Innocent days
=塞ぐ=



金色の大きなひよこが蛮の腕の中で孵化してから、既に10日が経とうとしていた。
といっても、蛮にとっては10日どころか、一年にさえ感じられたが。


何せ、そのでかいひよこときたら。
朝から晩までぴよぴよぴよぴよと蛮の後をくっついて回り、泣くわ、こけるわ、こぼすわ、汚すわで。
まさしく、育児ジゴクのような日々だったのである。
それまで自由気ままに一人で生きてきた蛮にとって、その拘束は正直かなりキツかった。


だけども、いつまでこんな調子かとぐったりする蛮をよそに、ひよこ頭もそれなりにのんびりペースで成長しているらしく。
当初赤ん坊のようにぽやーんとしていた表情も、最近では、ややしっかりし、はっきりと意志を主張するようにもなってきた。
そして3日前に、蛮の仕事の間一日だけ銀次を預かったマリーアは、何やら孫が出来たとでも勘違いしているのか。絵本やら食べ物やらを、やたら嬉しそうに、宅配便にして送って寄越すようになっていた。(毎日毎日、何かしら送られてくるのだ。ババ馬鹿というヤツか?)
何を血迷ってやがるんだかと愚痴りつつも、まあ、銀次が喜ぶので、それはそれで良いのだが。
家具もろくになく、酷く殺風景だった蛮の部屋は、今やぬいぐるみやおもちゃが溢れ返り、何やらメルヘン仕様の別世界となっている。
それを出来るだけ視界に入れないようにして(頭痛がしてくるからだ)、同じく宅配便の箱の底に詰めこまれていた古めかしい育児書によると(つい目を通してしまうのが、なんとも情けない)、外見はともかく、銀次の中身はどうやら一歳そこそこまで育っているらしい。
こちらの発する言葉の意味もかなりわかってきているようで、それなりに反応が返ってくるというのは、なかなか面白い。
だからと言って、日常のどたばたは変わることなく、むしろ動きがすばしっこくなった分、育児の大変さは増しているような気もしたが。


「こら、銀次――!!」
「ぴ!」
「テメエ! 待ちやがれ、ゴラァ!」
「きゃー!」
「あぁもう! 風呂上がりに、そんなパンツ一丁じゃ風邪引くっての! ったく、なんだってそうも服着るのを嫌がりやがるんだかよ。おら、パジャマの袖に腕通せ!」
「んがあぁ!」
「ほら、そっちの手も!」
浴室からパジャマのズボンだけを穿いて出てきた蛮が、狭い室内を逃げ回る銀次の腕を後から掴み、とにかく強引にパジャマを着せかけようとする。
「んやー! ヌグっ!」
「あほう、せっかく片方着せたのに脱ぐんじゃねえ!」
「んもっ、やっ、蛮ちゃっ」
「だーから! ぁあ、こらパンツまで脱ぐな! ヒトがどんだけ苦労して穿かせたと思ってやがるっ、このヤロウ!」
「いやー、いやー! んあー!」
「いい加減、観念しやがれ!」

しかし、それにしても。
暴れる人間を押さえつけて、無理矢理パンツを剥ぐのはきっと楽しい事だろうが、逆に無理矢理穿かせるというのは、何とも不毛な作業のような気がしてならない。
クソ面白くもねえと胸中でこぼしつつも、だがこれを放置して寝てしまえば、後でエライ目に遭うのは間違いなく蛮の方なので、不本意だが致し方ない。
(一度ためしに裸のままで寝させてみたら、その翌日、冷えきった銀次の腹は"ぴーぐるぐるぴー"と一日にぎやかに騒ぎたて、銀次はその日一日を、めそめそとトイレに篭って過ごす羽目になったのである)



――とはいえ。
さすがに、疲れてきた。


しかも悪いことに、銀次の方はどうやら完全にお遊びモードだ。
ばたばたきゃっきゃっと、嬉しそうに逃げ回っている。
やれやれ、冗談じゃねえぞ。付き合ってられるか。
胸中でごちる。
第一こんな調子では、いったい何時になったら、大人しくベッドに入ってくれるのやら。
まったく、頭が痛い。


