「ねえ、蛮ちゃーん」
「ん?」
「なんかさ、スゴイ風なんだけど! 窓ガラス、割れちゃわない?」
「んなぐれーの風で割れっかよ」
「でもさあ。なんかミシミシ言ってるよ。ねえ」
「でーじょうぶだっての。だいたい、大のオトコがよー。台風ぐれぇでビビんなって」
「別に、ビビってるワケじゃないけどさ」
「――ち。ったく、肝心な時に点きやがらねぇな」
「ん、何?」
心配そうに窓にはりついてるオレの背後で、蛮ちゃんは小さく舌打ちをすると、まだ吸えそうな煙草をテーブルの上の灰皿の上に揉み消した。
あれ? どしたの?
いつもぎりぎりのとこまで吸っちゃうくせに。
「…ああ。懐中電灯、電池切れしてやがる」
「えっ、そうなの」
「寝ちまってからなら問題ねぇけどな。ま、それでも、一応ねえとやっぱ不便か」
半分独り言みたいにそう言うと、蛮ちゃんは、おもむろに立ち上がって。
なんで無いと不便なのかなってのは、オレにはちょっとワカんないんだけど。
だって、まだてんとう虫くんで寝起きしてた時は、後部座席に置いてた懐中電灯は、ほとんど生活には使われたコトがなかったから。(お仕事には必要だったけどね)
夜は、いつも街灯の灯りだけだったしねー。
あ、一回、自販機にコーヒー買いに行く途中で10円落っことして。
あの時は、蛮ちゃんが車に懐中電灯取りに行ってくれて、それで無事見つかったんだけどね。
それ以外に、なんかおうちの中で役にたつことってあるのかな。
思いつつ、訊いてみる。
「買いにいく? 電池」
「おう。しゃあねえ。ちょっくら行ってくっか」
ふーん。
不精者の蛮ちゃんが、この嵐の中をわざわざ買いに行くっていうぐらいなんだから、きっと台風の日には必要なものなんだろうなー。
「あ! んじゃあオレも」
「テメーは待ってろ」
「ええっ。なんでぇ?」
「傘も差せねえほどの強風だぞ。普通の雨でもまともに傘差せねえオメーじゃ、全身濡れねずみになるって。ま、そこのコンビニまで行くだけだからよ。イイ子で待ってな」
「う。確かにそりゃあ、オレ、傘さすの下手だけどさー」
「んじゃ、ちょっと行ってくらぁ」
オレが喋ってるのを最後まで聞きもしないで、蛮ちゃんはそう言うと、玄関で靴を履き出しちゃった。
ってことは。
えー!
オレ、お留守番決定?!
「窓あけるんじゃねえぞ」
「うん」
「ぎーんじ。わかってんな? 窓は」
「絶対あけません!」
「おっしゃ。ぜってえ守れよ!」
「うん!」
しっかと頷くオレを確認すると、蛮ちゃんは玄関のドアを開いた。
ってか!
うおお、それだけで凄い風がびゅううっ!と部屋の中に入ってきて、テーブルの上にあった蛮ちゃんの読みかけの新聞をひっくり返しちゃったよ。すごー!!!
蛮ちゃんはそれでも、風より強い力で軽々とその扉を開くと、傘を手に素早く外に出てっちゃって。
「あ、行ってらっしゃーい」
「おう」
ナルホド。
オレも一緒だったら、こっから出るだけで既に大騒ぎになっちゃってたかも。
まー、いっか。
コンビニ、近くだし。
すぐ帰ってきてくれるよね。
思い、しばし蛮ちゃんの出ていった扉をぼーっと窓際から見てたけど。
いや、見てたってどうなるもんでもないか。とか思い直して、今度は、どしゃぶり雨の窓の向こうを見た。
すごい雨…。
――蛮ちゃん。
濡れないといいな。
それにしても。
つけっぱなしのテレビは、なんかさっきからずっと台風情報とかやってるんだけど。
オレ、よくわかりません。
ナントカへすとぱすかるさんて、いったい誰?
ってか、一時間に何ミリの雨が!とか、瞬間風速どーしたらこーしたら!って言われても、なんかね。
よくワカんない…。
まあ、あちこちで大変なことになってるらしいことだけは、さすがのオレでもわかるけど!
でもさ。なんかさ。台風の時って。
窓の外って、いったいどれくらい風強いのかなーって、ちょっと手とか出してみたくなんない?
