Innocent days
=嫉妬=





「うるせえ! あぁ、わかったっての!!」

携帯に向かってそう怒鳴るなり、蛮は、乱暴にそれを畳むとズボンのポケットへと突っ込んだ。
舌打ちは、忌ま忌ましげに。
床にぺたんと坐り込み、マリーアから貰った積み木で熱心に遊んでいた銀次が、その音に"ぴ?"と驚いた顔で蛮を見る。
「蛮ちゃ?」
三角の積み木を手にしたまま固まって、大きな瞳で"どうしたの?"と不安げに見つめてくる銀次に、蛮が一瞬で表情を崩し、首を振った。
「何でもねえよ」
「うー? 蛮ちゃ、めっ?」
「テメエに怒ってなんぞねえって」
「んん?」
"じゃあ、なあに?"と鳥の雛が首を傾けるように、小首をかしげるしぐさが何とも可愛い。
もっとも、普通の16の男がそれをしたら、どう考えてもかなりキモイ筈なんだがよと苦笑を滲ませ、蛮が銀次の傍らへと歩み寄る。
すぐそばに片膝をつくなり、喉の奥から、つい笑いが漏れた。
「何だよ、テメエ。その顔」
「ぴよ?」
「きったねえ顔だな」
「はぅ?」
感心したように言われ、銀次がきょとんと床の上にあったミニミニサイズの手鏡に顔を映す。
蛮はティッシュの箱を引き寄せると、ケチャップのついたその口元をごしごしと拭ってやった。
どうやら、昼食をがっついた後の名残りらしい。
「こら、じっとしろって」
「んあー」
くすぐったそうに瞳を細める銀次の口を拭い、蛮がくしゃくしゃの金のやわらかな髪を撫でつけるようにする。
ティッシュをゴミ箱に放り投げ、その金の頭を引き寄せると、コツンと軽く額を合わせた。
呼びかけは、恐ろしくやさしげ。
(蛮を知る者が聞いたら、きっと皆、ぞっと青ざめ、ひきつった顔で逃げ出すに違いないだろうが)

「銀次ー」
「ぴよ?」
「ちっと、出てくる。すぐ帰るからよ」
「うあ!?」
「大丈夫だ、遠くに行くわけじゃねえ。家の前にいる。心配すんな」
「…あうー、蛮ちゃー」
なんで一人でお外いくの?と、少々不服そうな瞳に笑みを返して立ち上がると、蛮はおもむろに冷蔵庫を開いた。
「おら、これやるからよ」
「んあぁv ちごっ、にゅーにゅ!」
いつもは風呂上がりにしか貰えないすぺしゃるなアイテムが、いきなり目の前に差し出され、銀次がうおおっ!と歓声を上げる。
不安げだった琥珀が、あっというまにきらきら輝き出した。
「ったく。ゲンキンな奴だな、テメエは」
その満面の笑顔に、俺はもしかして牛乳以下か?と内心でこぼしつつ、ピンク色の四角いパックからストローを剥がすと、それを伸ばして差し込み、銀次に手渡す。
「ゆっくり飲めよ」
「あいっ!」
「それ飲んで、いい子で待ってろや。すぐ済むからよ」
「……あい」
玄関を出て行く蛮の背中に、"ちゅー"とストローを吸う音で答えて、銀次がそれをじいっと見送る。
普段なら、玄関の扉が閉まる音に、既に大泣きになるのだが。
ひとまず口に物が入ってるおかげで、それはなんとか回避できた。








だが。
パック牛乳一個きりでは、さすがにそれほど間が持つ筈もなく。
またたく間にそれを飲み干してしまった銀次は、ぺったんこになったパックを「ぽいっ」とゴミ箱に捨てると、不安そうに窓を見上げた。






蛮ちゃー。
のんだー。


おかえり、まだー?





