく止む気配のない雪に、はぁあ〜と力無く溜息を付いた。
(寒そ…)
考えただけで凍えそうで、いっそ迎えを頼もうかとも考えるが、携帯電話も上着と一緒に家に忘れてきてしまったことを思い出し、時任はさらに脱力したように肩を落とした。

あーあ、ったくよぉ…。

内心で舌打ちし、それでも”こうなりゃ仕方ねえ”とばかりに、時任は一気に店の扉を開いた。
とりあえず、あーだこーだ考えているうちに、とっとと走って帰るのが一番の得策だと考えたのだ。
が、店の外に出るなり、ビュウ――!と強い風に吹かれ、決心も空しく思わずそこで立ち止まる。
「さぶっ!」
薄手のセーター一枚だけを纏った身を、絞るように両腕で抱いて首を縮めると、呆れたような声が頭上からそれに答えた。


「そりゃー、上着も着てないんだもん。寒いに決まってるっしょ?」


「え?」
驚いて振り返ろうとするなり、この雪にも関らず店の前で煙草を吸っていたらしい人影が近づき、ばさりと時任の肩にコートをかける。
そして、ごく自然な動作で、時任の手から買い物袋を取り上げ、自分の左手に移した。
「久保ちゃん…」
「とりあえず、ちゃんと着なさいって。そんな格好じゃ風邪ひくよ?」
言われて、"ああ、そうだな"と納得して、肩に掛けられた自分のコートに時任がささっと袖を通す。
「さ、じゃあ。帰ろっか」
「お、おう」
時任がコートを着終わるのを待って、煙草を消しゴミ箱に投げ捨てると、久保田がゆっくりと歩き出す。
その横に小走りで時任が並ぶと、少しばかりバツの悪そうな顔で久保田を見上げた。
「てか、なんで、俺がここにいんのがわかった?」
「近くのセブンに、お前いなかったし。ここかなぁって」
「…他にもいくつかあるじゃんか、コンビニなんてよ。なんで、ココ?」
「うーん。愛の力、かなぁ」
「はあ? なんじゃそりゃ」
「"なんじゃ、そりゃ"はないっしょ? せっかく、コート持ってきてあげたのにー。しかしま、なんだってこんな夜中に、こんなトコまで来たの?」
「だって、いつものセブンがよー、また"チーズ味"売り切れでさ。しようがねえし。ったく、なんだってこの時間になると品切れになってんだか知らねぇけどよ。しょっ中買ってやってんだから、俺様の分一個ぐれぇきっちりキープしとけっつーの!」
「そぉねえ。今度、店員さんにでも言ってみたら?」
「…ったくよぉ」
久保田の提案に肯定するでも否定するでもなく、ただ拗ねたように口を尖らせる時任の顔を見下ろして、久保田がくすりと笑みを漏らす。
「それにしてもねぇ。いくら近くのコンビニ行くつもりだったからって、冬の深夜にコートも着ないで外出るなんて、かなり自殺行為よ、お前」
「だって、忘れたんだもんよ。しようがねえじゃん! 部屋ん中あったかかったから、上着とか全然気がつかねぇで、そのまま財布だけ持って靴履いて、玄関出て」
「玄関出たら、寒かったっしょ? 普通、そこで引き返さないかなぁ」
「だって、メンドーじゃん。靴履いて、久保ちゃん鍵かけてけってうるせぇから、ちゃんと鍵もかけた後だったしよー。もーいいや、行っちまえ!って。どうせコンビニなんて、すぐそこだし」
「やれやれ…」
叱られた子供のように言い訳をするだけして、また拗ねたような顔になる時任に、久保田が眉を下げて肩を竦める。
それでも、迎えに来てもらったことは相当嬉しかったらしく、凍てつきかけた道の上でさえ、時任の足取りは軽い。
拗ねたような顔にはいつも、照れ隠しも含まれていることを充分に解っているから、久保田はもうそれ以上は何も言わなかった。

「あ!」
「ん?」
「悪ぃ…」
「なーに?」
「風呂入ってたよな、お前」
「俺? うん。それがどうかした?」
「湯冷めしちまっただろ。俺んせいで」

言って、さも申し訳なさそうに"ゴメンな?"と詫びる時任に、一瞬驚いたような顔をして、それからやさしげに目を細めて久保田がほくそ笑む。
我が儘で気ままな"俺様猫"ではあるけれど、基本的に時任はそういうところにはよく気がつく。
最も、だからこそ余計に、相手が時任ならどんな我が儘でも聞いてやりたい気分に、久保田をさせるのだが。