オレは、結構なっちゃうんだよねー。
けど、前に"ちょっとだけならいいかなー"って開いてみたらね。
いやもう、それはつっよい風が入ってきて部屋中すごいことになっちゃって、蛮ちゃんにはこっぴどく叱られちゃった。
でも、だって、こういうの、建物の中から見るの初めてだから、って蛮ちゃんにそういいわけしたら。
無限城の上は、台風さまも知らんぷりで素通りかよ?って。
…うん。
そうだったかもしれない。
オレは嵐の中。
ここからはかなり小さくにしか見えない、雨にけぶるその巨大な黒い城をじっと見つめた。
叩きつけるような雨の中。
こうやって、じっと無限城を見つめていると――。
なんだか、未だにどうしても、
意識があそこに囚われていく。
こんなに遠く離れてても、なんだ…。
そんな風にぼんやりと、オレは思った。
言われてみれば。
確かに無限城にいた時だって、嵐の日やそんな夜はあったけれど。
戦いのさなかであることがほとんどで。
自分の起こした嵐なのか、自然に起きているものなのか、その区別さえできなかった。
今から思えば、そのどっちもがバーチャルだったのかもしれないけれど。
その時は、ただ、必死だったから。
わからなかった。
オレの中にある、鮮明な「嵐の記憶」は――。
あれは。
あれは、そう確か、まだオレが幼い時…。
無限城に置き去りにされた夜――。
ふいに、頭の中にその時の情景が浮かんだ、その瞬間。
カッ――!と白い光に、夜の空が引き裂かれて。
その直後。
ドドォォオ――…ン!!という凄まじい音と地響きがした。
思わず、驚きのあまり、瞳を見開く。
「落っこちた、よね? かなり近いかも…」
と、ヒトリゴトのように呟くと同時に、プツン…とテレビが唐突に消える。
一緒に、部屋の中の明かりも消えて、一瞬で辺り一面が突如として闇に包まれてしまった。
――嘘…。
この状態で、この状況は、ちょっとヤバいかもしんない…。
「あ、マジで停電だ…。 やばいなあ」
と、口をついて出た言葉は、結構冷静っぽかったんだけど。
なんかでも。
まるで渡された台本を読んでいるみたいで。
声が、ちょっと震えてるっていうか。
いや、震えているのは、声だけじゃない。
唇が、肩が、両腕が、小さくがたがたと震え出していた。
そん時。
既に、オレの心の中はパニックを起こしていたらしい。
こういうコト、ここ一年くらいはずっとなかったんだけど。
どうしても消えてなくならない、幼い頃に心に刻まれた恐怖、のトラウマ。
ILの仕事で無限城に行った後は、しばしば同じ悪夢に魘された。
きっと自分の中に封じ込められて鍵をかけられていた記憶の、その扉が少しだけ開いてしまったんだろうって。
けど、それだけだ。
よくあるこったよ。
心配するこたぁねえ。
蛮ちゃんは、オレを安心させるように、頭をくしゃくしゃっと撫でて、そう言ってくれた。
…蛮ちゃん。
蛮ちゃんはたぶん、こういうオレを予測して、電池買いに行ってくれたんだ。
予想よりずっと早く、停電しちゃったけど。
でも、オレのために。
どしゃぶりの雨ん中、電池買いに行ってくれたんだ。
だから。
だから、オレがこんなじゃダメだ。
しっかりしなきゃ、ダメだ。
そう思うのに、背中を冷たい汗が流れる。
しっかりしろと自分を励ますように掴んだ自分の手は、右も左も同じように、さっきよりずっと震えていた。
息を整えつつ、部屋を見回す。
しっかりしろ。
ここは無限城じゃない。
あの場所じゃない。
オレと、蛮ちゃんの家なんだから。
雷鳴はまだ続いている。
ちょうど頭の中に浮かんだ情景と現実とを、繋ぎ合わせるかのように。
荒れ狂う風の音が、記憶の中のものと合わさって、過去の記憶がなんだか、とてもリアルに思えて。
「ば… 蛮ちゃん」
こわい。
まっくらな部屋。
誰もいない。部屋。
「蛮、ちゃん…」
ひとりぼっちで。
まだ幼かなった自分が。
記憶の中で、
たった一人置き去りにされた無限城の廃ビルの中で、
膝を抱えて、ぶるぶる震えている。
「蛮ちゃん…!」
近づいてくる足音とか。
迫りくる、得体の知れない恐怖だとか。
そんなものと、戦いながら。
「蛮、ちゃ…ん! 蛮ちゃんっ!」
でもあの時は。
こわかったのに。
すごくこわくて、誰かの名前を叫びたかったのに。
助けてって言いたかったのに。
その名前すら。
思い浮かばなかった。
でも、今は。
「ば、蛮ちゃん、蛮ちゃん! 蛮ちゃん! 蛮ちゃん!!
