―― キミノ ソンザイ ―― 「あ、蛮ちゃん。オレ、これがいい!」 「ああ? どれだよ」 「これ! こっち!」 「こっちじゃ、わかんねえだろが!」 「だって、字、よく見えないもん! もーちょっと左来て」 「あ? 左だぁ?」 「じゃなかった。ごめん、右だった」 「テメエなあ」 「あ、これこれ! あー、届かない〜 蛮ちゃん取って」 「あのなあ、オレ様は、テメー専用のクレーンじゃねえっての」 ぶつぶつと背中の銀次に向かって文句を言いつつも、蛮がコンビニのおにぎりの棚に、溜息混じりに手を伸ばす。 花月たちと別れ、とにかくベッドとシャワーのために安ホテルを取ったはよかったが、食べ物の調達をすっかり忘れていた二人は、銀次の体調が落ち着くのを待って買い物に出ることにした。 が、いざという段になって。 銀次は、自分の足がまったく立たなくなっていることに気がついたのだ。 力がまったく入らない。 仕方なく蛮は、自分が買い物に出ている間留守番してろと言いつけたのだが、銀次はきかなかった。 ともかく、片時でも離れるのが今は不安らしい。 もっともだ、とも思ってしまった蛮は、その銀次の身体の回復のためにも、とにもかくにも食料を早く与えてやる必要があり―。 結果として、このようなことになってしまった。 というか。 恥ずかしいから厭だというに違いないとタカをくくって吐いた提案を、銀次が予想外にあっさり承諾した結果なのだが。 おかげで蛮は、眠りこけている相棒ならまだしも、起きているうえ、肩口でやたらと五月蝿い相棒を背中におぶさって、ホテル近くのコンビニに買い物に出る羽目になってしまったのだ。 やれやれ、と思う。 ここに来るまでにも大概人目を引いてしまったが。 店内でも、やはりだ。 遠慮がちにというか、怖いものでも見るような視線を四方から感じるが、まあ、この際無視だ。 余りにくどいと、多少はまあギロリと威嚇もしてみるが。 どうも、この体勢ではな。 迫力に欠けるような気がする。 まったくもって、やれやれだ。 銀次はというと。 こちらはもう、公然と蛮に甘えられるのが、嬉しくてたまらないらしい。 おんぶされて街中を視線を集めつつ歩いても、恥ずかしげもなくはしゃいでいる。 まったくお構いなし、という感じだ。 ずっと離ればなれだった蛮と、こんなにくっついている。 それがきっと嬉しいのだろう。 蛮の肩から下ろした手に買い物かごをぶらんとさせて、空いている方の手をぎゅっと抱きつくように蛮の首に回している。 その背中から、ふいに呼ばれたように、店の外に視線を向けた。 空は、もうすっかり真っ暗だ。 ビルの谷間に、無限城の影がどっしりと在る。 もしかして今度こそ、帰ってこられないのではと覚悟もしたから。 この瞬間さえも、もしや夢の中なのではないかと思ってしまう。 自分の身体はまだあの谷にあって、肉体を他の魂に占領されたまま、意識だけが深い眠りの中で幸福な夢を見ているんじゃないか。 そんな風にも思えてしまう。 それでも今ここにある蛮の体温は、何よりも銀次にとっては”確かなもの”なんだけれど。 蛮の背中におぶさられたまま、ふとぼんやりしていた銀次は、蛮の手に尻をぱしっと叩かれ、やっと我に返った。 「おい、これかよ」 「え? あ、うん、それ! 照り焼きチキンマヨネーズ!」 「マヨネーズだあ?」 「美味しいよ、前に食べたじゃない」 「オレは、食ってねえぞ」 「そうだっけ? ああ蛮ちゃん、おにぎりは梅とか昆布とかおかか専門だもんねー。じゃあ、後で半分あげる」 「いらねー」 「なんでー? 本当に美味しいったら。あとオレ、牛肉しぐれとシーチキンマヨと高菜とオムライスと」 「ああ?! テメエ、いってえ何個食う気だ?」 「だって、おなかすいてるし! あと焼きそばとーお好みやきとー、あ、おでんも買おう! それから肉まんとー」 「オメーなあ」 「あ、スミマセン! ほら蛮ちゃん、邪魔になってっから、もーちょっとレジの方側行って」 狭い通路を塞いでいることに気づいて、銀次が、他の客に詫びて蛮に言う。 