アンナ 1 |
なんか、かったるいわぁ…。 心の中で溜息とともに呟いて、テーブルの上の置かれた右手の、手入れの行き届いた爪をぼんやりと見た。 めずらしく少し早めに部屋を出て、目的だった買い物を存分に楽しんだ後。 ふと腕の時計に目を遣れば、店に出勤する時間には、まだ思いのほか早過ぎて。 なんとなく空いてしまった中途半端な時間を埋めるべく、アンナは、買ったばかりのファッション雑誌を片手にファミレスに入った。 坐ったのは、彼女のお気に入りの、扉から一番遠い隅の席。 窓の側はなんとなく落ち着かないので、選ぶなら奥のテーブルをと決めている。 特に熱心に記事を読むでもなく、そこでコーヒーを飲みつつ、ゆっくりとページを捲り、時折窓の方に視線をやっては、ぼんやりと行き交う人を見る。 幾度となく、そんなことを繰り返しているうち、ふと夕暮れの気配を頬に感じ、再び腕の時計に目をやった。 そろそろいい時間、か…。 雑誌にも飽きてきたことだし、ちょっと早いけど、いっか…と、席を立とうとして、隣の席に置いていたバッグを引き寄せたところで、ふと、どこかで聞いたことのある威勢のいい声が耳に入ってきた。 あれ、この声。どこかで…? そう思いつつ、窓際の席にその声の主を探す。 そして、やや首を上げて見回した店内に、どうやらその姿を見つけると、アンナは思わず口元に小さく微笑を浮かべていた。 いかにも気の強そうな、釣り目の少年。 見覚えも何も…。 あのコ。 誠人の――。 思い出し笑いをささやかに漏らして、アンナが両の肩をふるわせた。 そういや。 昔のオトコのことで、目の前で堂々と啖呵きられたのよねぇ。 "久保ちゃんのものは、全部オレのものだ!" …まさしく、ジャイアンだわ。 いかにも"俺様"なカンジが。 思い返すと、つい、くっくっと笑いがこみ上げてきてしまう。 そうして笑いを噛み殺しながらも、その少年の隣に並んで坐る男にちらりと視線を向けると、アンナは、いつのまにか自然と笑うのをやめていた。 "昔のオトコ" …いや、違うか。 自分の中で一応の訂正はしておく。 そうだ。 アイツは――。 別に、"昔のオトコ"ってワケじゃあない。 関係はあったけど、別に恋人同士じゃなかった。 というか、実は恋人は別にいたのだ。ヒモ同然だったが。 さらに言うなら。 あろうことか、恋人だった男を、自分の目の前で半殺しの目に遭わせたのが、アイツなのだ。 その理由が、自分を奪い合って―などというのだったら格好もつくけれど、事実はまったくそれには程遠い。 まあ、それでも。 恋人だった男のことなど、もう顔もろくに覚えちゃいないが、アイツのことは、最近までよく思い出していた。 果たして生きているのか、死んでいるのか。 いったい、どうしているんだろう、と―。 まさか知らない間に、"オトコ"に走ってるとは思いもしなかったけど。 ――久保田誠人。 でも、そういえば、"あの事件"が解決してからも、結局一度も会うことはなかった。 その後も。…ずっと気になってはいたんだけれど。 もう終わったことだったし、今更な気がして。 連絡も取らないままだった。 あぁ、あの釣り目のコ。時任って言ったっけ。 その、テーブルを挟んだ正面に坐っている男。 あのコと一緒に誠人のことを尋ねに来た、ナントカって記者だわ―。 胡散臭そうな。 「だーから! なぁんで、そうなるんだっつーの!」 不満をわかりやすく表情に出して、"時任"が記者の男に食ってかかる。 その言葉に、何かからかいでも返されたのか、時任の頬が一瞬で真っ赤に染まった。 「…って、アンタなぁ…!」 思わず、勢いづいてテーブルから身を乗り出しそうになって、隣から伸びてきた手にやんわりとその腕を掴まれる。 それは、止めたというよりは窘めただけで、少しも力なんて入ってそうになかった。 にも関わらず、いかにも勝ち気そうな時任が、渋々という面持ちを見せつつも、意外なほど大人しく促されるままに腰を下ろす。 そして、その代わりのように、窓の方を向いて抗議の声を上げた。 「だってよー、久保ちゃん!」 少し拗ねたように、尖らせた唇。 逆方向を向いてるから見えないけれど。きっと不服そうな視線。 でもどことなく、甘え口調。 その顔が正面にいる男に向けられると、通路の方に坐っている時任の表情は、アンナの席からよく見てとれた。 感情が、全部顔に出るタイプらしい。 いかにも、そんな風だ。 反して。 隣に坐る久保田の顔は、まったく時任の方に向けられているので、その黒髪に表情の半分くらいが隠されて、よく窺い見ることは出来ないけれど。 どうせいつもの、やんわりとした笑みを浮かべているのだろう。 一見やさしそうな。 そして、怖いほど無関心な瞳をして。 2へ |