蛮ちゃあああぁぁあ――ん!」
「銀次!!」
ガチャーン!と扉のあく音がして、同時に自然に風に打ち付けられるようにして、激しく閉じる音が響く。
「銀次…!」
はっとなった時には、オレは、もう――。
あったかい腕の中に、強く抱き竦められていた。
「銀次、おい、どうした!? しっかりしろ! おい、銀次!!」
「ば、蛮ちゃん、蛮ちゃんっ!」
真っ暗闇の中で、オレが唯一頼れる腕の中で、オレは藻掻くようにして夢中でその身体にしがみついた。
背中に震える腕を懸命に回して、肩口に甘えるように顔を寄せると、耳元で力強い声が響いて。
オレがしがみつくよりも、もっと強い力で、オレの身体を抱きしめてくれた。
「オレはここだ、銀次!」
「蛮、ちゃ…ん?」
その声は、オレの鼓膜を伝って、心を震動させるみたいに響いて。
「おら、しっかりしろって。大丈夫か?」
「蛮ちゃん、蛮ちゃん!」
「ゆっくり、息しろ。ほら――」
「……ん」
言われるがままに。
一度ぎゅっと目をつぶって、息を整えようと、深いめの呼吸を努めてゆっくりと数回。
後から思ったらね。
本当にゲンキンとしか言い様のないことなんだけど。
そうして、蛮ちゃんの肩で目を開いた時には、もう闇は――。
あたたかなものにすり変わっていた。
蛮ちゃんの腕が、ほんの少しだけ緩められる。
片方の手のひらが、オレの後頭部を包むように撫でてくれた。
もう一方の手が、背中を宥めるようにポンポンと叩いてくれる。
ひどく安心する、あったかい音。
「…どうしたんだよ?」
訊いてくれる声は、すごくやさしかった。
身体の震えは何とか収まりつつあったけど、声を出そうとすると、だけど、今度は唇が震えた。
「あ…。か、雷落ちて、いきなり、停電になって」
「ああ、近くに落ちたな」
「うん。それで、そうしたら、なんか、急に、こわくなって」
「怖く?」
「うん。一人で、無限城に捨てられた時、のことが、なんか、ワカんな、けどいきなり、頭の中浮かんで」
「そっか…」
「なんかそしたら、パニくっちゃって。そんで」
「ああ、わかった」
「そんで…」
「オレの名前、叫んでたのか」
「ん」
「そっか…」
「うん」
こくんと頷くオレを、蛮ちゃんは、ぎゅっ…と抱きしめてくれた。
「ここにいる。でーじょうぶだ」
「…うん」
「大丈夫だ、銀次」
「うん」
「うん。蛮ちゃん」
髪を撫でてくれる手が、なんだかやさしくて。
オレは、泣き出しそうになったけど。
さすがにだんだん正気づいて、恥ずかしくなり始めてきたところだったから。
それは、なんとか堪えたんだけど。
でも、蛮ちゃんの腕の中は、ひどくあったかくて。
ああ。
蛮ちゃんって。
あったかいなあ…。
って、しみじみ思ったら。
なんか。
急になんか、伝えたい気持ちになって。
でも、それが何かよくわからなくて。
「蛮、ちゃん…。あの、オレ…」
「ん? 何だ」
「あ、あのオレ、さ…。えっと、オレ、ば、蛮ちゃんのこ…」
「――お、点いたか」
蛮ちゃんがそういうのとほぼ同時に、部屋の灯りがチカチカってして、急に室内はぱっと明るくなった。
うわ、まぶしい。
「あ、点いたね」
「ああ。短けぇ停電でよかったじゃねえか」
「え? うん」
「――で?」
「えっ」
「オレが、何だって?」
「はい?」
「オメー、今何か言いかけてたろ?」
えーと。
な、なんだっけ??