だけども、蛮の帰ってくる気配はなく。
「くすん…」
口の中に何にもなくなると、途端に淋しくなってきて。
イチゴと牛乳の甘い後口が、どうしてか余計に銀次をかなしくさせてしまう。
「蛮ちゃー」
心細げに、つぶやくように銀次がその名を呼んだと同時に。



「しつけえ! 離せっつってんだろうがよ!!」



窓の下から聞こえた蛮の怒鳴り声に、銀次は驚いて、ぴょん!!!と床の上を跳ね上がった。
そして、恐る恐る窓を振り返り、それから、びくびくしながらも、四つん這いで窓へと向かう。
別に隠れることもないのだが。
頭を上げて歩いていっても、たぶん、ミサイルもブーメランも蛇咬もこちらには飛んでこないはずなのだが。
それでも。
滅多に聞くことのない(銀次に限り)蛮の怒鳴り声に、心臓がばくばくなる。


どうしたの、蛮ちゃん?
どうして、そんな怒ってるの?
め?


どきどきしつつ、窓の下に指をかけて、持ち上げるようにゆっくりと顔を上げて外を見る。
途端。








「う!!」







ぎくりとした。
いや、ぎくりというよりは。
むしろ、ぐさりといった感覚?



銀次がその光景にばっ!!と身を返し、ばたばたばたばたっ!!!と床を這って、窓を離れる。
そして、必死の形相で積み木の前に戻ると、横にあったティッシュの箱に衝動的に手を伸ばした。


むんず!と一枚とって、顔をごしごし。
でも、そんなことで気が鎮まるワケもなく。
また一枚引き出し、今度はほとんど使わずにぽいっ!
ああ、でも、それくらいじゃ到底足りなくて!




むっ、むむっ! 
こんなの、こんなの!
ぽい、ぽい、ぽいぽいぽいっ!
なんなの、なんなの、なんなのっ!
こんなの、こんなの、こんなの〜〜〜っ!!!
んがががが――!! 
ぽいぽいぽいぽいぽい、ぽいのぽいっぽいのぽいっ!!!




んあああああ!!!
それでもそれでも、それでもっ!
なんかなんかなんか、もうもうもう――――っ!!!





ティッシュをちぎっては投げ、ちぎっては投げしつつ。
だんだんに、涙が大きな瞳をこんもり盛りあがって、ぼろぼろとそこを溢れ落ちてくる。
えぐえぐえぐと泣きじゃくり、それでもそのティッシュで涙を拭うとかいう事は、思いつかないらしく。
床にぽとぽとと涙が落ち、それが次第に大きな水たまりになっていく。







――ばんちゃん。







おんなのヒトと、おはなししてた。
チチ、おっきくて。
きれいな人。




とっても、きれいなヒトだった。
まるで、きれいな。
ちょうちょ、みたいな。








「…………ぐしっ」








オレ。
見ちゃった。




おんなのヒトの手が、
ばんちゃんの手をぎゅっとした。



ばんちゃんが、ぱん!とそれをはらったので。
オレは、びっくりしてのけぞった。










でも、そのヒトはわらって。
今度は、


ばんちゃんの首をぎゅっとした。













――ので、にげちゃったの。オレ。









あのあと。
ばんちゃんも。

あのひとを、
ぎゅってしたのかなぁ…。










思うとまた、涙がぽろぽろと瞳を溢れて、ぼとぼとと床を濡らした。
その横に、さっき覗き込んだ小さなおもちゃの鏡がある。
銀次はそれを手に取ると、さっきのように覗いてみた。




「むう…」







そこにいたのは。

なみだでぐっちゃぐちゃの、
ばっちいオレ。







ちょうちょみたいな。
きれいな、あのヒト。







オレ。
金色のくしゃくしゃ頭。
けちゃっぷのついた、
よごれた緑のトレーナー。
これじゃあ、あおむし?(うえーん)












――まるで。
ずっとこのまま。


ずっとこのまま蝶になることはない、
ミジメでちっぽけなあおむしみたい。






「……くすん…」






なんか。
胸のあたりが、ぎゅっとなる。
…いたい。
なんか、いたいよ。


ばんちゃん。
こころぼそいよ。
さびしいよ。












――――でも。。。。












「………がう」





ちがう。











ちがうもんっ!






