―― 永遠ノチカイ ―― マドカは未だ、眠りの中にいた。 幾度かふうっと目を開きはしたものの、盲目の彼女にとっては、まだ眠りと現実との境界線は混沌としているらしく。 また、とろとろと眠りに落ちていってしまう。 だが、それもいたしかたないといえた。 長く『兜』の魂の器にされていたその身は疲労の極致にあって、当分はこんな風に、ベッドに横たわったまま回復を待つことになるだろう。 それでもつい先刻、意識が浅くなった時に傍らにある気配を悟って、やわらかくその口元に笑みを浮かべた。 唇が小さく、呼ぶ。 士度さん、と。 冬木士度は、それを安堵の眼差しで見下ろしながらも、ぐっと拳を握りしめた。 己の浅はかさが、どうにもこうにも恨めしい。 考えても考えても、自責の思いしか出てこない。 災いの火種を起こしたのが己だと、責める言葉しか見つからない。 ――が。 歯を食いしばり、頭を抱え、髪を毟るように声にならない咆哮を漏らせば、とくんと心臓が音をたてる。 やめなよ。 オレが、ここにいるのは、そんなためじゃない。 それよりさあ、士度。 笑やんを頼むよ。 お笑い芸人は、涙を見せちゃいけないんだよ。 こういう時こそ、笑ってなんぼだよって。 そう伝えてやってよ。 「…亜紋」 心臓の上をそっと押さえるように掌で触れ、その命をくれた名を呟く。 「―!」 瞬時に、士度が目を剥いた。 背後からの突然の気配に、ざっと飛びすさるように身を翻す。 同時に、獣が全身を総毛立たせるように身を低くして構えた。 揶揄するような声が、それに答える。 「おー、さすがサル並だな。呆けちゃいねえか、そりゃよかった」 「美堂…!」 いつのまにそこにいたのか、月明かりに照らし出される大きな窓に、悠然と凭れ掛かるようにして立つ蛮が、ゆっくりとその紫紺の瞳を士度に向けた。 そして、そこから音もなく飛び降りと、ちらりとベッドの方を見やる。 「嬢ちゃんは?」 「…眠ったままだ」 「―そっか」 素っ気ない答えに、素っ気なく答える。 「眠りは大分浅くなったが」 付け加えるように、士度が言った。 「まあ、気長にやるこったな。あんな目に遭ったんだ。心身共にくたくたなんだろうぜ。なんせ、タフな銀次でもアレだからよー」 ”銀次”の名に、士度がはっと顔色を変える。 そして、くっと眉間に深い皺を刻み、苦しそうに月明かりだけの部屋の床に映る己の影を睨んだ。 愛する少女の肉体と引き替えにするために、理由はどうあれ、策はどうであれ、身代わりに銀次を差し出そうとしたのだ。 その事実を知った時の、一瞬のあの悲しげな銀次の表情が忘れられない。 それなのに、それでも銀次は静かにそれを受容したのだ、何もかもワカって何もかも赦して。 「銀次は…」 重々しく士度が尋ねる。 蛮の眼が、口調とは裏腹に剣呑としたものになった。 「ああ。でーじょうぶだ。心配ねえ。ったく、あのバカときたら、電撃の力を失ったにも関わらず、無茶しくさって蟲宮城まで追っかけてきやがって。その上で、兜に肉体を占領されるわ、一人先走りやがったテメーに無理矢理雷帝化させられるわ。…心も身体もズタボロだ。まあ一回雷帝になっちまったおかげで、身体の回復は早ぇだろうがな。…今はとにかく眠っている」 「…そうか」 敵意を露にして皮肉る蛮に、それでも反論の一つもなく、翳りを表情に落としたまま、獣の瞳が黒く淀む。 「いろいろ、すまなかったな…」 絞り出すように言った。 重すぎる口調に、逆に、蛮の中に怒りが沸々と湧き上がってくる。 ここに来る道中で、なんとか押さえてきたものの、その鬱屈した顔にまたそれが甦ってきた。 怒りの矛先は何より、「もうこのまま、ここから立ち去る」とでも言いかねない、そんな虚ろな目に対してだ。 「すまねぇで、すむかよ―」 怒気を孕んだ声が、威嚇のように言う。 「美堂…」 こちらを見る士度を睨みながら、煙草を取り出す。 緩慢な動作で、口に咥えた。 「オレはよ―。ハナっからこの仕事にゃ、のり気じゃなかった。