な、なんか確かに言おうとしたんだけど。
明かりがついた途端に、なんかぱっと一緒にどっかに行っちゃったような。
でもって、部屋が明るくなったと同時に、オレは、もうほぼ、元のオレに戻れていた。
まだちょっとだけ、指の先が小さく震えていただけで。
気持ちは、ふわっと軽くなった。
もっともこれは、明るさのためだけじゃないと思うんだけれど。
「え、えと。何かもう、忘れちゃったよー」
「ったく。相変わらず、トリ頭だな、テメーは」
「と、トリ頭って。あ、なんか蛮ちゃん、すごい濡れてる!」
「あ? ああ、傘ほっぽらかして走ってきたからよ」
「え? なんで」
「なんでって。外まで聞こえるような大声で、テメーが呼ぶからだろうが!」
「え、ええっ! オレ、そんなおっきな声出してた?!」
「おうよ!」
「うそ。はずかしー」
「恥ずかしいのはコッチだ! ったく」
「でも、オレのコト心配して、濡れるの構わずに走って帰ってきてくれたんだ…」
小さく呟いて、オレは、ぎゅっと力をこめて握ったら、雨がたっぷり絞れそうな、蛮ちゃんのシャツの袖口を掴んだ。
なんか――。
なんか、その冷たさが、
なんか、あったかく感じられて。
「べ、別に、だからってわけじゃねえけどよ」
「へへ、照れちゃって」
「何言ってんだ。バーカ」
「ありがとう」
そうしんみり言うと、オレは、少し離れかけた身体をもう一度蛮ちゃんに擦り寄せるようにして、その背中に手を回してぎゅっとしがみついた。
なんでだろう、蛮ちゃん。
なんで、蛮ちゃんは。
オレにそんなにやさしくしてくれんの。
どうして、蛮ちゃんは。
どうして、こんなに、
――あったかいんだろう…。
「あんがと、蛮ちゃん」
「…おう」
「あったかいね、蛮ちゃん…」
「冷てえよ」
「ん?」
「オレは、冷てぇって。ずぶ濡れなんだからよー。こら。んーなに、くっついてたら、テメーも濡れっぞ」
「いいよ。オレは」
「よかねえって。――あ」
「ん? 何?」
「潰れちまったか?」
「え? 何が」
「ま、潰れててもオメーなら食うだろうがな」
「だから、何がって… えっ」
床にほったらかしにされていた、コンビニの小さめの袋を、蛮ちゃんが引き寄せて、中をごそごそする。
ん?
電池って、そんな簡単に潰れちゃうもんなの?
ってか。
でもオレ、電気はともかく、電池は食べないんですケド。蛮ちゃん。
けど袋から取り出されたものは、さらに白い薄い紙袋にはいってて。
どうみても、電池じゃなくて。
微かに、まだ湯気が上がっていた。
「おら」
「おわぁ! 肉まんだあぁあ――!!」
「一人で留守番できた褒美」
「うわー、ありがとー! わーい、おいしそーー!!」
「…の、つもりで買ってきてやったのによぉ。オメーときたら、留守番もろくにできねえし!」
「え、ええっ! ちょちょっと、取らないでよ! で、できたよ、できてるじゃん! 泥棒にも入られてないし! 火事にもなってないし!!」
「あったりめーだ、なってたまるか!!」
「だーから、意地悪しないで頂戴ってば!」
「だーめだ。オレさまが一人で食ってやる!」
「ええっ! ねえ、蛮ちゃーん! ああっ、オレの肉まーん! あ、ちょっと、ねえ! ズルイよお。オレにも食べさせてよ!」
「やらねぇ」
「んあ〜〜 ヒドイ〜〜!」
「ヘッ。バーカ!」
「よーし、こうなったら腕づくでも!」
「おう、取れるもんなら取ってみろ!」
「言ったなあ〜! よぉーし、奪還屋天野銀次の、食い意地の張りっぷりを見せつけてあげちゃうかんね――!!」
「威張れねえっての! んなこと」
こうして。
蛮ちゃんとオレに奪い合われた可哀想な肉まんくんは、オレたちの口に入るころには、もう本当に見る影もなく、見事にへしゃげてたけど。
それでも最後には、仲良く半分こしたそれ(最初からそうしてくれたらいいのにー)は、何だか今まで食べたどんな肉まんよりも、ずっとずっと美味しかった。
蛮ちゃんの手の中で、ほかほかにあったまって、
ちょっと煙の匂いもしたけれど。
一口パクついた途端、ちょっと涙の味もしたけれど。
心の奥まで、すっかりあったまった。
外は、さっきよりもさらにひどい嵐になっていたけれど。
もう雨音も雷鳴も窓をたたく風の音も、オレの耳には入ってこなかった。
――で、翌朝は、快晴。
台風一過だなって、蛮ちゃんがベランダから空を見上げてそう言った。
ふうん。
台風一家ねぇ。
台風一家って、いったいどうゆう家族構成になってるんだろう。
――と、そんなことを考えながら、
オレは、秋晴れの青空の下。
洗濯したばかりの蛮ちゃんのシャツを、
ベランダの物干しのハンガーに引っかけ、
パンパンと音をたてて、その皺を伸ばした。
うーん。今日はいいお天気!
あとでお布団も干しちゃおうー。
オレは、青空を掴むように両手を天にむけると。
ぐぐぐ〜〜っと気持ちよく、思いきり伸び上がった。
END
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