「銀次ィ」 肩越しに睨まれるが、食べ物を前にした銀次にはあまり効力は持たないらしい。 「だってさあ。あ、蛮ちゃん、あのミックスフライお弁当も食べたい!」 「いい加減にしろっての! 弁当は明日にしろや。いくら何でもハラこわすぞ」 「ええー。あ、じゃあ、デザートとお菓子は?」 「はあ?」 「甘いの食べたい。疲れてる時には、なんか甘いものって食べたくなんない?」 「オレはならねぇぞ」 「でもー」 「わあった。そんかわし一個ずつな」 「うん!」 「ったく」 デザートの棚に移動させられ、蛮が深々とため息をつく。 それでもまあ、悪かねえと思っている自分は、いったいどうしたことだろう。 どうでもいいがよ。 前よりさらに、銀次に甘かねえか、美堂蛮―。 そりゃあ、いってえ、どういうことよ? 銀次が、デザートを悩んでいる間、自問自答する。 もちろん、わかりきった事だけれども。 まさしく反動だ。 せっかく教育的指導のために厳しくしても、その後でこんなに猫っ可愛がりしてちゃ、意味ねえぞ――。 ウルセエと、自分で思う。 意味があろうがなかろうが。 今、ちょっとぐれえはいいだろう。 思い切り甘やかしてやりてえ気分なんだ。 コイツはこれでも、充分色々なことに耐えて、よく頑張ったんだからよ。 「どれにしよーかなー。あ、蛮ちゃん、ソレがいい!」 「これか?」 「じゃなくて。あ、やっぱふつーにプリンでいいや。そのおっきいのv」 「へえへえ」 「お菓子はねー。ポテトチップスと、ポッキーとー」 「ぎーんじ。ヒトの話聞いてねえのか! 一個つってるだろが」 「えー。2個はだめ?」 「一個!」 「けちー」 「あのなあ。明日、てんとう虫引き取りに行った時に、修理代払わなきゃなんねーんだからよ。有り金全部晩飯にはたいてられねーっつーの」 「ちぇー。じゃあ、ポテチで」 「おし」 「あー、なんかカゴ重いー」 「テメエが入れすぎっからだろうが!」 「だって、おなかすいてんだもん。あ、飲み物買ってないや、蛮ちゃん」 「あー、そっだな。オレのビール取れや。500を5本」 「ええ、そんなに飲むの〜!」 「ノド渇いてんだよ」 「あのホテル、冷蔵庫壊れてるよ。すぐあったかくなっちゃうのに」 「一気に飲んじまうから構やしねえよ」 「ふーん。じゃあ、オレもビールにしよ。後、チューハイのグレープフルーツと」 「悪酔いすんぞ」 「ヘーキ。それに、ベッドで寝るの久しぶりだから。ちょっとぐっすり眠りたい気分だし」 「あ? テメエ、トラックでも寝たおしてたじゃねえか、ずっと!」 「うーん。けど、あんまり寝た気はしないんだよー。身体中、なんか痛いし、凄くだるくって」 まるで風邪気味とでもいうような軽めの口調に、どこか安堵しつつも、蛮の瞳が微かに翳る。 ホテルで目覚めた直後の、ひどくつらそうな銀次の顔を思い出した。 「……気分はどうよ」 声のトーンを落とす蛮に、銀次がにっこりと元気に答える。 「うん。もうおさまってる。なんせ、ほら、おなかすいてるぐらいだから!」 「…そっか」 「うん。ごめん、心配かけて」 笑顔のまま、首もとに甘えてくる銀次に、蛮がさすがに周囲をちらりと見る。 固まったまま自分たちを凝視している店員を見つけると、目でシッシッと追い払った。 おかげで銀次に答えた声は、照れ隠しのためか、ずいぶん憮然としたものになってしまった。 「別に。心配なんぞ、しちゃーいねえけどよ」 結局、買い物が全て終わる頃には、カゴは商品で溢れんばかりになっていた。 レジに向かう蛮の肩から伸ばした手で、銀次がレジの横に”よいしょっ”とばかりにカゴを置く。 蛮に財布を手渡され、その頭の上で小銭を出すのに銀次が苦労している間。 何げに店の扉に映っている己の姿を見た途端。 さしもの蛮もぎょっとなってしまった。 おいおい。 無敵無敗の邪眼のオトコが、さすがに、これじゃあマズいんじゃねえか? さらには。 