―― そして、刻は動き出した ―― 音羽邸に見舞いのメロンを置き去りにし、偶然一緒になった笑師春樹とも別れ、蛮は公園の階段に腰掛けて煙草をくゆらせながら、ぼんやりと見るとはなしに園内を行き交う人たちを見つめていた。 その顔は、どの顔もおだやかで、ひどく幸福そうに見える。 誰かを失うことの痛みや、底のないつらさなど、まるで縁がないかのように。 (もちろん、実際はそんなことはないのだろうけど) フ―ッ…と吐き出した煙とともに、微かな溜息が落ちた。 ”相方”と呼べる男を失った笑師。 その男の心臓は今、違う人間の胸で新たな命の刻を刻んでいる。 指先に移った煙草の先から、長くなった灰が風に煽られて細かに散った。 笑師にせよ、銀次にせよ、ああいう類の人間は強えと思う。 自分のことは後回しにして、他人のことばかり心配できる人間というのは、基本的に芯が強くできているものなのかもしれない。 もっともその分、自分のガードは、がら空きだがよ…。 ごちて、苦笑する。 同時に、瞳の紫紺が翳った。 笑師の相方は、冬木士度の胸で生きる。 この世界のどこをどう探しても、もうその存在は無いのに、心臓だけが他人の胸の中でその刻を打っている。 ―堪らない、と蛮が思う。 もしも、それが銀次ならば。 笑師のように、あんな風に、自分は士度とマドカの幸せを、静かに見つめることなど出来るだろうか。 その蛮の頭の中で、勘にさわる気障ったらしい声が、例の忌々しい台詞を呪縛のように何度も繰り返す。 『もしも、冬木士度が天野銀次を殺したら、キミはどうする? 冬木士度を殺すかい?』 ――さあてな。 今となっちゃあ、”アーカイバなんぞ、なんぼのもんよ。そんなモンを信じてるオメデタイ奴らは、あの上層階の馬鹿どもだけだぜ”と、一笑出来るが。 それを突きつけられた瞬間は、それでも大概狼狽していたのだろう。 言葉の意味を理解するのに、蛮らしくもなく、かなりの時間を費やしたからだ。 もっとも理解できたところで、そう簡単に出せる答えでもないだろうが。 いや。 案外簡単かもしれない。 煙草を咥える。 その紫煙を目で追いながら、それが上っていく空を見上げ、蛮が思った。 銀次を失った瞬間に、己の全ては無になる。 その果てに、もしも万一逆上して冬木士度を殺したとしても、それはもう美堂蛮という”人”の姿をしてはいないだろう。 もしも例えば、冬木士度の身代わりに命を落としたのが銀次だとして。 その心臓だけが、その胸で生きているとしたら。 もし仮に、その心臓を士度の胸から奪り還すことが出来れば銀次は生き返ると、そう言われたなら。 自分は士度の左胸に右手を突き立て捻じ込み、掴み出すだろう。 鮮血にまみれた、銀次の心臓を。 ためらいもなく。 誰が泣こうが喚こうが、そんなことはお構いなしにやり抜くだろう。 眠っている冷酷な血を呼び覚まして、もはや人の心などどこにもなく、ただ銀次だけを欲する魔物と化して。 風が吹き抜ける。 台風でも近づいているのか、びゅううと強い力で、階段の下に置かれていた空き缶を弾き飛ばして転がした。 それを目で追いながら、蛮が僅かに瞳を伏せる。 そして、短くなった煙草を捨てると、靴の底で踏み消した。 小さく火の粉が、風に舞った。 ―どうしてだろう。 そんな目の前の光景でさえ、まだ、どこか非現実的だ。 未だ、あの闘いのさなかにいるような、奇妙な浮遊感がある。 闘いは終わり、自分たちは確かに、この新宿に戻ってきているというのに。 何か不確かな、そうまるで、誰かの夢の中にいるような。 その何ともいえない落ち着かなさが、こんなネガティブな思考に自分を落とすのだろうか。 