「天国への階段」



窓から入ってくるネオンサインの明かりだけが、ぼんやりと薄暗がりの部
屋を照らし出していた。

裏新宿にある、取り壊し予定のまま放置されたビルの3階の一室で、靴も
脱がずに二人、壁にもたれ掛かるようにして座り込んでいた。
銀次は、さっきからずっと、ただ静かに紫煙をくゆらせているだけで無言
の、その男の横顔を見つめている。

窓に近い方に銀次がいるせいで、時折自分の影がその横顔に映り込む。
それを嫌って、銀次は少し自らの坐る位置を横にずらせた。

日本人離れした面立ちが、淡い光の中で浮き立つ。
後にドイツ人とのクォーターだと聞かされたが、この時はまだ、外で会っ
て数時間というところだったから知るはずもない。

並んで坐っているといっても、二人の間は、恰幅のいい大人3人がゆうに
割り込めるぐらいの距離がある。
そういえばさっき歩道橋で少し話をした時も、時折、車のクラクションで
互いの声は遮断された。
そういう距離だった。
もう少し近づいて話せば、もっと一言一句逃さずに耳を傾けられたものを。
あの、何とも心地よい声音で語られるその言葉を。

それでも、まあいいかと思う。
ニュアンスは伝わっている。
たぶん、お互いに。
・・・こんなことは初めてだ。
言葉以外に何かを伝える手段など、拳を交えるしか知らなかったのに。

いや、”そういう”会話をした相手だから、殊更? とも言えるのか。

わからないけれど。
銀次が思う。
それでも、いい。
この人のそばに来たかった。
今、それが叶っている。
それだけで、こんなにも、心は静かでおだやかだ。
初めて拳を交えて別れてから、心が砕けそうなほど苦しい葛藤が続いたの
に、それがもう嘘のようだ。
何1つの会話もなくても。
その沈黙すら心地よい。

フー・・っと吐き出された煙が、ガラスのない窓を流れるようにして出て
いく。
一応、”ヤサ”と聞いたが。
これは凄いと、最初思った。
こういうところで暮らしている男なのか、と。
外にもこういうところがあるんだと、なぜか不思議な気がした。
無限城の中では珍しくなどなかったが、外にはこんな場所はないのだと思
っていたから。
全ての建物の中に、当たり前のように人があたたかな住居を持ち、戦うこ
とも啀み合うこともなく、ただ平和に安穏と暮らしているものと思ってい
た。
それは、大方間違ってはいないのだろうが・・。

窓枠はあるが、ガラスのはめ込まれていない窓。
壊れて斜めにひっかかってるだけの扉。もちろんカギなんてない。
フローリングは埃と靴痕だらけ。
家具らしいものはなく、壊れたライトが部屋の隅にあるのと、シングルサ
イズの汚れたマットレスの上に毛布が一枚。枕らしきもの。
それだけだ。

常に命の危険に晒されている者の棲み家だと、容易に察しがつく。
こういう場所を、きっと今まで転々としてきたのだろう。
居場所を定めず。
いや・・。
もしかすると、居場所を求めて?



男の横顔をじっと見つめていた琥珀の瞳が、ふいに揺らいだ。
驚いて、少しばかり身を引くようにする。
男の視線が動いて、紫紺が自分を捉えたからだ。

「なぁーに見てんだよ?」
「あ・・」
「なんか、ついてるかよ?」
「え? いや。ただ・・」
「ただ?」
「見とれてた」
「・・・・は?」
「綺麗な色だと思って」
男が少々いぶかしげに、右手の中指で軽くサングラスを上げる。
銀次が、え?と意外そうな顔をした。
「あ、サングラスが、じゃなくて。眼が」
「眼?」
途端に剣呑と、その銀次の褒めた紫紺の瞳が鋭い光を宿して細められる。
それを何なく見つめ返して、銀次が言う。
「戦ってる間も、そう思っていた」
「えらく余裕じゃねえか」
「余裕はなかったけど。あんた、強かったし。・・えっと」
「美堂蛮だ。・・・知ってたっけか」
「あ、うん」
「てめぇは」
「天野、銀次」
そっちこそ、知ってると思ったけど―と銀次が胸中で呟く。
美堂蛮は、口の中で低く笑った。
「天野銀次か。・・・トッポイ名前だぜ」
「と・・? そう」
「ああ」
「あんたは、良い名だね」
「ああ?」
「みどう、ばん」
「フルネームで呼ぶなっての」
「あ、ごめん。いや、ただ、響きの良い名だと思って」
「・・・んなこたぁ、初めて言われたがな」
「そう。でもオレは」
言いかけて、少しはにかむような表情になる。
でも躊躇わずに告げる。