とにもかくにも買い物袋を銀次に持たせ、やっと店を出られると思いきや。 店員に「お客さまー。500円に一枚クジを引いていただけますがv」などと余計な事を言われたおかげで、ヤメロというのにすっかりその気になった銀次は、「ええっ、せっかくだしやりたいー! なんかイイもの当たるかもしんないよ!」と、11枚も嬉しげにそれを引いたりしたものだがら、さすがに蛮はブチ切れた。 「ったく! なーんで、んなもん引くんだよ!」 「ええ、だって! おかげで20円引きの券が2枚と、アップルジュースとカフェオレが当たったんだよー」 「って、テメーのもんばっかじゃねえかよ。しかも、さらに重くなりやがるし!」 「荷物、オレが持ってるもん」 「そのテメーを背中に担いでるのはオレだろうが! ああ、もう降りろ! うっとおしい」 「ええっ」 いきなりコンビニの前で下ろされて、銀次が荷物を両手に持ったまま、その場にぺたりと座り込む。 「もういい加減、すぐそこのホテルぐれぇまで歩けるだろ!」 「で、でも」 「おら、行くぞー」 「え、蛮ちゃん! ひどいよー」 「根性で立て!」 「え、ま、待って!」 「さっさと来いっての」 「ば、蛮ちゃん」 背を向け、目の前の道路を渡りかける蛮に、それがいつもの冗談混じりのことだとワカってはいるけれど。 追いかけようとした足は、力が入らず膝立つことも出来ず、焦りの余り、前のめりになりながら、銀次が離れていく背中に懸命に手を伸ばす。 ああ、こんな風に向けられた背中。 あの時も。 あの時も、こんなだった― 振り向いてもくれなくて。 呼ぶ声にも、答えてくれなくて。 思った途端。 銀次の喉から出た声は、切羽詰まった悲鳴のようになっていた。 「蛮ちゃん…! 蛮ちゃん!! 待って!!」 「銀次?」 横断歩道を半分ばかり渡ったところで、蛮がその声に驚いて振り返る。 「蛮ちゃん!! 蛮ちゃん!!!」 顔を歪めて、今にも泣き出しそうな頼りない瞳と合い、蛮がさっと顔色を変えて瞳を見開いた。 信号が変わったにも関わらず、猛然と銀次の元に駆け戻る。 「銀次!」 そちこちから、五月蝿くクラクションが鳴り響いた。 「蛮ちゃん、蛮ちゃん!」 戻ってきてくれたことに心底ほっとしたような顔をして、それでも駆け寄ってきて屈んでくれた蛮の首に腕を回して、勢いよくしがみつく。 「どうした? おい、銀次」 その身体の抱き寄せるようにしつつ尋ねると、涙声で呻くように銀次が言った。 「置いていかないでよ、蛮ちゃあん…!」 言うなり、ぎゅっとさらに強くしがみついてくる腕に、蛮がはっと瞠目した。 「…冗談だろが、アホ」 答える蛮の声に、動揺が走る。 銀次の過敏すぎる反応が何を示しているかを思い当たり、本気で”しまった”と思ったらしかった。 「だって…!」 「銀次」 少しでも安心させるように髪を撫でる。 往来のど真ん中だなんてことは、この際、もうどうでもよかった。 「……お願い、置いてかないで」 声が微かに震えている。 抱きつく腕も、怯えたように微かに。 「…銀次」 「…もう、オレを置いてかないで」 絞り出すように言った言葉に、苦しそうに目を伏せて蛮が小さく返した。 「…………悪かった」 いつもはこんな風に先に立って歩く自分を、銀次は子犬のように走って追いかけてきて。 振り返ると、「蛮ちゃん、待ってよー」と呼ぶその顔がいつも笑顔だったから、どこか安心していた。 もう、過去の傷はほとんど癒えたのだと思っていた。 だが―。 また、新たに傷を作ってしまったのか。 親に捨てられ、無限城での”保護者”に捨てられ。 そのトラウマで苦しむ胸の内に。 傷の上に、さらに傷を重ねるようにして。 植え付けたのか。 また新たな痛みの記憶を。 この己自身の手で。 今の今まで、気がついてやれなかった。 結局、自分もあの時は。 冷静なようで、ちっともそうではなかったのだ―。 コイツを突き放すことが、自分にとっても心が血を流すようにつらかったから。 