請ける気もねえと、テメエにもそう言ったよな? くだらねえ、虫だケモノだの戦争に割り込む気も更々なかったし。第一、あのバカを巻き込ませたくねえ、そう思っていた。だけど、アイツは何が何でも請けたいと、そりゃもうしつこくてよ―」 『ねえ、蛮ちゃん。士度の依頼、請けようよー。ねえってば』 『士度は、初めて怖いと思ったんじゃないかな。マドカちゃんがいない”闇”をさ。だから、オレ― だから…!』 「ったくどこまで、お人好しなんだか。考えれば考えるほど腹立たしいぜ。―なぁ、猿マワシよ。そんなアイツに、オマエは何をしたよ?」 声は、さらに怒気を強めた。 ジッポを開く。炎が上がった。 士度の顔が、険しくなる。 だが、蛮から目は逸らさなかった。 まるで、それが自分の務めであるかのように。 マルボロの先に、火が点った。 その紫煙の向こうで、さらに蛮の瞳が怒気から殺気へと変化する。 毒蛇を纏っている時の、凄まじい殺気。 ぞくりとした。 「ハナっから銀次が、目的だったのか? 虫ケラどもにそそのかされて、あのお人好しのバカを、テメーはいいように騙して、兜の前に引き出してよ―」 「美堂…!」 見開く両眼は、否定を表しているのか? それとも認めたくない肯定なのか? 冷たく冴え冴えとした紫紺が、射殺すように士度を睨んだ。 「アイツのことだ。テメーのためなら構わねえって、そう言ったろう!? それでマドカが助かるなら― 違うか!?」 その言葉に、初めて士度が視線を反らせた。 ”その時”の銀次の顔を思い出したのだろう。 苦しげに呟いた。 「―ああ、確かに、銀次は…」 『マドカちゃんのためなんだよね…? だったら― 仕方ないか』 ぎりっと歯が鳴り、蛮が、煙草を噛みちぎった。 床に落ちる火を瞳が追い、憎々しげに、靴底がその火を踏みつけた。 そのまま、足を止めず、士度に詰め寄る。 「力が無くなった時。オレはホンキートンクで待てと、あの野郎に言いつけた。どうせ、いずれ追っ掛けてきやがるとは思っちゃいたがよ。だが、ヘヴンの話じゃ、数時間と経たねえうちに迎えがあったっていうじゃねえか」 「―答えろ、猿マワシ」 右腕に力がこもる。 毒蛇の気配が絡まる。 「赤屍に銀次を運ばせたのは、テメエか―」 手に握りしめられ開いたままだったジッポが、パチンと冷たい音とたてて閉じられた。 「……ああ」 「――!」 士度の答えとほぼ同時に、蛮の右手の毒蛇が、カッ!と牙を剥いてその首に喰らいついた。 一瞬で、士度の顔が蒼白になった。 怒りが蛮の眼をたぎらせ、無抵抗なその喉元をギリ…ッ!と締め上げる。 それでも呻き声一つ上げず、そのまま無抵抗に顔を歪ませているだけの士度に、蛮が一度それを鋭く睨みつけ――。 それから、ふいに、右手の力を抜いた。 その腕から、毒蛇の気配が退く。 そして、そのまま士度の胸倉を掴むと、左手で思いきりガッ!とその顔を殴りつけた。 もんどりうって士度の長身が、勢いで部屋の隅までふっ飛ばされ、壁に叩きつけられる。 蛮は、それを横目に見ると肩で大きく息をつき、いまいましげに舌打った。 「嬢ちゃんの前だ。手加減してやったぜ、感謝しろよな」 「殺さねぇのか?」 「あ?」 首を押さえながら、絞り出すように言う士度に、蛮が殴った左手を軽く振った。 「テメーをブッ殺しても、嬢ちゃんや銀次のヤツに恨まれるだけだ。オレに何の得があるよ?」 言って、ベッドを振り返り、やっと視線をやわらげて蛮が言う。 「そんで、チャラにしてやるよ」 「美堂。オレは―」 「あのよー。猿マワシ」 士度の言葉を遮るように、蛮が声のトーンを上げた。 「今更、嬢ちゃんの傍を離れようなんざ、思うんじゃねえぞ」 「美堂…」 蛮の言葉に、士度が壁に寄りかかりながら、打った肩を押さえつつゆっくりと立ち上がる。 それを見、”やれやれ図星かよ”と苦笑し、蛮が新しい煙草を取り出して火を点した。 怒気も殺気も消え、あの重々しい空気も既に失せている。 紫煙を吐き出しながら、静かに蛮が告げた。 「いいか? テメーにもし何かあったり、突然いなくなられたりしたら―。嬢ちゃんだって、生きちゃいけねえ。