「オレは、好きだよ」

「・・・・・あ?」
「あんたの名前も、瞳の色も、オレは好きだよ」

さらりと唇からこぼれ落ちた言葉に、蛮が僅かに瞠目した。
口元が、不自然に歪む。
気を悪くさせたかと銀次は思ったが、蛮は静かに笑んだだけだった。
吐き捨てるように言うはずの台詞は、蛮にしてはどこかやわらかみを帯び
ていた。


「・・・・・変わった、ヤローだぜ」







それから蛮は、また何も言わず、ぼんやりと煙草を吸っていた。
銀次は、再び訪れたそのなんともいえない心地よい沈黙を、ずっと破りた
くはなくて、壁に背を預け、片膝を抱え込んでその上に顎をのせ、ずっと
蛮の端正な造りの横顔を見つめていた。


「おい」

ふいに声をかけられ、はっとする。
いつのまにか、蛮が銀次の目の前に立っていた。
「え・・・」
足下から徐々に視線を上げて、ネオンに照らし出される精悍な顔を見上げ
る。
夢を見ているかのように。
・・・どうやら、知らないうちに、居眠っていたらしい。
無理もない。
心身ともに疲労しきっていた。
幾日も続いた長い緊張が、やっと解けたのだろう。


後ろ髪を引かれる想いで無限城を出、雨のホンキートンクで蛮をただひた
すらに待っていた。
会えるかどうかなんて、考えたかどうかもわからない。
ただ待とう、そう決めていた。
そう決めて、あそこを出てきた。
友も、仲間も、守るべきすべてを置きざりにして。
それは、どこか心許ない気がしたが、振り返る気にはなれなかった。
・・・ただ、逢いたかったから。
もう一度。
そこから先のことなど、何1つ考えちゃいなかった。
そんな余裕すらなかったろう。

店のマスターが「凍えそうなんだろ?」と、あたたかいコーヒーを出して
くれた。
心を読まれたことに微かに狼狽しつつも、短く礼を言って一口飲む。
確かににその温かさは、やけに心に染みわたった。
それでやっと、自分が本当に凍えそうなんだと知ったのだ。

蛮が現れたのは―。
もう夜になってからだったろうか―。



「腹、減ってねえか?」
「・・・どうかな」
「どうかなって。テメーの腹だろうかよ?」
「そうだけど・・。あまりすいたとか、思ってことなくて。どんな感じな
のか・・」
「へぇ。ま、オレも似たようなもんだけどよ」
「・・・そう」
「酒、飲めるか? つーか、飲むもんつったら酒しかねえけど」
「飲める・・・と思う」
「飲んだことねぇとか?」
「あ、いや。そうじゃないけど。不味いなあって」
「は? 雷帝サマは下戸かよ?」
「え・・?」
「まーいいやな。これから覚えりゃ」
「これか・・ら?」
「ああ、すぐ慣れらぁな。住みやすいたぁお世辞にも言い難い街だが、中
にいるよりゃ、ちっとはマシだろう」
「・・・うん。あの」
「あ?」
”一緒にいてもいいの?”と聞こうとしたが、愚問なような気がしてやめ
た。
なぜなら、恐らく今まで誰1人も、足を踏み入れさせたことのないだろう
この住処に、蛮は自分を招いてくれた。
それだけで、1つ答えをもらっているようなものだからだ。


蛮が部屋の隅に置かれた白い布袋の中を探り、ウィスキーのボトルを取り
出す。
それから、フランスパンを一個。
どうやら、それが今夜の夕食らしい。
パンはそう古くはない。
銀次にとっては、古くないというだけで贅沢品だ。

蛮が、銀次の近くに同じように壁を背にして腰をかけた。
それでも、まだ間には大人1人分の空間がある。
蛮の手がパンを分け、片方を無言で銀次に手渡す。
銀次も、軽く頷いただけで無言でそれを受け取った。

よくよく考えてみたら、こいつがずっと居るようになれば、食べ物も倍い
るということか・・・と、現実的な掛け算を頭でしつつ、別にだからどう
というわけでもないかと、答えははじき出さないまま、蛮がウィスキーの
瓶を開ける。
まあ、そんなに食わなさそうだし、何とかなっか。などと思いつつ。
第一、ずっとここにいるとも限らない― 
自分なりの行き場所を求めて、こいつもやがては離れていくだろう。
・・いや、それは今はいい。
いなくなった時に、あたりまえに思えばいいことだ。