あのちょうちょさん。
とってもキレイだけど。
でも。






でもでもでもでもでも!!!
あんなの、ちがうっ!

ち――が――うっっ!!!





だって、ばんちゃんは、
オレのだもん!
オレのばんちゃんなんだモン!



オレだけのばんちゃんなんだから!!!







負けないモン!!!
オレ!
とられたりしないもん!!!











泣いちゃ、だめっ。

泣くな、オレ!!!











がんばるんだもんっ!!!









「むーっ、むむむ…!」





ぐぐっと拳を握る銀次の脳裏に、ふと、金色の光を纏ったきれいな蝶の姿がよぎる。



そうだ。

オレも、いつか。
いつか、ぜったい。


きれいな、きれいな、金色のちょうちょになるんだ。
あのヒトにまけないくらい。
きれいな、きれいなちょーちょになるんだ!!


おっきくなったら!! 
(もう、おおきいけど)





「よおしーー!」




















両肩で大きく息をつき、疲れた顔で扉を開いた蛮は、部屋中に散乱するティッシュの山に、さらに脱力したように"はぁ…"と特大の溜息を落とした。
(……おいおい、いったい何だってんだ。こりゃあ)

まあ、それでも。
ひとまず銀次が大泣きしていなかった事に安堵し、靴を脱ぐ。
「ぎーんじ?」
呼んで中に入るなり、目に飛びこんできた光景に、蛮の片眉がぴくりと跳ね上がった。
「…なーにやってんだ? テメエ」
全開にした冷蔵庫に顔を突っ込み、中のくだものやら菓子やらを、むしゃむしゃがつがつと貪るように口にほおりこんでいる銀次に、蛮が腰に両手を当て声を低めて言う。
その視線にはっと気付くと、銀次がにぱっ!と、さも嬉しげな満面の笑顔で蛮を見上げた。
「蛮ちゃ! かえりー」
その無邪気な笑顔に、つい「おう、帰ったぜ」と返事をしてしまったせいで、「何やってんだ、ゴラ!!」と怒るタイミングを逸してしまったが。
…まぁ、この際良い事にする。

予定外に長い時間(15分ほどだが)を、銀次一人にしてしまった自分も悪い。
ましてやその理由が、以前数度遊んだ女にこんなところまで押しかけられ、それを追い払うのに手間取っていた、というのだから。
まったく、威張れたものではない。
どうしても、後ろめたい気がしてしまう。
(もっとも精神年齢推定1歳そこそこのひよこ頭の銀次には、そんなませた発想もないだろうが)

「しかしまぁ、テメエ。昼にあれだけ食って、まだ食い足りねえほど腹減ってんのか?」
「はう?」
「だからつってよ。いくら何でも食い過ぎだっての」
言いながら洗面所に行き、タオルを濡らすと、赤だの白だの黄色だのカラフルな色合いになっている銀次の口元を、それでごしごしと拭ってやる。
「蛮ちゃー。んーね」
「ん? あぁ、動くなって。こっち向いてろ」
「んがー、蛮ちゃー」
「こら、ちっと黙ってろ。取れねえだろうが」
「あうー」
「それにしても、よく食えたもんだな。こんなによ」
「ぴー?」
「冷蔵庫、ほとんどからっぽにしちまって」
「…あ゛ー」
「別に食うなとは言わねえがな」
「…あい」
「んな見境なくバクバク食ってたらよ」
「ぴよ?」


「今にブタになっちまうぞ!」


「ぴ!?!?!」


蛮の言葉に、銀次の瞳が丸く大きく見開かれ、いかにも"がーん、大ショック!!!"というそれになる。



「ぶひ!?」
「あ?」




がーん!!
ぶた???!
ぶたって!