それだけは、肝に銘じておけ。…テメエ、前にオレに言ったよな。マドカはオレは守ると。…けどよ。何かあったらそん時ゃあ、たとえ自分が死んじまっても相手を守るっつーのはよ。一見美しいが、そこにゃ残された相手の苦しみも哀しみも考えに入ってねえ。本気で惚れた相手を護る覚悟があるんならな。その覚悟は、常に相手の傍らに在って、共に生きてそいつを幸福にしてやる。ソッチに向けちゃどうよ? テメーの自己満足なんかじゃ、誰も幸せなんかなりゃしねぇぜ」 士度が、その言葉に、はっとしたようにベッドに眠るマドカを見る。 その眼が、少し光を取り戻したことを見届け、蛮は近くに歩み寄ると、トン…と拳でその左胸を叩いた。 「ドリフの片割れが、テメエのココにいんだろ? そいつのためにも、もうこれ以上つまらねえことは考えやがるな」 「……ああ」 その答えに、蛮が静かに瞳を伏せ、扉を開いた。 「じゃあな」 背を向けたまま、片手を上げる。 そして、そこを出て行きかけて、思い出した、というように部屋の中を振り返った。 「あ! それとよ」 士度と眼が合うと、口元に不敵な笑みを浮かべ、さらりと宣言した。 「天野銀次はな。”ゲットバッカーズの天野銀次”だってことを忘れるんじゃねえぞ。このオレ様に断りなく、勝手になんぞ絶対させねえ― よーく覚えておきやがれ!」 「おかえりー」 ホテルの一室に戻るなり、ベッドから首だけもたげて銀次が笑む。 待ちかねたという笑顔が、子供のようだ。 「おう」 ベッドに近づくと、強請るように瞳が見上げてくる。 蛮は、我知らずと目を細めた。 「どうだった?」 「ああ。それよっか、寝てろ―つったろ?」 ベッドに腰掛けると、やれやれと腕を組む。 「だって、心配だもん」 「は? ガキの使いじゃあるめーし」 「そうじゃなくて。蛮ちゃん、ちょっと怖い顔してたから。喧嘩でもしてないといいけどって」 当たらずといえども遠からずってか?と、思わず苦い顔になって蛮が返す。 「だったら、つまんねーコト、オレに頼むなっての」 「だって、オレ。こんなだし、まだ動けないしー」 そんなコトを威張るんじゃねえと軽く頭をはたいて、今にも”はやく、早くー”地団駄を踏みそうな銀次に笑って答える。 「嬢ちゃんは、大分顔色もよかったぜ? 猿のヤローは、まあ。落ち込んでやがったみてえだけどな」 心配していた通りだったのかと、銀次が表情を曇らせる。 「……そう。あ、でも」 伏せかけた瞳を自分に戻してきた銀次に、蛮が肩を聳やかして頷いてみせた。 「おうよ、ちゃんと釘刺しといたぜ? まさかあそこまで言われて、雲隠れしようなんざ思わねえだろ」 「あそこまでって? 蛮ちゃん。なんかすごーくヒドいこと言ったりしたんじゃあ」 「あんでよ」 「なんか。そういう顔してる」 「ケッ! あんにゃろには、ちーとばかしキツめに言っといて、丁度いいぐらいな んだよ」 ふてくされたような顔に、今度は銀次が目を細めた。 なんだかんだ言いつつ、いつも蛮の言葉には重みがある。 自分が言うよりもちゃんと、説得力のある言葉で士度に話してくれたのだろう。 もちろん動けるようになれば、自分からもちゃんと話しておきたいと強く思っているのだが。 「あ、ねえ。オレ、気にしてないからって言ってくれた?」 「…あ?」 「あ?って! 言ってくれてないの!?」 「いや、ま、その、だな」 「蛮ちゃん!」 「んだよ」 「ちゃんと伝えてね、って! オレ言ったのに〜」 「あんだよ、えっらそうに! だいたい、なんでオレが猿マワシに、んなこと言わなくちゃなんねーんだよ!」 「だって、だって! 士度のことだから、絶対気にしてるからって! もーお蛮ちゃん〜」 「るせぇな! だいたいオレは、テメーが見てこい見てこいっつーから、猿マワシと嬢ちゃんの様子をわざわざ見に行ってやったんじゃねえかよ! それをだな!」 「だって、心配じゃん!」 「んなことよっか、テメーは、テメーの身体の心配してりゃいいんだよ!」 「もう! 蛮ちゃんのバカ!」 