そこまで気づいてやれなかった。 なんてぇ大馬鹿者だ、オレは― 「…蛮ちゃん?」 「悪かった、銀次」 いきなり、そんな風に神妙に侘びられて、銀次の方が驚いたような顔になる。 蛮から少し身体を離し、琥珀の瞳が蛮を見つめる。 「蛮ちゃん?」 「…何でもねぇよ」 答えて、くしゃくしゃと髪を撫で、目を細めてさらに安心させるように笑んだ。 「でけぇ声出して呼ぶんじゃねえ。カッコ悪いだろーがよ」 「あ。ごめん」 「テメーの声は声に出さなくても、ちゃんと聞こえるんだからよ。今度から、そういう時ゃ、ここで呼べ」 言って、トンと拳で銀次の胸のあたりを叩く。 どうやら落ち着いたらしい銀次が、それににっこりとした。 「うん…!」 「おら、おぶされって」 「うん」 背中を向けられ、銀次が蛮の肩に両手を伸べる。 足が立たずにもぞもぞしていると、腕を掴まれ、片手に尻を持ち上げられ、勢いよくその背中に引き上げられた。 わっと驚きつつ、落とされないように慌てて蛮の首にしがみつく。 地面の上に忘れられていた買い物袋は蛮が取り、持てやと銀次の手に渡した。 身体の前で、買い物袋が2つブラブラするのをちょっとうっとおしく思いつつも、蛮が無言で歩き出す。 背中の銀次も、蛮の想いを察したらしい。 大人しく、その肩口で目を閉じた。 眠いわけではないのだけれど、垣間見てしまった蛮の表情に、少し胸が苦しくなったから。 黙って、その逞しい肩に甘えていたかった。 車のライトに照らし出されながら歩きつつ、ややあって、ふいに蛮が口を開いた。 「お前」 「ん?」 「いいのか」 「え? 何?」 「わだかまらねぇか、猿マワシのこと、よ」 想いとは違うところを問われて、銀次がやや戸惑う。 それでも、しばし思考を巡らせてから、蛮の言わんとしていることをやっと判ずると、こくんと頷いた。 「うん、大丈夫。マドカちゃんのためにしたことだし。士度がどういうヤツかって、ちゃんとオレ、知ってっから」 「…お人好しめ」 「そんなこと、ナイけど」 「そいでも、ちったぁショックだったんだろ」 ホテルでいきなり泣き出した経緯があるので、その辺りは否定しづらい。 それで泣いたというわけでは、たぶんなかったんだろうけれど。 あまりにも、色んなことがありすぎて、色んな気持ちに翻弄されてしまった結果の涙だと、自分ではそう理解しているのだが。 蛮の目には、どう映ったんだろう。 思いながら答える。 「…そりゃあ…。考えてもなかったから、ビックリしたし」 「…よく、言っとかねーとな。あの野郎にはよ」 返って来た言葉に、銀次が慌てた。 「え? あ、蛮ちゃん! 喧嘩はだめだよ! オレ、本当に、士度がそうするより仕方なかったって、そう思ってるし! だからその…。蛮ちゃんも、士度のこと、怒んないでほしい―」 「―わあってる。テメーが本気で、んなお目出てぇ考えが出来るヤツだって事は、オレも重々承知してるからな。だが、頭でそうとワカってても、気持ちじゃどうしようもねえことってあんだろ。…銀次。そういうのは別に、何もおかしかねえ、あたりまえの感情なんだからよ。オレぐれぇには、吐き出せや」 「…蛮、ちゃん」 宥めるように言われて、銀次が瞳を見開く。 確かに、頭では理解出来ていても、気持ちではどうしようもないことがある。 士度のことも、たぶん。 わだかまるとか、そういうことはないにせよ。 カナシイ想いは、確かに自分の中にあった。 どうしてなんだ―?と、その場で問いたかった。 士度の口から、ちゃんと本当のことを聞きたかった。 いつか、そういう機会もあるだろうが。 何れにせよ、少し時間はかかるだろう。 それは銀次側の問題ではなく、むしろ、銀次に負い目を抱いてしまっただろう士度の方の問題として。 蛮の肩で、銀次が小さく鼻を鳴らす。 湿った音と、途切れた声に、蛮が微かにほっとしたような笑みを漏らした。 前を向く目線が、格段にやさしくなる。 