手渡されたパンを「いただきます」と律儀に呟いた後、一口ほおばる銀次
に、それを横目で眺めつつ蛮が開けたウィスキーのボトルに直接口をつけ
、一気に煽る。
感心したように、銀次がそれを見た。
「すごいね。酒、強いんだ」
「ひでぇ安酒だからよ。水や氷で割ったりすりゃ、不味くて飲めやしねえ
からな。まあストレートなら、ちったぁ誤魔化しがきくからよ」
「ふうん」
「テメーも飲むか?」
「・・うん」
フランスパンをかじりつつ、空いた手でボトルを受け取る。
その瓶の口に目をやって、ふっと蛮の口元を見た。
他意はなかったはずなのに、ふいに、一瞬自分の中に走ったイメージに目
元に微かに紅みがかかる。
気取られないように、早めに視線を反らせた。
「あ?」
「いや。えっと」
「なんで、飲む前に酔っぱらったみてぇな顔してんだ?」
「あ、そうじゃなくて。・・・オレ、このまま飲んでいいのか」
「は? グラスじゃないと飲めねえなんて、贅沢抜かすんじゃねえだろうな? んなもん、ここにゃねえぜ?」
「ん、いや、そういうことじゃない」
「なら、何だ」
「う、うん。いや、何でもないよ。飲む」
「・・変しなヤローだ」
ちょっと困ったような顔をしつつ、銀次がボトルの口を自分の口元に持っ
ていく。
それが唇にふれた瞬間、口内に流れ入ってくる琥珀の液体からでなく、唇
から、甘くとろけるような感覚が酔わせるように銀次の中に満ちてきた。
硬質で少し冷たい、それでいてしっとりとした。
実際の蛮の唇もこんなだろうかと考えて、ボトルを蛮の手に少々乱暴に返
し、銀次は顔を見られまいとパンに勢いよく歯をたてる。
「んだよ、オメー。そんなに腹減ってたのか?」
呆れたように蛮が言った。


固いフランスパンをかじりつつ、二人の手をウィスキーのボトルが行った
り来たりする。
別に今話すこともないので、また無言になる。
意外に下戸でもねぇな?と何往復目かのボトルを銀次の手から受け取った
刹那、蛮は慌てた。
「・・・・!」
咄嗟に瓶を手にしたまま、真横に身体を移動させる。
ぐらりと揺れて倒れてきた銀次の頭は、蛮の肩でどうにか止まった。
「おい・・」
片手にパン、片手にボトルを持ったまま、肩にもたれてきた重みに視線だ
け動かす。
どうしたと問いかけて、口をつぐんだ。
声にする前に、寝息が答えたからだ。
手に持ったままだったパンの残りが、ころりと銀次の手から床に転がり落
ちる。
(オイオイ・・)
すーすーと、やわらかな息に耳元をくすぐられると、蛮は、困惑した顔で
それを盗み見た。
酒に酔ったのか頬を染めて、気持ちよさそうに蛮の肩で眠っている。
ネオンサインに縁取られるその輪郭は、無限城で出会った時の印象よりず
っとやわらかく、髪の下りていない額さえ、心なしか子供っぽく見える。
薄くひらいた唇から寝息がこぼれ、長い睫が時折震える。
まだ、あどけない少年の顔だ。
蛮がそれを見下ろして、思わず低く笑みを漏らす。
(これが、あの”雷帝”サマの正体かよ? すげーガキ・・)


それにしても。不思議だ。
なんだろう、この感覚は。
あたたかくて、何かひどく懐かしい。
出逢ったというよりはむしろ、ここにこの存在が還ってきた、というよう
な。
ずっと昔は、もともとこうして一緒にいたかのような。
そんな錯覚さえ起こさせる。


よく眠っている銀次を起こさないように、静かに両手を動かし、床の上に
ボトルとパンを置いた。
食事は、中断だ。
まあいい。
このまま、眠ってしまうってのも悪くはない。
蛮も、久しぶりに軽い睡魔に襲われていた。
眠いと感じたことも、ここしばらくはなかった。
食事も睡眠も、生きるために仕方なく摂っていただけのこと。
だが。
それがもしかしたら、変わっていくかもしれない。
これから―。
そんな気がする。


蛮が、傍らにある体温に誘われていくように、ゆっくりと目を閉じ、眠り
に落ちていく。


これから先の事は、まだ何もわからないが。
今は、そんな未来のことなどどうでもいい。
あの無限城で見つけた金の鬣の孤独な雷獣が、今ここで、自分の肩で安堵して眠っている。
初めて、どうしても手に入れたいと欲したそれが―。


今は。多くは望まない。
こうしていられたら、それだけで、いい。

今はまだ、自分の肩で安らかな寝息をたてている、その眠りを守れたらそ
れだけで。


―めずらしくセンチじゃねえか。
柄にもねぇ。


蛮は、小さく舌打ちをして自分への悪態を心中でごちると、そのまま、自
らも銀次にもたれ掛かるようにしながら、深い眠りへと落ちていった――。









2へ。