祈り




大神ゼウスとの闘いに破れた地上は、その空を深い雲に覆われていた。
地上に一筋たりとも光は届かず、青い空ももう幻のものとなった。

大地は枯れ果て、あれほど栄えていた街もすべて灰と化して、既に見る影
もなくなっていた。
人々は飢え、荒んだ大地には病が蔓延した。

暴君ゼウスは、アテナに要求した。
地上から、1人、天使の宿命を背負う者を天上界へと差し出せと。

それを、人々の贖罪としようではないか。
どうだ、出来ぬ要求ではあるまいに・・?
ただ1人で全てが救われる。簡単なことだ。
アンドロメダを、寄越せ。
我が手中に。
それだけで、いい――

アテナは、苦悩した。

だけども、それを聞いたアンドロメダを守護星座に持つ少年は、ただおだやかに微笑んだだけだった。
この身1つで地上が救えるのなら、それはとてもたやすいことですよ、と
幸福げに微笑んで。








一言の言葉も交わさず、ただ。
時が流れていくのを、目を閉じて追っていた。
静寂の闇の中で、灯る光の1つもなく、星のさざめきさえない岩かげで、
兄弟はじっと寄り添いすわっていた。

聖衣を纏った戦士の姿で、岩肌に背を預け、ひっそりと朝のくるのを待っていた。
眠りにつくことも出来ず、だけども話す言葉さえ持たず・・・。
・・・・ただ、じっと――
最期の夜が過ぎていくのを息をつめて、じっと・・。

光の抗体のように互いの身から放つオーラが、その身をぼんやりと、微かな
白い光で包んでいる。
それは、しんしんとした闇の中で、そこだけをやけに、ほの暖かく見せていた。

兄の片手は、弟の細い肩を支えるように抱いていた。
うっとりと、もう最期だというのに、まるでうっとりとしているかのよう
に、瞬は兄の肩に頭をもたげ、長い睫毛の下にその瞳を隠している。
まるで意識の何もかもで、そばにある、その愛おしい存在を確かめるかのように。

――思い出すのは・・。
目も眩むほどの暖かな深い愛情の記憶と、目まぐるしく過ぎてしまった少年の
日の、仲間たちとのやさしい光の情景ばかり。
――しあわせだった。
とても、しあわせだった・・。
きっと誰よりも・・・。
こんなに心がやさしく安らかで、
何1つの悔いもないほどに――
・・・・・ううん。
たった1つの悔いは、ある。
自らの我が儘で、このやさしい腕の中から飛び立ってしまうこと。
あなたを1人にしてしまうこと。
それはたぶん、自らがその身で幾度か経験した、魂を分断されるような鋭い
痛み。
たった1人の肉親と死に別れてしまう、途方にくれてしまうほどの、絶望的な
孤独。
それを今度は、自らの意志で、あなたに選ばせてしまったこと。
残酷な決断を、突きつけてしまったこと。

瞬がゆっくりと顔を上げ、兄を見る。
少し高みを見るように視線を上げたその端正な横顔は、ひどくひどく静かだった。
まるでこの世の何もかもを見つめているような、そして知っているような、古い
大きな木のように。
そして、その腕は大地のような包容力をもって、いつも瞬を暖かく抱いてくれた。

――あなたがそうだったから、僕はここまでこれたのです・・。
あなたがそうして、たとえ遠くからでも、静かに僕を導いてくれたから。
僕の心はこんな荒れた大地の上でさえ、誰1人を恨まずに、憎まずに、こうして
ここまで歩んで来れた。
そして、今この時も、あなたがそうして静かに僕を行かせてくれるから・・。

だけども、その胸中がいかほどの悔しさであるか、口惜しさでどれほど多くの血を
流し、獣のような咆哮を上げて泣いているかは、たぶん瞬にさえも、とてもはかり
知ることは出来ないだろう。
幼い頃から、生まれた時から、親のように見つめ、見守り育んできた誰よりも
愛おしい弟を、こんな荒んだ(それも弟の心を血まみれに傷つけてきた)地上など
と引き替えに、その大切に守ってきた腕の中から奪い取られてしまうのだから。
その無念さなど、他の何にたとえられようはずもない――