背中にくっついていて顔が見えないことと、密着した体温が銀次の涙腺をいつもより更に緩ませているらしい。 何よりこの背中は、銀次にとって、世界中のどこよりも安心できる場所だから。 ぎゅっとしがみつかれて、蛮が、フ…と笑んだ。 ったく。でけぇ赤ん坊だぜ。このガキは― 思いつつ、その赤ん坊みたいな相棒相手に、自分のした仕打ちを思い返した。 やわらかだった紫紺の色が、少しひやりとした寒そうな色に縁取られる。 背中の銀次が落ち着くのを待って、蛮が遠慮がちに問いかけた。 「なあ、銀次」 「うん?」 「オレのこたぁ、どうよ?」 「え?」 今度こそ、意味がわからなかったのか、首を曲げて、銀次の顎が蛮の肩を乗り上げてくる。 至近距離で覗き込むようにされて、蛮がバツが悪そうな顔をした。 「オレのことは、テメーの中でわだかまってねえのか?つってんだよ。 殴りつけて、置き去りしてったオレを恨んでねえのか」 「なんで?」 間髪を置かずに、逆に問われた。 「なんでって」 「そんなこと、思うわけないよ」 断言に面食らって、同じ問いを銀次に返した。 「なんで?」 「だって。蛮ちゃんのことは、オレのためってワカるもん」 「…あ?」 「士度の気持ちがワカるオレに、蛮ちゃんの気持ちがわからないわけ、ないでしょ?」 自信たっぷりに言う。 「蛮ちゃんのことは、オレが一番よく知ってるんだから」 「…オメーは」 言葉が途切れる。 胸がつまる。 そんなことを平然と言ってのける人間に、まさか自分が出会えるとは思ってもみなかった。 そんな過去が、嘘のようだ。 首元に甘えてくる銀次の髪のくすぐったさに、蛮が思わず顔を顰めた。 それでも。 その心に傷を負わせたのは、事実だ。 それは銀次が赦そうと、己自身が許せることではない。 声を潜ませた。 「…けど、つらかったろ?」 「えっ」 「つらかったんだろ、あン時はお前…」 「蛮ちゃん」 「あ?」 話の途中で名を呼ばれ、蛮が銀次の頭がある方の肩を振り向く。 こんな風に、銀次が話の腰を折ることはめずらしいので、つい間の抜けた声が返ってしまった。 そんな蛮に、今度は逆に銀次の方が、子供を諭すような口調になる。 「蛮ちゃんはさー。オレのこと、言葉にしない心の中もさ、いっつもちゃんとワカってくれるでしょ?」 「あ? そりゃあ、買いかぶりすぎってヤツだがよ」 「そう? でも、オレもさ。ちゃんとワカるよ。蛮ちゃんの気持ちとか」 「…そりゃ、どーだかな」 「気づくの、いつもちょっとだけ遅くなっちゃって悪いなあっていうのも思ってるけど。蛮ちゃんの目見たら、いつも蛮ちゃんの気持ちは大抵わかるんだ、オレ」 無邪気に放たれた言葉に、蛮が、はっと銀次を見直した。 驚きの余り、足が止まる。 前から来た中年の酔っぱらいが肩にぶつかっていくが、それすら気がつかないかのように、見開かれたままの紫紺が、相棒の顔を凝視した。 何しろ。邪眼使いである自分の目を覗き込もうなんて物好きすら、過去に誰1人としていなかったのだ。 それをこの男は。 覗き込んだ上に、その瞳の奥の真意まで汲み取って、それを易々と受け入れようとしている―。 何て、ヤツだ。 蛮が、思う。 「さっき。オレが呼んで振り返った蛮ちゃんの顔。すごく、つらそうにしてた」 「……!」 「呼んだオレよりずっと、苦しそうなつらそうな顔してた」 言い当てられて、蛮が思わず瞳を反らした。 肯定の意味だと知られても、もういいと思った。 どうせ、銀次は気づくだろう。 いくら、ここで否定をしたところが、真実はそうではないと、どうせあっさりと気づくのだ。 「つらかったの、蛮ちゃんも同じだったんだね…」 しんみりと言った銀次の言葉がゆっくりと心に染み込み、心の奥に波紋を落としていく。 ぐっと何かに押されたように、胸の辺りが切なく痛んだ。 「……アホ」 「うん」 「利いた風な口をきくなっての」 「ごめん。……怒った?」 「別に…。