ちがうっ、オレ、そうじゃなくてっ!
ぶたさんじゃなくて、
ちょうちょになるのっ!
いっぱい食べて、
きれいなちょうちょになるんだからっ。



「がうっ!」
「は? 何が違うっての」



もう、ちがうっ!
ばんちゃんのばかばかっ。



「がう、がうっ! んもーー!」
「は? 何怒ってんだ? おい、銀次」



いきなり蛮の手の中からすり抜けるようにして、ぱたぱたと部屋の隅に走った銀次は、おもちゃ箱になっている大きなダンボール箱の中を漁ると、すぐ一冊の絵本を見つけ出し、それを手に、またぱたぱたと蛮の前へと戻ってくる。
そして、蛮に「むし、むしっ!」と『はらぺこあおむし』と書かれた絵本を差し出した。

「あぁ? 『はらぺこあおむし』だ?」

鮮やかな色彩で描かれたその本は(これもマリーアからの贈り物だ)、最近の銀次のお気に入りの絵本で、腹を減らした小さなあおむしが、一週間毎日ばくばくと果物やら菓子やらを食べつづけ、あげくに案の定腹を壊し、それでも葉っぱを食べて元気になった後は無事さなぎになり、最後にはきれいな蝶になるという話だ。

「ちょーちょ!!!」

「? 蝶がどうした」
「なるっ!」
「なるって。誰が?」
「ぴっ!」
「テメエが?」
「あいっ!」
力いっぱい宣言されて、蛮がその顔を、いぶかしむようにまじまじと見つめる。
「……つまり。この本のあおむしみてぇに山ほど食って、蝶になるってか?お前が?」
「あい!!!」
言いたいことはわからないでもないが、だからと言って。どうしていきなりそういう発想になるのか、それがさっぱりわからない。
「……なんでそうなる」
「むしっ、ちょーちょ!」
「じゃ、なくてよ」
「う〜〜! ちょーちょ〜〜!」
どうにも思いが伝わらなくて、じれったそうに身をよじる銀次に、蛮がやれやれと困ったような顔になる。
「いや、だからよ」
「なるっ、のっ!」
「あのなぁ、銀次」
「ちょーちょ!!」
「…あぁ、わかった」
頑固に言い通す銀次にひとまず折れて、蛮が深々と溜息をつく。
その手から絵本を取ると、とりあえず坐れと床に座らせ、自分もその前へと腰を下ろした。
まだ顔中に、むんっ!と力を込めている銀次に苦笑を漏らしつつ、宥めるように金の髪をくしゃくしゃと撫で、努めて静かに蛮が言う。
「つーか、その前によ。山ほど食って、あおむしはどうなったよ?」
「ん? ちょーちょ!」
「蝶になる前だ」
「んっと?」
「おう。よく見ろ」
ぱらぱらとページを捲っていき、銀次が、突如うっという顔つきになる。上目使いに蛮を見た。
「………おなか。いたた?」
「だな」
「…う」
「腹こわして、医者に行きてぇか?」
「う、ううっ」
「薬、飲めねえだろが、テメエ」
「ううううー」
「注射も怖えんだよな」
「ちゅーしゃ!? い゛やー、い゛やー!」
「だーから、ドッチにしてもよ。んな無茶な食い方はすんじゃねえ。わかるな?」
蝶になれるかどうかという問題はさておき、ひとまず、肝心な話を先にする。
実際、蝶になれる日まで、こんな調子で食べ続けられては堪らない。
(そして、たぶん。銀次が蝶になれる日は来ないはずだ。ひよこが蝶に成長した話は、まだ聞いたことがない)