そう考えた途端。 突如、目の前が真っ暗になった。 「だ〜〜れだv」 「…………あ?」 いきなり目隠しをされた上、カエルを踏み潰したような声を耳元で囁かれ、ピキッと蛮の額に怒りマークが入る。 「…テメエなあ」 つい先ほどまで、シリアスに決めていた自分が、どうにも滑稽に思えるではないか。 まったく、コイツは―。 そんなこととはつゆ知らず、背中にぴったりと張り付いてくると、また同じような声が訊く。 「ねえねえ、だ〜れだ、ってばー!」 「あのなあ!」 「ねえ、ほら答えてよー 蛮ちゃん〜」 この美堂蛮様を、”蛮ちゃん”などと気安く呼ぶ人間が他にいるか?と蛮が胸中で苦笑する。 「こら、離せって」 「やーだ、答えてくれるまで離さないもーん」 「テメエ!」 「はーやーく」 「んなアホな事考える馬鹿が、他にいるかってんだ! 」 しかも、この”邪眼の男”相手に。 「オラ銀次!!」 「わーい。あーたーり!」 嬉しそうにそう言うと、蛮の目を覆っていた手を”ばあ〜v”と離し、振り返ってきた蛮の怒った顔にさえ、にっこりと銀次が笑いかける。 「アタリも何も、わかるっての! だいたいおまえ…」 言いかけた蛮の目が、銀次のいる光景にふっと唐突に見開かれた。 目隠しが解かれたその風景には、先ほどの非現実的な感覚も、浮遊感も、もう跡形もなかった。 背中にのしかかってくるのは、現実的すぎるほどの重みとぬくもり。 片手をかざすようにして、不思議そうに目をしばたたかせる蛮に、銀次が小首を傾けてまたにっこり笑う。 「どったの? 蛮ちゃん。あ、まぶしかった??」 「え。いや―」 「あ、お弁当買ってきたよー! やっぱオレ、ミックスフライ弁当にしちゃった。はい、これ。蛮ちゃんのデラックス焼き肉弁当!」 「…おう」 弁当の入ったコンビニの袋を目の前に差し出され、それを何とはなしに受け取った蛮が、てっきり隣にくるものだと思っていた相棒に再び背中から抱きつかれ、思わず前につんのめった。 「おい―。んだよ、暑いぞ」 「うん」 「暑いって。銀次!」 「へへ」 怒鳴られながらもなぜか嬉しそうに笑って、銀次が蛮が腰掛けているよりも一段高い場所に腰を下ろし、ぴったりとその背中に身を寄せてくる。 やれやれ。 谷から帰ってからというもの、ちっとも人目を気にしなくなりやがって。 蛮が思う。 まあ、好きにさせておくあたり、自分も同じかもしれないが。 それにしても、おぶってもらったのが余程心地よかったのか、あれからずっと、こんな調子だ。 やたらと背中に甘えたがる。 抱き癖ならぬ、おんぶ癖でもつけたのかと、さらにやれやれと蛮は肩を落とした。 その後ろから腕を回して蛮の肩の上に顎を置いて、銀次が、ぎゅっとその首にしがみつき、少し声のトーンを落として訊く。 「…ねえ?」 「ん?」 「どうかした?」 「あ?」 「なんか。何かさ。…怖い顔、してたよ?」 ほんの微かに蛮の肩が揺れたのを、これだけ密着していれば、銀次はきっと気づいたろう。 それでも、そのことは口に出さず、さらに腕を回して強くしがみついてくる。 本人的には、しがみついているつもりではなくて、もしかすると抱きしめているつもりなのかもしれないが。 ああ、それで。 いきなりの目隠しか。 なるほどな―。 可愛い気遣いに、蛮が心の中でほくそ笑む。 癒しが、巧い。 その証拠に、つい今しがた暗い淵に落ちていた自分の思考が、いったい何を考えていたのかさえ、一瞬忘れ去ってしまっていた。 「オレがいるから― 大丈夫」 「銀次?」 「心配しないで。オレ、蛮ちゃんをちゃんと護るから」 「あ? なーに言ってんだ。