怒るよーなことじゃねえだろ」 「………だね」 怒ってはいないが、憮然とはしている蛮に、銀次が宥めるように、すりすりと蛮の頬に頬を擦り寄せる。 「こら、やめろって」 「蛮ちゃんのほっぺ、冷たくて気持ちいーい」 「銀次、おいコラ」 くすっと笑いを漏らす銀次の温もりに、心の奥が癒されていくような気がする。 そうして、癒されていると気づいてから、いつも初めて知るのだ。 いつのまにか自分の心にも、ささくれた傷が出来てしまっていたことに。 「蛮ちゃん」 「んー?」 「なんか、久しぶりって感じがするね。この街」 やっと歩き出した蛮の背中から、懐かしむほど離れてもないんだけれど、と周囲を見渡し、銀次が言う。 二人にとっては、住み慣れた街だ。 よどんだ空気さえ、愛おしいと思う。 こういう場所を、人は故郷と呼ぶのだろうか。 「ああ。たかが数日の事なのにな」 「うん。でもさ。もう帰れないかもって思ったりもしたから」 「…銀次」 「蛮ちゃんともう、こんな風に一緒にいられなくなるのかなあって。あの時は、ちょっとだけそう思ったから」 「…ああ」 「だから、今、こうしていられることが、すんごく嬉しい―」 「銀次」 「蛮ちゃんと一緒にいられたら、オレ、他のことはもうどうだっていいんだ」 ”たぶん、本当はそうなんだ”とそう言って、まるで夢でも見ているような目をして微笑んで、蛮の肩にぴったりと頬をくっつけ耳に囁く。 「だいすき」 「……バカ、ヤロー」 答えた蛮の声は、微かに震えていた。 「蛮ちゃん?」 「…おう」 「どったの? あれ? もしかして、泣いてんの?」 「あ゛あ゛!? 誰が泣くか!」 「なぁんだ、ちがったの? でもさ、なんかさ、今ちょっと”じーん”ってなってなかった? ねえねえ」 「なるか!」 「そう? でもさ、でもさ。今の蛮ちゃんの声ってさー」 「うるせえ! ったく、このドアホが! ちっと甘ぇとこ見せりゃあ付け上がりやがって!」 「うわ、ちょっといきなり何すんのー! 落ちる!」 「落ちろ!」 「ええ、やだよー!」 「テメエなんぞ、ここから落っことしてやる! おら、落ちろって!」 「落ちろって!! ここ、歩道橋の上だよ、蛮ちゃん! 」 「ぐえ、首が締まるだろが!」 「絶対降りないもん! ていうか、落ちたら死ぬし!」 「テメーは頑丈だから、大丈夫だ。どってこたぁねえ!」 「あるよ! ありますってば! わーん、やめてー! い゛やー、い゛やー!」 「んなろ〜! ほーお、そうかよ。そういう聞き分けのねえガキにゃあなあ! こうだ! オラオラ〜」 「いったああ! ちょっと蛮ちゃん! オシリつねらないでよお! 痛い痛い痛い〜〜〜! や〜め〜て〜!」 「あーもう! 重え!! こら、おでんの汁がこぼれんだろうが、暴れるな!」 「っていうんだったら、やめてよー! 蛮ちゃん! い゛た゛ーい」 蛮の背中を、後ろから迫ってくる蛮の手から逃げて上へと移動し、蛮の頭を押さえつけて肩までよじ登る銀次に、さしもの蛮もその重さに耐えかねて前のめりになってしまう。 それでも銀次をイジメるのが楽しいとばかりに、指先がハーフパンツの尻を追い掛け回す。 銀次は、悲鳴を上げながらも、そんな子供みたいなふざけっこにはしゃいで、げらげら大笑いだ。 蛮も、我ながら有り得ないくらい笑っているぞと、自分で思う。 ネオンサインと、車のライトに照らし出される二人の顔は、もうすっかりいつも通りだ。 おんぶから肩車状態になって、ふざけながら歩く人混みの中、行き交う人が酔っぱらいを見るような呆れた目で見ていくが。 それでも一向に、二人は気にならなかった。 傷も過去も、一緒に持っていけばいい。 互いに癒していけばいい。 そんなところで気負うような関係でも、今更もうないだろうし。 そんなことよりも。 心から笑い合える”二人きり”を、今は殊更堪能したい。 やっと二人の時間を奪還した夜。 数日ぶりに見る無限城でさえ、銀次の目にはやさしく懐かしく映った――。 END novelニモドル |