「…………ぐすっ」
「……銀次?」

両手を自分の膝につき肩を落とすなり、大きな目にこんもりと盛り上がってきた涙に、蛮がぎょっとしたようにそれを凝視する。
「どうした? なんで泣く?」
うろたえる内心を隠しつつ、やさしく髪を撫でつけてやると、また新たな涙がぽろぽろっとやわらかそうな頬を滑り落ちた。
「蛮ちゃ…」
「ん?何だ」
「ふえぇ…」
「ったく…。どうした、おら、こっち来い」
大泣きされるのは日常茶飯事だが(それでも泣かれる度に、顔では平然としつつも内心ではかなり狼狽しているのだ)、こんな風にしくしくと泣かれることは滅多にない事なので、いったいどうしたのかと心配になりつつ、蛮が両の腕を差し伸べる。
膝立って前進し、蛮の膝の上へと乗り上げて横になり、その腕の中にすっぽりと収まると、銀次が蛮のシャツに鼻頭をこすりつけるようにして甘えてきた。
「どうしたよ。ん?」
やんわりとくるむように抱きしめて、しがみついてくる銀次の背中をぽんぽんと叩く。
「蛮ちゃー」
「何だよ、言ってみろ」
「蛮ちゃ。ひっく…。ぎゅって」
「あ?」
「ちょーちょ…。ぎゅって」
蝶と『ぎゅっ』というのがあまりにも結びつかず、蛮がそれでも頭の中で、あれやこれやと思い当たるものを探ってみる。
そして、ふと。心当たりを見つけて、ぎくりとなった。

いや、まさか。
とはいえ。
いくら考えても、思い当たるものと言ったら、"アレ"しかない。

まさかと疑いつつも、恐る恐る主語を省いて尋ねてみる。


「――お前。もしかして、見てたのか?」


「………ぐすん」
蛮の胸に顔を埋めたまま、こくんと一つ項垂れるように、金の頭が縦に振られる。
蛮が、一瞬で苦々しい顔つきになった。


大失態だ。畜生。


これでも、気はつけたつもりだったが。
だが、予想外に女はしつこくて。
しかも、にべもなく冷たく、どんな言葉を吐こうが振り払おうが、懲りる気もなければ引く気配もなく。
一向に構わず、無遠慮にべたべた纏わりつかれ、ついにはキレてしまったのだ。

キモチ良い行為さえ出来れば、お互いの感情などどうでもいい。
少しばかり前までは、自分もそんな風だった。
だから尚の事、それがどうにも蛮の心を逆撫でたのだろう。

しかし、ああも派手に怒鳴り声を上げてしまっては。
銀次が驚いて、窓を覗いてみるのも当然だ。
なるほど。
ということは、銀次のいう『蝶』とはつまり。


「で? あの女が、きらびやかな蝶にでも見えたってか?」
「…………あい」


こくんと首が振られ、不本意ではあるが納得する。
確かに、そんなはなやかで派手な出で立ちではあったが。
しかし、蝶にしては毒々し過ぎる。
「まあ、ありゃあ。蝶っつーより、どっちかってば蛾のイメージだがな」
「が?」
「あんな風になりてえのか?」
溜息混じりに言われて、返答につまる。
「………う」
涙でしょぼしょぼになった目を手の甲でぐいと拭うと、銀次がゆっくりとその胸元から蛮を見上げた。
「蛮ちゃー」
頼りなく呼ばれ、蛮が瞳を細めると、両の掌の中に涙で濡れた銀次の頬を包み込む。
そして、肩を大袈裟に聳やかすと、にやりと笑みを浮かべてみせた。


「俺は、嫌えだぜ。あんなのはよ」


「はう?!」
はっきりと笑んで言われ、銀次が大びっくり!というように目を丸くする。
その顔に低く笑いを漏らすと、ピンク色の銀次の頬に唇を寄せ、蛮が言った。
腕の中に、しっかりと銀次の身体を抱き寄せる。

「俺は、そーだな。派手な羽根を見せびらかしてツンとしている蝶だの蛾だのより、ころころの愛嬌たっぷりのあおむしのが、ずっと良いぜ」

「蛮ちゃ…?」
その言葉に、ぱちぱちぱちと大きな琥珀の瞳がせわしく瞬きをして蛮を見る。



ころころのあおむしって。


それって、それって。
もしかして。
まさか、そんな。
ありっこないと思うけど。

でも、もしかして。





「何ぼけっとしてやがる」





だ…。
だって、だって。






「ばぁーか! あんなのよか、テメエのがいいに決まってるだろうが!」
「ぴ!?」






う、うそっ!?
ほんと?
ほんとに、ほんとっ??