藪から棒に」 「それでも。オレが、護るんだ― 蛮ちゃんの心は」 「…バーカ。100万年早えってのー」 「ずっと、ここにいるから。蛮ちゃんの傍にいる」 「…銀次」 「ねっ?」 「……アホ」 「意地っぱりだなあ」 「抜かせ」 笑みを含んだ蛮の答えに、銀次が、蛮の頬に自分の頬を擦り寄せるようにして言う。 無理のない、ひどくおだやかな笑みで。 けれど、その心の余裕は、このヒトの傍らにいてこそなんだと銀次はもう気づいてしまった。 もう、1人じゃ強くなれない。 かと言って、1人で弱くなることも、もう出来ないんだけれど。 「オレ、いろいろつらかったこと、蛮ちゃんに全部聞いてもらっちゃったけど。蛮ちゃんは? いいの? つらいこと、なかった? 毒蜂さんのこととかの、他に―。 なんかオレに聞いてもらいたいこととかない?」 「ねえよ」 「素っ気ないなあ。もう」 「ねえもんは、ねえっての」 「じゃあ、泣きたいこととかは?」 「なんで泣くよ?」 「なんでって。悲しかったら泣くでしょ」 「それはオメーだろ。普通、男はそうそう泣かねえもんだぞ」 「悲しくても?」 「おうよ」 「ふうん。…けどさ。涙流さないと、悲しいっていう気持ちがどこにも流れていかないで、どんどんそこに溜まっていって一杯になってさ。そ ういうのが溢れてくると、雨になるんだよね。心の中に降る冷たい雨に」 オレも、昔そういうコトあったよ?と、後ろから蛮の顔を覗き込むようにして銀次が尋ねる。 「蛮ちゃんは、ない? そういうこと」 蛮が、それにゆったりと答えた。 「今はねえなあ。」 「なんで」 「蒸発してっから」 「じょうはつ?」 「熱でよ」 「熱? なんの?」 「オメーの」 「…オレ?」 ものすごく不思議なことを言われたというような問い返しに、蛮が喉元で小さくと笑った。 「オメー、ガキみてぇに体温高えだろ? だから、こんな風にくっつかれてるとよー。テメエのその熱で、そういった類の水分が全部蒸発してなくなっちまうんだよ」 蛮のその言葉に、銀次が”?”と、ぱちぱちと目をしばたたかせる。 蛮が笑って言った。 「わかんなきゃ、別にいいって」 「そう、なんだ――」 頭の中で蛮の言葉を整理・反芻して、しばし考え、自分なりにどうにか解釈できたらしい銀次が、ぱあっと突然明るい笑みを浮かべた。 「そうか、そうなんだ!」 「あ?」 「そうだったんだ、蛮ちゃん! えへへっ」 「いや、オイ?」 頬を真っ赤に染めてさも嬉しげな銀次に、蛮が一抹の不安を覚えつつもそれを振り返る。 と、ほぼ同時に銀次が、がばあっ!と勢いをつけて蛮の背中にのしかかってきた。 「おわ!」 「そっか、蛮ちゃん、知らなかったよー。蛮ちゃんて、オレに抱きつかれて嬉しかったんだ!」 「ああ!?」 「だったら、もっともっと、ぎゅ〜っ!ってしてあげんね!」 「ちょ、ちょっと待て! そうじゃなくてよ、オレが言いたいのはだな! こら、聞けって銀次!」 「いいもん、もうわかったから」 「わかってねえって! おい! やめろ、こら馬鹿! やりすぎだってのー! ああ、重え!!」 「遠慮しなくっていいってー! 蛮ちゃん〜〜! 大好き〜〜〜! ぎゅ〜〜!」 「だーかーら! ああもう! ヒトが見てるじゃねえか! やめろっての、コラァ!!」 背中からのし掛かってくる銀次の頭を笑いながらこづいて、それでもめげ ずに、もっともっとと強く抱きついて体重を預けてくる銀次の笑顔に、蛮 は感じていた。 刻が動く。 いや、もう動き出した。 既に動き始めている。 不吉の刻が、とそう思ったが。 何も恐れることはなかったのだ。 この手を離しさえしなければ。 