暖かな人のぬくもりを教えてくれた人は、オレを利用して、オレを捨てた。
初めて愛されることを知って、それにどっぷり浸かって甘えていたオレは…。
…あの時のことははっきりと覚えていない。
ただ悲しくて。
悲しくて。
どうして捨てたの?
オレが嫌いになったの?
もう、いらなくなったから…また捨てるの?
だったら…どうしてオレを拾ったの?
どうして愛してるフリなんかしたの?
誰も信じれなくなって。
一人で生きていくようになって、心を失った。
人を傷つけるのも、殺すのも、愛さないことも。何もかも怖くなくなった。でも暗闇にいた。どこまでも出口のない暗く深いところ。
何も…感じないところ。
でも心の奥底では欲しがっていたんだ。
誰かに必要とされることを。
愛されることを。
そして出会ってしまった。
命をかけて戦って…惹かれて、好きになった。
あの人とは違う好きで。
誰よりも何よりも大事で、きっと失ってしまえば、自分はもう…。
だからやめた。
捨てられるぐらいなら、捨ててしまえばいい。
何もなかったあの頃に戻れば、もう怯えなくてもいいって。
だから…
蛮ちゃんから逃げたんだ…。
***
絶望
***
さらさらと、霧雨のような雨が絶えない。
銀次は無限城にほど近い、裏新宿へといつの間にか紛れ込んでいた。ここ数日、何も食べていないし、全く寝ていない。何を考えるでもなく、何をするでもなく。心は空虚だ。殺されてもいいとさえ思う。現に何回か襲われたが、無意識の内に相手は地面にひれ伏していた。…ただの肉塊となって。
「………」
銀次は壁にもたれ込み、ずるずると座り込んだ。
もう、何もする気が起きない。どうだっていい…。
(このまま、心のように体も消えてしまえばいいのに)
瞼がゆっくりと閉じられていく。
(疲れたな…)
寝て、目が覚めたら、死んでればいいのに…と意識を手放そうとした時。
「…銀次さん…?」
声に呼び戻された。この声は…。
「…カヅ…ちゃ…ん……?」
黒髪の艶やかな細身の姿がたたずんでいた。会いたくなかった内の一人だ。ここを立ち去ろうかと考えが脳裏を掠めるが、急激に意識が遠のいていった。
「銀次さん…!? 銀次さん! しっかりしてください! 銀次さん…!」
今度こそ、深い闇へと墜ちていった。
***
(…知らない、天井)
整頓された寝室。華美にならない程度に上質なインテリアで飾られている。部屋の明かりはぼんやりと照らすオレンジ色のルームライト。
(オレ…どうしたんだろう。もう死んでもいいかなって思って…でも無限城の近くまできちゃってて…それで、カヅっちゃんがいて…)
自分がどうなったか分からない。あれからどうしたのだろうか。花月と会って、それから彼はどうしたのだろうか?
ゆっくりと起き上がり、辺りを見回すと少し開いた扉が目に入った。そこからわずかに声が聞こえる。
「…ああ、だから来なくていいよ。…うん、うん、そうだけど。じゃあ誰かに薬を持たせてくれる? よろしくね、じゃ」
かちゃり、と受話器を置く音がした。するとその主は寝室の扉を開けて、姿を見せた。
「銀次さん? 目が覚めたんですか? よかった…どうしようかと思いましたよ。あんなとこにあなたがいるし、倒れてるしで」
「ごめんね、ありがとう…。ここ、カヅっちゃんの家?」
「ええ。だから安心してください。えっと、とりあえず電話貸しましょうか? 彼に電話した方が」
「いいんだ」
花月の語尾はさえぎられた。強い口調で銀次が言う。まるで、全てを否定するような。
「蛮ちゃんはもう、関係ないから」
「関係ないって…」
覚めた表情。冷たい、まるで…そう、無限城の王であったころの銀次そのものではないか。
彼があそこから出ると聞いた時、花月はしきりに止めた。自分たちを見捨てるのか、と問い詰めたら『オレの居場所はここじゃないみたい。…蛮ちゃんの隣なんだ』と嬉しそうに言ったのに。
あの時の彼はいない。
「……銀次さん、おなかすきませんか? おかゆ作ったんです」
にっこり微笑みかけると、キッチンへと誘った。
***
花月が用意してくれた粥を、二口、三口食べたところで匙を置いた。美味しいはずなのだが、味が全く分からなかった。喉も胃も、受け付けようとはしない。
「…オレね、蛮ちゃんにさよならって言ってきたの」
ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「辛いんだ、側にいるの。蛮ちゃん優しいから。オレが可哀相だから、拾ってくれたの。だから一緒にいてくれて…」
「な…にを言ってるんです。あの人だって、あなたのこと…その、好きだから、一緒にいたんでしょう?」
「わかんない。でももうオレ、寂しいの嫌なんだ…もう、捨てられるの嫌だから。だから…」
「そんな…っ!」
タイミング悪く、呼び鈴が鳴った。この場を離れたくない気がするが、きっと来たのは先ほどの電話の件だろうから、渋々玄関へと向かった。
誰か、彼の部下かと思っていたのだが、そこにいた長身の男は十兵衛その人だった。
「来なくていいって言ったのに…」
「しかし、あんなこと言われて来ないわけがないだろう」
「十兵衛、なの?」
キッチンから銀次が姿を見せた。聞き覚えのある声にまた彼の表情が曇る。
自分が去っていった無限城の住人に会うのは、とても心苦しい。
「…久しぶりだな、あなたが倒れたと聞いてな。薬を届けに来た」
「ありがとう…」
十兵衛の表情が硬くなる。
不安定な目、それは心を意味する。精神を病んでいる者が見せる表情に酷似していた。
それだけで医学の心得がある彼には断片が見えた。
何かから逃げ出したい、今は何もかも忘れて、無に還りたいという心が伝わってくる。
今の彼にとって、それは蛮のことだろう。でないと、彼がこの近辺に一人でいて、なおかつ倒れるなんてことがあるわけがない。
「雷帝」
ビクリと銀次の肩が跳ねた。
雷帝。
昔の自分。
「この薬、持ってきたが本当は違うものがよかったのかもしれんな」
「どう…いうこと…?」
「十兵衛! よけいなことを言うな!」
「いい、教えて。十兵衛」
「……全てを、忘れられる…薬が」
全てを。
この辛い現実から逃げられるということか?
そうできれば…どんなに楽だろう。
「無限城を出た後のことも、全てだ」
全部。
愛された喜びを忘れられたら。もう辛くなることはない…?
「彼のことも」
蛮のことも。
貧しいけど楽しかった暮らしも。
いつでも振り向けば彼が優しく見守っていてくれたことも。
心が通じ合っていたかのように、安心していたことも。
自分の思いを告げたときのことも。
初めて唇を触れ合わせたことも。
…初めて愛し合ったことも。
全て。
全てを。
「……銀次さん…」
ぎゅ、と花月が銀次を抱きしめた。
「あ…」
知らず、涙が溢れていた。
***
あれから、また銀次は気を失っていたらしい。目覚めるとベッドの上だった。傍らには花月が心配そうな顔で銀次を見守っていた。体を起こし、ベッドヘッドにもたれかかる。
「…すみません。十兵衛があんなこと言って…」
ふるふると首を振る。
「十兵衛は…?」
「帰りました。あなたに、すまないと伝えてくれと。…十兵衛も、あなたのことが気がかりなんですよ。あんなに幸せそうだった顔を僕たちは見たことがありませんでした。それほどに彼はあなたにとって重要だってことです。…離れただけで、死にそうになるぐらい」
銀次は黙って聞いていた。
自分でもわかっていた。蛮のことを忘れようとするほど、彼のことばかり考えていることに。
「もう、素直になってもいいんじゃないですか。傷つくことを恐れて自分に嘘をついて。あなたは一体どうしたいんですか。本当は自分でもわかっているんでしょう?」
「……」
「あなたの望みは何ですか」
花月の視線が銀次を貫く。
それは嘘を否定する輝きを放っていて、銀次は目線をそらした。まっすぐなんて見れない。こんな曇りのない瞳に、今は立ち向かえない。
「……望みなんてないよ」
「嘘をつかないでください」
銀次は体をビクリと震わせた。
静かな声だった。だが、響きは決して優しくはない。
無言の時が流れる。
だが、花月はじっと彼の言葉を待っていた。銀次の抱えている想いを、叶えてあげたかった。彼が望むなら、自分は何だってするだろう。
だから、微笑みを思い出して欲しい。
あの時のように一人にならないで。
もう、あなたの望みは近くにあるのだから。
銀次の手がシーツを握り締める。感情が高ぶっているのだろうか、拳が震えていた。
「カヅっちゃん…」
「はい」
「…………いよ…」
ぼた、とシーツに水滴が模様を作り出す。
「…蛮ちゃんに会いたいよ……っ」
愛してくれなんて言わないから。
だから…。
『渇望』へ
End:2002/10/11