少々苛立ってきたこともあって、蛮は追いかけるのはやめて、あっさり作戦を変えることにした。
押しても駄目なら引いてみな、というワケである。

「あー、そうかよ! わかった」

蛮は、窓際まで逃げた銀次にくるりと背を向けると、怒ったような大声で言い放った。
「もういい、勝手にしろ!」

「…ぴよ?」

その声に、さも驚いたように銀次がぴたりと立ち止まる。
「蛮ちゃ?」
少々不安げに呼ぶも、銀次に背を向けてしまった蛮からの返事はない。
タオルが、無造作に床に投げ捨てられた。
「…蛮ちゃ?」
2度目の呼びかけも、蛮は完全スルーだ。
銀次の顔が、ますます不安そうになる。
蛮は冷蔵庫の前に立つと、銀次を無視したままそれを開いて、自分のビールを取り出した。
プシュ!とプルトップの開く音に、銀次がぴくりとする。
「蛮ちゃー」
頼りない銀次の声に、やっと返ってきた蛮の返事は、かなり素っ気なかった。
「うるせえ」
「…うー」
「言うこと聞かないテメエにゃ、風呂上がりのイチゴ牛乳は無しだ」
「んあっ!?」
「ついでに言うなら、絵本も読んでやらねえからな」
「ふえ?」
あまりな言われように、銀次ががーんと瞳を見開く。
「んだよ」
見せびらかすように、ごくごくと喉を鳴らして風呂上がりのビールを飲む蛮に、銀次がじいっとうらめしそうにそれを見つめる。
目の前で、大好物のいちご牛乳を飲んでしまわれるよりは、たぶん全然いいけれど。
でもでもっ、なんでそんなに怒ってんの?
そんな顔で蛮を見つめ、銀次の視線がちらりと冷蔵庫に向く。
「蛮ちゃー」
「いらねえんだよな、牛乳」
「ううー」
「あぁ、いっそ本もマリーアに返すか」
「うっううう……」
「言うこときけねえバカは、いつまでも裸でそうしてやがれ」
「うー。蛮、ちゃ…」
「勝手に腹下そうが、風邪引いて熱出そうが、俺はテメエのことなんざ、金輪際面倒なんか見ねぇ… あ?」
その言葉に、とぼとぼと蛮の前までやってきた銀次が、口をへの字にぎゅっと結んで、大きな琥珀の瞳で上目使いに蛮をじいぃっと睨みつける。


なんで、なんで。
なんで、そこまで言っちゃうのっ。
オレがいったい何したっていうのっ。


そう言いたげに、むっとさらに睨むなり。
銀次の大きな瞳から、ぽろぽろっと大粒の涙がこぼれおちた。
蛮が、思わずぎょっとする。

「お」

「ふえ…」
「お、おい」
「ふええ〜!」
「あ、あのなー」
「うええええん! びえええええ〜〜!!!」
そのまま大泣きし出した銀次に、蛮が上がっていた両の眉をだらしなく下げ、ああもう!と言わんばかりに金のひよこ頭をぐりぐりと撫でる。
「アホ、泣くな」
泣かれると、弱い。心底、弱い。
だったら泣かすなと自分で自分に言ってやりたいところだが、これも躾のためだ。仕方が無い。

とはいえ。
だが、しかし。
ぼとぼとと頬を伝い落ちて床を濡らす銀次の涙に、蛮が到底勝てる筈も無い。

「本気で怒ったんじゃねえ。泣くなっての」
「びえええっ」
「ったく、テメエは。おら、泣ーくーな。ぎーんじ」
甘やかすように呼んで、髪をくしゃくしゃと撫でてやると、銀次がしゃくりあげながら懸命に言う。
「うえぇえん! だっ、蛮ちゃ、おごっ」
「だーから、怒ってねえよ。フリしただけだ」
「…ふり?」
蛮の言葉に、銀次がひっくと息を詰まらせながらも、涙目で訊ねるように蛮を見る。
「テメエが、ちっとも俺の言うこときかねえからだろうが」
「…う?」

その言葉にやっと気づいたように、銀次が部屋の隅に放置されていた自分のパジャマを振り返り、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら取りに行くと、しょぼんと、それを手に蛮の前に戻ってくる。

「蛮ちゃー」
大きな図体をして、素っ裸で右手にくまのパジャマ(これもマリーアから送られてきたものだ)、左に青いひよこのトランクス(これもマリーアが…)を持ち、大きな瞳に涙を浮かべた上目使いで蛮を見つめる銀次は、それでもなんとも倒錯的に可愛いらしい。
いや、可愛いと思ってしまう事自体、既に問題なのかもしれないが。