悪いことなど、起きよう筈がない。 銀次が傍らにいる限り、己は正しい方向に導かれながら、無敵でいられる。 その最強の笑顔に導かれながら。 ――そう。 何と言ってもゲットバッカーズは、『無敵の男』と『最強の男』が一緒にコンビを組んでいるのだ。 それはまさしく。 「向かう所敵無しじゃねえか、オレらはよぉ! なあ!?」 「いたあっ! なんでいきなり殴んの〜〜! ・・・へ? なになに、今の何の話?」 「何でもねーよ!」 「んあ! もう蛮ちゃんってば、いっつもそうなんだからー!」 「うるへー、オラ、いつまでもじゃれついてねーで。いらねーんだったら、オレがテメーの分まで食うぞ」 「へ?」 「弁当!」 「ええっ! わ、ちょっと駄目だよー、蛮ちゃん! それオレの!!」 「おっ、うまそうなエビフライー!」 「わっ、取らないでよ! ああっ、蛮ちゃん! オレ、エビフライはタルタルソースがいいの! とんかつソースかけちゃだめー!」 「うっせえ、文句抜かすな!」 「ああズルイよお! オレも食べる! 食べさせて! あ〜ん」 「あーほ」 「んあ! お漬け物じゃなくて、エビフライー!」 「ああもう、耳元でウルセエ! いつまでもヒトの背中に張り付いてねえで、隣来てテメーで食え!」 「あーい。ねえねえ、オレにも、蛮ちゃんのお弁当のお肉、ちょっと食べ させてね!」 「しゃあねえなあ。んじゃ、肉一口とヒレカツ2個と交換な」 「なあんでえ! そんなのずるいよ!」 「値段が違うだろうがよ! なんたって、こちとらデラックス・・ こら、勝手に取るな!」 「うほー、おいしいv」 「テメエなあ!」 「蛮ちゃーん、このお肉、すっごくやわらかいね〜!」 「ああ、そうかよ。そりゃ、よかったな。ったく、返せ! オラ!」 「えへへー。お弁当おいしくて、お天気よくて、蛮ちゃんがいて」 「ああ?」 「オレ、しあわせー」 強くなってきた午後の日差しの中で、ごく自然に銀次が言い、そして光の中で、そのこぼれるような笑顔を蛮に向けた。 それに一瞬驚いて、それから照れくさそうに笑みを返し、ぶっきらぼうに蛮が答える。 「お手軽なこって」 「うん!」 ――二人の笑顔と一緒に、光がはじけた。 その光の中に。 二人は、まさしく”永遠”を見た。 錯覚かもしれないけれど。 確かに永遠に繋がっていく、光の連鎖が見えたのだ。 互いに互いを唯一とし、ともに歩いていく、その道のずっと先までを照らす眩い光が――。 END novelニモドル ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 長らくお付き合いくださって、ありがとうございました。 やっとこれにて、原作「絆編」のフォロー(になったのだろうか?)SS、最後まで書き終わりましたー。 鬼里人と魔里人の戦いが終結したのはいいけれど、たくさん残ってしまった未解答の問題は、いったい自分の中で、どう整理づけたらいいのでしょう?(涙)と思い、とりあえずちょこっとだけ書いてみようと思ったのが最初だったのですが。 まあ、しっかりちょこっとどころではなかったですね(笑) ホンキートンクで久し振りに波児の入れたコーヒーを飲んでいた銀次が、なんだかもうすっきりしたような顔をしていたので、銀次には蛮ちゃんからいろいろ言ってあげたんだろうなあと思ってみたりもしたんですが。(「オメーは、よくやったよ」って本当に言ってたしねv やさしいよね、旦那v) どうにかこうにか、私的にもこれで一区切りって感じですvv 最後まで読んでくださって、どうもありがとう。 感想、ぜひぜひお聞かせくださいませー。 |