「んっと? んっと?」
「あぁ、本当だっての」






…びっくり。






びっくり、びっくり。
あぁもう。

どーしよ。オレ。





ああ、涙って。
どうして、かなしいときだけじゃなく。
びっくりしたときにまで、
ぽろぽろあふれてきちゃうのかなあ……。





「ふぎゃあ、蛮ちゃあ…」
「バカ、泣くなって。おら」
「ううっ、ううううっ…」


背中を包み込むように抱きしめられて、涙が溢れていく目じりと、小さな涙の粒がくっつく長い睫毛と、それから赤い瞼に、蛮がなだめるようにキスをくれる。
銀次が、両足を投げ出すカタチで蛮の胴に腕をまわし、ぎゅううっと強くしがみつく。







…よかった。
よかった、もお、ほんとに。
ほっとした。







やっぱり、ばんちゃん。
オレの、なんだ。





オレだけの。







――ばんちゃん、なんだ。








「ぎゅううっ」
「アホ、苦しいって」
「えへへーv」
「何だよ、急にへらへらしちまってよ」
「蛮ちゃー」
「ん?」
「大、スキv」
「…おう」
「蛮ちゃ、は?」
「…あ?」
「すき?」
オレのこと?と、尋ねるような瞳で銀次が言う。
だから今言ったろうがと胸で思うが、たぶんそんなあおむしの例えでは、このトリ頭には通用しないのだろう。
蛮が、やれやれと大溜息を落とす。



まったく。
ませガキが。
俺に、何を言わせてえんだかよ。



それでも。
期待に満ちた無垢な瞳からは、目を逸らすことも出来ず。
嘘など、到底つける筈もなく。
誤魔化すことさえ泣かれそうで。


仕方なしに、照れたその顔を見られないようにして。
ほんのり桃色をした可愛い耳に唇を寄せ、睦言のように、低く甘く囁きかける。
(相手の中身が幼児だと思えば、そんなことも抵抗なく言えるから不思議だ)




「――あぁ…。テメエがダイスキだ」




この世の、誰よりも。




琥珀が、これ以上は無理というくらいにいっぱいに見開かれ、じっと穴のあくほど蛮を見つめる。
蛮の首に腕を回して、そんな瞳を近づけ、ホント?と問うように、やさしい紫紺の眼差しを見つめ返す。
胸が、痛いくらいにぎゅっとなった。


「きゅう…」





でも、それでも嬉しくて。


もう、本当に。
ユメみたいに。



とてもとても嬉しくて。












――と、いうのに。

嬉しくて、嬉しくて仕方ないのに。
だのに、だのに。



なんで、こんな時に。







ぎゅうっとなる胸の痛みに、じっと耐えていると。
どうしてだか、胸の下の方までぎゅっとなって。
なんというか、よりにもよってこのタイミングで。





銀次のおなかが、
ぎゅるるるう…っと盛大な音をたてた。








「は?」







…ふがー。

オレのばか。



むーど、
ぶちこわし。







「……まだ、食いたりねぇか、テメエ」



苦笑とともに心底呆れたように頭上で言われ、銀次はむむむ!!と顔のそれぞれのパーツを真ん中に寄せると、まるで本物の鳥の雛のように、唇を尖らせ、ぱくぱくとさせた。

「……ぴぃ〜〜…」


















「…くぅー、くぅー」
狭いシングルのべッドにほとんど重なるようにして、銀次が蛮の胸に片頬を埋め、可愛いらしい寝息をたてている。
ちなみに寝入りの儀式には、相変わらず蛮の指が手放せないらしく。
さんざんちゅうちゅうと吸われた蛮の指は、未だあたたかな銀次の口内にあって、時折かわいい舌にまとわりつかれ、思い出したように吸い付かれている。
(最初はかなりぎょっとしたが、もうすっかり慣れた)