「兄さん・・」
瞬が、囁くような声で兄を呼んだ。
一輝が少し首を曲げて、弟の顔をやさしい瞳で問うようにして覗き込む。
”ううん・・・ なんでもないよ”というように、瞬が軽く首を振った。
兄がそれにやさしくおだやかに笑んで、もう一方の手のひらの上に瞬の手を取り、
そっと指の中に包み込む。
瞬が、そのごつごつとした大きな厚い手のひらに、少し切なそうに兄を見た。
そしてまた、兄の肩に甘えるように頭を預けて、瞳を落とす。
投げ出した両足の膝を少し寄せて、兄の手のひらの上に重ねられている己の手
を見つめた。
――あたたかい・・。
左の手をのせた兄の手のひらが、静かな体温とあたたかな脈をそっと瞬に
伝えてくる。
その温もりに、哀しいほどにその生命の重みを知らされる。
兄の手は・・。
いつも、こうして傷ついていた。
瞬を守るために、傷ついてきた。
時には拳を固められ、弟のために戦ってきた。
血まみれの拳から、肉を割って骨がのぞいていたことさえあった。

(ありがとう・・・・ございました・・・)
瞬の胸が涙につまって、兄の胸に言う。
そう、そして、これがたぶん――
兄からもらう、最期のぬくもり・・・。

――できることなら。
あなた1人のための、僕でいたかった。
あなた1人のための、この命にしたかった・・!
だけども。
それはもう、叶わないこと―
・・・どうして、戦士になってしまったんだろう。
どうして、戦うことを選んでしまったのだろう。
そうでなければこの手の中に、そんな凶々しい力があることなど、気づくことさえ
なかったものを。
いつまでも、あなたの腕の中で泣いてばかりいる、弱虫の子供のままでいれば
よかったね。
でも、それでも・・・。
そのすべてを引き換えにしてさえも。
僕は、この地上を救いたかった。
この命のかけらで天空を覆う雲が退き、
人々の唇がやさしい言葉を取り戻し、
凍てついた地が、もとのあたたかな土の大地にもどれるならば―
それが今の、たった一つの、ささやかな夢だから。

――でも、本当は。
その取り戻した大地でもう一度。
兄さんや、それから仲間たちと、
ごく普通の日常でいいから、
どんなにつらくて大変でも構わないから、せめて。
せめて束の間、
やさしく楽しく暮らしたかった。
だけど、わかっている。
叶えられる願いは、1つきり。
これは、叶えられない方の願い。

ふいに瞬の瞳から1滴だけ、こぼれ落ちた涙がその頬を濡らした。
兄がゆっくりと視線を動かし、肩を抱いていた手でその頭をそっと抱き寄せ、
やさしくなだめるように撫でてやる。
「ごめんね・・」
震える小さな声で、瞬が言った。
「ん・・・?」
「これほどたくさんの愛情をあなたから注いでもらっておきながら、僕は・・。
だのに、何1つ、ついにあなたに返すことが出来なかった。・・・許してください・・」
弟の言葉に、兄がひどくやさしい瞳をして、またそっと幼い子供にそうするように
髪を撫でる。
無言のままに――
重ねられた手に、その心の波動を伝えるように、少しだけ力が込められる。
明日の朝が来れば、地上すべての希望の光を担って、その空へとはばたいて
いく弟に。
すべての想いを込めて。
それが、おまえの選んだことなのだから・・・と。

――親が子にそそぐ愛情は、大きすぎて深すぎて、たとえその子が一生かけて
も、そのすべてを親に返すことなど到底不可能で。
だから、子は、己が親になった時に今まで受けた愛情の記憶を、我が子に託して
いくのだという。
繰り返し、繰り返し。
きっと、これもそういう類のことなのだ。
だからおまえが、そんなに気に病むことはないのだよ・・と、一輝の心が小さな
子供を説得するように、やさしく瞬に想いを告げる。
――ならば、おまえが持てる限りの愛情を注ごうとしているこの大地のために、
俺もおまえとともに祈ろう。
そして、おまえの代わりに守っていこう。
いつかおまえが天から還り、地上に舞い降りるその日まで・・・。