「ああ?! バカだぁ!? テメー、誰に向かって!」 「だって、一番肝心なこと言わないんだからもう! ばかばか!」 「バカにバカバカ言われたかねーわ!」 「あ! 人にバカって言った人の方がバカだって、波児さんが言ってたよ!?」 「だったら、テメーが先に言ったんじゃねえか!」 「そうだけど! でも、いつもは蛮ちゃんのがオレのことバカバカ言うじゃん!」 「うっせえ! だいたいテメーがバカでお人好しだから、んなことになるんじゃねえか!」 「だって!」 「だって、何だ!」 「士度は、友達だし…!」 「ああ!? そうかよ! んじゃあよ、その”友達”つーヤツのためだったら、テメーは誰でも彼でも、ホイホイと簡単に命さえもくれてやっちまえるってえのかよ!?」 「ば、蛮ちゃん…」 「テメーが猿マワシのせいで命を落として、それでも構わねえってのなら、そうしたら、オレはどうすりゃいいんだ?! お前にそんな風に、そんなカタチで突然キエられて、オレはいったいどうすりゃいいんだよ! ああ!?」 「…蛮ちゃん…」 蛮の剣幕に気押されて、銀次が思わず大きく瞳を見開く。 瞳を合わせると、その紫紺が微かに震えていて、それを認めるなり、まるで”見るな!”とでもいうように抱き寄せられた。 腕の中に、きつく抱かれて、銀次がベッドから少し上体を浮かせた体勢で小さく震える。 頭の中で、突然の言葉を幾度も反復する。 そして、蛮の想いを噛み締めた。 「テメーにあんな真似されて、オレは、大概ムカついてんだ。…当分、野郎にゃ気にさせとけ」 「蛮ちゃん…」 「ごめん…」 「ごめんで、すむか」 「わかってる。でも、ごめん―」 「あやまるぐれぇなら、最初からするな」 「うん…」 「動揺してたってぇのは、さっき聞いた。だから、もういい。テメエをこれ以上責める気もねえ」 「蛮ちゃん」 「そばにいてやれなかった、オレも悪い」 「…蛮ちゃん」 銀次の腕が、おずおずと蛮の背に回される。 抱きついたりすることはしょっちゅうだったけれど、こんな風に抱きしめられるのは実は初めてで。 だから、どうしていいかちょっとわからず、思考もどこを向いていいやら、何を考えていいやら混乱している。 でも―。 嬉しい。 そして、あたたかい、とても。 涙が出そうになるほど、あたたかい。 銀次は幸福げに微笑むと、そのまま蛮を抱き返す手に力を込めた。 ややあって、静かに身体を離し、唐突に蛮が訊いた。 「銀次。GetBackersの"s"は?」 いきなりな問いに、銀次が眼をしばたたかせる。 それよりもっとくっついていたかったのに、という顔に、蛮が苦笑した。 「…1人じゃないってコト」 「だよな」 答えて、ベッドに腰掛け直し、右腕で銀次の腕を掴んで、ぐいっと引き起こす。 「わっ」 引き寄せられて、間近で見る蛮の瞳が、ふいに笑んだ。 「1人にする気かよ?」 見開いて琥珀が、それから徐々に同じく笑んで、”ううん”と首を横に振る。 「1人にすんなよ」 軽い口調ではあるが、プライドの高い無敵無敗の男にはあるまじき台詞に、その言葉の重さを汲み取って、銀次が強く頷く。 「うん!」 頷いたと同時に、その勢いで銀次の瞳からこぼれ落ちてきたものに、蛮がそっと指先を伸べる。 銀次がその手に、甘えるように頬を寄せた。 「オレは、テメエをゼッテー1人にはしねえ。だから、テメエも」 「うん! オレも、蛮ちゃんを絶対1人にしない」 「おう、胸に刻んでおけ」 「うん!! GetBackersの"s"はさ。”二人がずっと一緒生きてく”ってことなんだよね?」 照れくさそうに鼻の下を人差し指で擦りながら、笑顔全開でそう言われ、蛮が思わず驚いたような顔になる。 「えれぇ、拡大解釈だがよ」 「でも、そういうことだもんね!」 言い切る銀次に、蛮がその金色の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜ、半ばその潔すぎる宣言に呆れながらも、力強い笑みを返して言った。 「あーあ、そういうこった!」 END novelニモドル |