そんな銀次を細めた紫紺でやさしく見下ろし、蛮があいた方の手で金の後頭部をそっと撫でる。
まだやや湿っている髪を乾かすように指先で鋤いて、赤ん坊のようにやわらかで滑らかな項も、手ざわりを愉しむように撫でていく。
それがくすぐったかったのか、蛮の指を咥えたまま、銀次の口の端が少しだけ持ち上がった。
見つめる紫紺が、蕩けそうに細くなる。

風呂上がりに本日2度目のイチゴ牛乳を貰って、ご機嫌で飲み干した後。
まだ湯上がりほやほやの身体でベッドに入った銀次は、添い寝してくれる蛮にぴったり寄り添い、その腕を枕にして、何度も何度も『もっかいー』と例の絵本をせがんで読ませた。
いったいこれのどこが面白いんだかよ、と胸でこぼす蛮に反して、銀次は、蝶が羽根を開いた最後のページになると、毎度毎度しばしそれをうっとりと眺め、悦に入ったようにほう…っと溜息をついていた。

『蝶よりあおむしが良い』と言われたことは、銀次を随分勇気づけ、喜ばせたようだったが。
それでも、そんな自分がいつかステップアップして、やがて蛮に認めてもらえるような『恋する蝶』になるんだと。
どうやらそんな夢でも思い描いているらしい。


やれやれ。
まだ一人で寝ることも出来ねえヒヨコが。
おませなこって。


蛮が喉元で低く笑いを漏らしながら、目を閉じる。





――果たして、銀次は。
いったいどんな蝶に成長する自分を、幼い頭に思い描いているのだろう。





ふいに。
蛮の瞼の裏を、金色の気高く美しい蝶が光の鱗粉を撒き散らし、ひらひらと舞っていく姿が鮮明に過った。







そうだ。
もともと、コイツはそんな風だった。
金色の光を纏ったその姿は、
魅入られてしまうほど美しく、そして強かった。


今は、その片鱗さえないが。





だが。
こうして、だんだんに日々成長していきながら。
いつか、再び。
さなぎになって、『蝶』になり―。
戻って行くのだろうか。
『雷帝』と呼ばれた頃のような、少し大人びたあの表情やしぐさ、話し方に。



いや。
だが、しかし。
…何か、それも。
想像し難いというか。



今の成長過程を辿れば、以前とはまた違う『銀次』に成長していくような。
そんな気がしてならないのだが。
(それとも、突然変異でも起こるのか)




まあ、いい。
今は、そんなことは。
その時になってみなければ、先のことなどわからない。

ただ、今思うことは――。







別に、蝶になんぞならなくても。
今のまんまでいいじゃねえか。

いつまでも。
まるっこくて愛らしい、
あおむしのままでいいじゃねえか。








――なんてな。
どんな親バカだ、俺は。
(いや、親になったつもりはねえぞ)









寝顔を見つつ、自嘲を漏らす。
そして、ふと考えた。






もしかして。コイツ。
まさか、あの女に『嫉妬』したとか――?






考えて、苦笑する。


いや、まさか。
何、期待してんだかよ。俺は。
んなわけ、ねえっての。
(つーか。期待って何だ、おい)




そんな蛮の胸中を察したのか。
銀次が蛮の胸で身じろぎ、甘えるように首元へとずり上がって、頬を寄せる。
唇からやっと解放された蛮の指は、だが、今度は銀次の手の中にぎゅっと握りしめられ、拘束された。
蛮が、くしゃくしゃに乱れた前髪を指先で鋤いてやりながら、まるい額に唇を寄せる。
少しだけ汗ばんだ額からは、甘い石鹸の匂いがした。








何が、嫉妬だ。
まったく、よ。



――こんな、まだちびころのあおむしが。



まさか。







…なあ?











novel 











はたして一歳児の脳みそで、ここまで考えるものかどうかギモンに思ったのですが。
まあでも、誰も自分が一歳の時に何考えてたかなんて覚えてないですもんねー? 
ならいいかな?vとか(笑)