瞬は、微笑みを浮かべ、涙の溜まる瞳で兄を見た。
最期の涙――
泣きベソばかりかいていた弟が、この17年の間に流した湖ができるほどの涙の
量を思い出し、兄の胸が疼くように痛んだ。
心やさしい弟は、いつも自分のためでなく、別の誰かのために泣いていた。
そして、最期の涙は兄のための・・・。
今までのどれよりも、ひどく美しい雫だった。
手の上にある兄の手を引き寄せて、そっと冷たい頬を寄せる。
小さく、言った。
「おぼえておいてね・・。このぬくもりのこと。たとえ、僕がいなくなってもあなたは、
人たちの愛の中にいてね・・。いつもしあわせでいてね・・。それからもう絶対に
自分を傷つけたり・・・いじめたりしないでね・・。大切にしてね。今度は僕が、遠く
からあなたを見守っているから・・。この手のあたたかさを、やさしい心を、あなた
が忘れてしまわないように、空を上からいつも、やさしい光を投げかけるから――」
最後の方は涙につまって、消え入るようだった。
兄はその言葉に、嗚咽を堪えるように唇を噛み締めて、弟を送り出すために、勇者
のような力強い笑みをその口元にたたえた。
「ああ、心配するな。だが・・。俺は必ずいつか、おまえをこの手に取り戻す。
どれだけの歳月を費やそうと、俺は必ずもう一度この手におまえを取り戻す・・・!」
決意の言葉には力がみなぎり、その力強さとあまりある深い愛情は、旅立つ少年
をなおのこと泣かせた。

――朝が来るまで――






そして、夜明けは訪れた。


大勢の人々が地に跪き、悲痛な顔で涙を浮かべ、それを見守り見送る中――
白く長い衣を纏った少年は、静かに何もないひび割れた荒野へと歩を進め。
そして、少女のような細い指を組んで祈りを捧げると、神さまのように人々に暖かく
微笑みを投げかけた。
兄の胸が、漠然と呟く。
――ああ、これはもう瞬ではないのか。
あの小さな泣き虫の弟ではないのか・・・。
兄の心が、引きちぎられるようにして痛む。
ゆうべ、兄の肩で泣いていた子供とはまるで別人のように、まるでその身に他の
何かが乗り移っているかのような、ひどく静かな表情の、『天使の宿命』を背負う
可哀想な少年がそこにはいた。
「瞬さまぁっ!」
子供たちが、悲鳴を上げて泣き出した。
衣に取り縋る小さな幾つもの手を、1つ1つ丁寧にあたためながら、瞬がやさしく
微笑む。
「大丈夫・・。何も心配することはないよ・・。僕はいつだって、君たちと一緒にいる
のだから」
そうして、人の輪の中心に立つ、兄の前に歩み寄る。
一輝は、瞬の腰に両手を回してそれを支えると、そのままゆっくりと瞬の身体を
持ち上げた。
つま先が、名残を惜しむようにそっと地から離され・・。
兄の目の高さよりも、さらに高く持ち上げられ掲げられると、その身は光の輪に
包まれて、ゆっくりと自らの力でふわりと上昇をしはじめた。
まるで、風にのるように。
ゆっくり、ゆっくりと兄の手からその身がすり抜け、光に包まれたまま天へと昇っ
ていく。
人々の口からは、その情景に感嘆の声がこぼされた。
それは、神々しいまでに、美しい情景――
「さようなら、兄さん・・」
やわらかな声で瞬が言い、天空から矢のように一条の光が放たれた。
「・・瞬・・・・・っ!」
その瞬間、瞬の背からは大きな白い翼が伸びて、それがバサリ・・とはばたかれ
ると、瞬の身体は力強く、天に向かって大きく飛翔した。
身を翻すように。

そして、みるみるうちに、その白い姿は雲の中へと消えていく。
幾度も、幾度も、兄を振り返りながら――





そして、天空を覆う雲という雲は、
いくつもの光の束にその身を裂かれ、
雷鳴を轟かせながら退き、
大地は降り注ぐ輝かしい光の下に、その全てを照らし出された――






END























ええっと、これは長編で書いていた話の一部だったので、かなり唐突に始まって唐突に
終わっておりますが・・。
しかも、なんか浸ってますが(笑)
私にとっては何年たっても瞬は天使なんだなあ・・と、自分で再確認するようなお話ですね。
でも瞬ちゃんの持っている天使性というのはこういう感じじゃないかなあって、今でも思っています。
誰かのためのものじゃなく、漠然とした、愛だとか平和だとか、本気でそういうことのために死ぬのは
厭わないと思っている、そこが瞬のすごいところだと思う。
原作の瞬ちゃんなんか、特にそんな感じだったし・・。
だから尚の事、試練を与えたくなっちゃうのですよ。どんな風にそれを、心を清らかなまま汚さずに
切り抜けてくれるのか、それが見たいなあとか思っちゃって。
かなり自分設定なお話ではありますけど、今でもこういうの書くのは大好きみたいです。


モドル