「…お前ってさ」
「ん?」
「いっつも思うんだけど」
「うん」

「――かわいーよねー?」

「はあ?! んだよソレ! ヤローに向かって可愛いはねえだろ! 俺様、カッコいいの、可愛いくはねーの!」
「そう? そうかなぁ」
「そうなの!」
「はいはい…」
目を吊り上げて怒りつつも、その頬が微かに染まっていることに、久保田が満足げに笑みを漏らす。
「あ、笑ったな、久保ちゃん!」
「いやぁ、笑ってないけど?」
「嘘つくなよ、今なぁ―」
言い募ろうとした途端。その火照った時任の頬を冷やかすかのように、突如、強い風が足下の雪を巻き上げるようにビュッと吹き、時任が思わず身を縮めるようにしてぶるっと震える。
「うぉ、寒っ!!」
「寒い?」
「って、聞くなよ! 寒ぃに決まってんだろーが! 久保ちゃんこそ、んな平然とした顔して寒くねぇのかぁ?! あ〜〜ッ、寒〜!」

「寒いよ、俺も」

「え?」

言うなり、自分の黒いロングコートの裾をバサッと雪の中に翻すように開いて、久保田がその中に時任の身体を抱き込むように招き入れる。
まるで、親鳥がその暖かな羽の下に雛鳥を守って抱き包むように。
久保田のコートにくるまれ、ぎゅっと肩を抱き寄せられて、時任が驚いたように久保田を見上げる。

「く、くぼちゃん…」
「俺も寒いしね。けど。こうしてると、ちょっとはあったかいっしょ?」
「って! こ、こんな往来のど真ん中で…!」
「でもこんな雪の夜中だし。他に、誰も歩いてないじゃない?」
「だ、だからってよぉ…!」

真っ赤になって喚き立てる自分とは対照的な、真っ白で閑散とした深夜の街に、それにふと気づいて、時任が久保田のコートの中からその白い風景を見渡す。





真っ白いだけの世界。
普段なら深夜といえど、人の気配も車の行き来も完全に途絶えることなど無い筈なのだが。
人も車も、どこに行ってしまったかと思うほど。
そこには、ただ、真っ白な世界が広がっているだけだ。





この世のすべてが白一色に覆われて、その中にぽつんと2人だけが取り残されてしまったような。





「なぁんか―。静かだよな、雪の夜ってさ」
「そうだねえ。何か、こう―。 この世界に、俺たち二人っきりしかいないみたいな?」
「あぁ、マジでそんなカンジ…」
時任が、呟くように答える。




その間にも、雪はしんしんと降り積もっている。
もう、世界中が、この色ですっかり埋め尽くされたような錯覚に陥るほど、物音1つ聞こえない。
――まるで、世界が二人だけを残して、全て滅びてしまったかのように。





本当に、そうだったらいいのに。




久保田の心が、つい、本音を吐露する。
その余りにも明らさまな想いに、一人微かに苦笑を漏らした。





目の前の世界は、己の心の黒さを暴き出すように、白い。
目を逸らしたくなるほどに。
まるでその責めるような純白が、自分の立つ足下から溶け出した黒に、徐々に浸食されていくような、そんな幻覚さえ見えてしまいそうだ。
もしくは、白いだけの虚無の世界に、足下から引き擦り込まれていくような。




自虐的に瞳を窄める久保田の隣で、そんな想いを察したかのように、白い雪を見つめて時任が言った。




「本当に、そうだったらいいのにな…」
 



「え?」



独り言のようにそっとこぼされた時任の言葉に、まるで自分の心を見透かされたような気がして、久保田が微かに瞠目する。
「…何で?」
短く問い返した言葉に、時任がちょっとむくれたような顔になった。
たぶん自分で、"らしくないことを言った"と、そう思ったのだろう。
「何でってなぁ…! い、いいじゃんか、別に!」
「や、そうだけど」
「ちょっと、なんつーか、その…何となくそう思っちまったら、ぽろっと口から出ちまっただけの事で、別に深いイミなんてねえし!」
「そうなの?」
「そうなの!」
「…ふぅん」
頷きつつも、真意を確かめるかのようにその顔を覗き込む久保田に、時任が困ったように、その眼差しからフイと視線を逸らす。
それに笑みを漏らしつつ、久保田は気づかれないように肩を聳やかした。




それでも、自分と同じ思いを時任が抱いてくれたというだけで、どうしてだか、ひどく救われたような気がした。
無論、その言葉自体の深さと重さは、自分とは随分と異なるんだろうけれど。




それでも――。






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