「…めんちゃい…」

「おう、わかったか。いい子だ」
一瞬でいつものやさしい紫紺になって、そっと背中を抱き寄せてくれる蛮の手に、銀次がほっと安心したような顔になって、パジャマを掴んだまま、ぎゅううと蛮の首に腕を絡ませしがみつく。
「蛮ちゃー」
「おら、わかったらもう泣くな。牛乳飲むか?」
「ん。いちごー」
「ああ」
「ごほん?」
「あー、わぁってる。読んでやるっての」
「んっと?」
「ああ、本当だ」
その言葉にさらに安心したように、銀次がそっと身体を離して、蛮を見つめてにっこりする。

それからやっと大人しく蛮の手によってパジャマを着せられると、蛮がやれやれと溜息をつくよりも先に、「ふー」と可愛く細い息を吐き出した。
「何だ、いっちょ前に溜息なんぞ」
溜息をつきたいのはこっちの方だと言わんばかりの蛮に、銀次が人差し指をたてて、口を尖らせ蛮に言う。

「めっ」

「あ?」
なんでテメエに逆に怒られなきゃなんねえ?、と怪訝そうになる蛮に、まだぐしぐし言いつつ、きゅっと口を結んで銀次が言う。
「だー、めっ」
「は? 何がだ」
掌をかざすように蛮の口を自分の手で塞ぐ銀次に、意味が図れず、蛮が何の事だと首を傾げる。
それを見つめる銀次の表情が何やら真剣味を帯び、"もう、しちゃだめなんだからねっ"と諭すような目になるのを見て、蛮がやっと意味を悟ると苦笑を漏らした。

「あー? もしかして。怒っちゃだめ、ってか?」

銀次が、その言葉に強くこくん!と肯く。
「あい!」
「ぎーんじ」
呆れた顔になって、蛮が呼ぶ。
「あい!」
「だが、そりゃあよ。テメエがだな」
反論しようとして、また弓なりになる蛮の眉を見て、銀次が口を塞ぐ手をそのまま上へとスライドさせると、今度は蛮の目を両手で塞いだ。
「こら、銀次ー」
「もお、めっ」
「め、じゃねえ。だからよ、テメエが俺を怒らせるような事をしなけりゃいいんだっての! だいたい、風呂上がりにいつまでも真っ裸でいやがると、身体が冷えて腹を下すと何回言やぁ、テメエはー」
「うー」
なんだか延々と続いてしまいそうなお小言に、銀次が唸って顔を顰める。
だが、"もう黙ってー"と口を押さえたい手は、今は蛮の両目を塞いでいるから、どうにもできない。

何か、他に塞ぐものはないかなぁと考えて。
銀次は、いいことを思いついた。
名案、名案。

「おい、こら。聞いてんのか、銀…!」




ちゅ。




言いかけた蛮の唇が、今度はひどくやわらかいもので塞がれた。
視界が妨げられているので、見ることは叶わなかったが。




…おい。ちょっと待て。
これって、もしや…?




呆然となる蛮の目前から、掌と唇を素早く撤退させ、身体を離して、銀次がにっこりと満面の笑みを浮かべる。

思った通り、だまってくれた。
成功、せいこーと、嬉しそうだ。

そして、立てた人差し指を、今度は生意気にも、ちっちっと横に振った。


「だーめ。ねっ?v」


毒気を抜かれたというのは、まさしくこういう状態を言うのだろう。
驚きの余り、何と言おうとしていたのかすっかり忘れてしまった蛮は、とにもかくにも「いちごー、にゅーにゅ!」と笑顔で銀次に催促され、気がつけば冷蔵庫からそのパックを取り出し、銀次の手に「ほらよ」と渡してやっていた。



…まったく。
してやられた。
こん畜生め。


まだ、ケツにタマゴの殻をくっつけたひよこのくせに生意気だぞと思いながらも、ついつい笑いが込み上げてしまうのはどうしてだろう。

今からこれでは先が思いやられる。
やれやれだ。







そして。
牛乳パックにくっついているストローが取れない〜!と、歯でかじりついて格闘しつつ。

『ふむふむ。怒った蛮ちゃんに黙ってもらうのには、口を口で塞ぐのが一番いいみたいv』
と、一人納得した銀次は、自分の脳内のまだ真白いノートに、油性のペンできゅっきゅっと、忘れないようにしっかりメモを残した。
…ようだった。

(つまり、その後。このテは何度も使用され、実際、かなりの効力を発揮したのだった)










novel