◆ イノセント 【3】 差し示すその向こうで、広大な庭の一角が、たたきつける雨をものともせず、轟々と火の粉を空へと吹き上げていた。 同じように3階のテラスから少し遅れてそれを見た瞬は、その光景に目を見張り、そしてテラスから飛び降りるなり、そのまま体力の極度に衰えた足で、それでも猛然と駆け出した。 木々の狭間を抜け、花園の間を走り抜け、池の脇を通り過ぎると、ガラス張りのそれは、火の勢いの中で、もうほとんどが全く形を成してはいなかった。 火の粉となった花びらが、誘われるようにして風に舞い、雨に打たれて灰となって、粉微塵に消えていく。 瞬は瞳を見開いたまま、ぺたり・・とその場に坐り込んだ。 (なぜ・・・?) 心の中で問うとともに、目頭が熱くなった。 あまりの衝撃に、瞳はまだぽっかりと見開いたままだ。 この温室は、去年の誕生日のその祝いに、沙織から贈られたものだった。 何が欲しいかと問われて瞬が答えた、ちょっと大きめのプレゼント。 それでも、皆が初めて聞く瞬自らの希望だったから、誰しも異論はなかったし、沙織はむしろ瞬の小さな我が儘を歓迎した。 住む人もなくなり荒れ放題となり、このままでは絶滅するだろうと思われていたデスクイーン島の花々や、アンドロメダ島の花の苗を、瞬は可能な限り日本に持ち帰り、自分で育てようとしたのだ。 あんな荒れた大地にさえ、けなげに生きてきた花や木が死滅している様を放ってはおけなかったのだろう。 瞬はその大きな8角形の温室を、とても大切にしてきた。 そして、その南の島特有の毒々しい色の花たちは、瞬が育てていくうちに幾つもの花をつけ、そして不思議なことに、いつしかその花びらは、やさしい色合いへと変化していた。 瞬はそれをひどく喜び、毎朝、早起きしては嬉しそうに眺めていた。 それなのに・・・・・。 涙がこぼれそうになる。 が、背中で感じた星矢たちの追ってきた気配に、瞬は無理にそれを押し殺した。 「―瞬・・・・!」 うなだれる背にかけられる声に、くっと唇を噛み締める。 そして涙の代わりに、目の前に落ちている小さな花の残骸を両手の中に掬い取り、瞬は原型を残したまま灰になってしまったそれに、そっと唇を寄せた。 “ごめんね・・”と伝えるかのように。 “ごめんね、今はまだ泣けないんだ・・・”と。 「瞬・・」 星矢が少しためらうように、もう一度声をかけた。 “うん、大丈夫だよ”と答えようとして振り向いた雨に濡れた瞬の頬は、星矢の腕に抱かれているものを見て、そのまま凍り付いた。 雨が髪から額へと伝い落ち、目に入って、前が・・・・。 前が、よく見えない・・・。 ―言葉にならなかった。 両手を差し伸べ、星矢の手からそれを抱き取り、ぎゅっと抱きしめた。 まだ、生まれて半年も経たない野ウサギ。 怪我をしていたのを助けて、治療のため連れ帰ったのだ。 ようやく走れるようになって、山に帰してやろうと思っていたところだった。 「首の骨、折られてたんだ・・」 悔しさに震える声で、星矢が言った。 ダン!と力まかせに、木の幹を殴りつける。 「畜生・・! あいつだ! あいつに違いない! 瞬が、瞬が大切にしてると知って、あいつが・・・!!」 怒りに燃えた瞳で星矢が、焼けただれた地面を睨み付け、吐き捨てるように言った。 それを紫龍が、その肩を掴んで咎めるように首を振る。 「星矢、今は言うな・・! 一番つらいのは、瞬だ」 「わかってるさ! だけど!」 そう言いかけて、星矢がぎり・・っと奥歯を噛み締めた。 振り返るその背で、まだ地に坐ったままの瞬がウサギを抱きしめたまま、身を丸めて身体を激しく震わせている。 びしょ濡れのその髪の狭間から、ほとんど消え入るように、押し殺した悲鳴のような嗚咽がか細く聞こえた。 冷たくなってしまったウサギの額に、幾つも幾つも口づけをして、涙に濡れた頬を擦り寄せる。 ―泣かない、という誓いはいともあっさり破られて、瞬はまた己の弱さに唇を噛んだ。 皆はその背を見守りながら、言いしれぬほどの憤りに唇を噛み締め拳を震わせた。 そして― 復讐は開始されてしまったのだ。ついに― 翌朝、瞬の眠る部屋のテラスに、犬の死骸が投げ込まれた。 次の朝は、池の水面に、多量の鯉が腹を見せて死んでいた。 また次の日は、小鳥の巣が全て焼かれ、そしてその翌朝。 瞬が屋根裏で大事に飼っていた猫の子供たちが、皆絞め殺されていた。 無邪気で残酷な子供のようなそれらは、瞬をことごとく打ちのめし、崩壊させるには充分だった。 話す言葉も知らない花や動物たちが、ただただ無惨に殺戮の道具とされることは、瞬にとっては、自らの死よりもずっとつらいことだった。 無力なものが、無抵抗のまま死に至らしめられていく― その殺戮の過程を考えただけで、瞬は全身が総毛立つ思いがした。 既に食べるものを受けつけなくなった胃は、水さえも拒絶し、逆流させ、悪夢にいざなう眠りは、瞬にわずかな休息すらも与えなかった。 ―それでも・・。 瞬は、まだ気丈にも、皆の前では崩壊していく自分の姿をさらけ出そうとはしなかった。 それが、尚のこと、自らを追いつめていると知っていても。 ギリギリ限界のところで、まだ無理に微笑みを保っていた。 それは、心やさしい仲間たちを自分と同じ暗い淵に引き込みたくない瞬の、最大限の心使いだったのだが・・。 しかし、そんな瞬のやさしさは、皆を胸苦しくなるほど切なくさせた。 儚げに健気に、青白い顔で微笑んでみせる瞬が、あまりに可哀想で、可哀想で・・・。 せめて“君たちなんかに、僕のつらさがわかるものか!”と八つ当たりでもして傷つけてくれれば、少しは楽にさせてやれるものを。 だけど・・・。 わかっていた。 瞬は、自分の罪の償いに、自分に科せられるすべてを、一人で受けとめようとしているのだ。 逃げて狂ってしまうことはたやすいけれど、受けとめ、受け入れることがどれほど容易なことではないか、瞬はよくそれを承知した上で闘おうとしているのだ、自分自身と。 けれど。 受け入れる量が飽和状態を越え、溢れ出した時。 瞬はいったいどうなってしまうのだろう・・。 それを考えて、星矢たちはゾッと寒気がするのを感じた。 もしかすると、このまま一生。 きっと死ぬまで、ただの一睡も許されぬのではないかと思われるほど、瞬の瞳は睡魔と闘うまでもなく、眠るということを忘れてしまったかのように開かれたままだった。 皆の手前、眠ったふりをしてはいても、意識はまったく覚醒したままの状態で、一向に眠りに落ちていこうとはしなかった。 怖い夢を見た後、また見るのではないかと思い不眠症になる、あの精神状態に似ているのかもしれない。 また、あんなに泣き虫だった瞳も、涙がもう枯れ果ててしまったみたいに乾いていて、瞬きするのがつらかった。 食欲もまるでなく、とりあえずは口に入れはするものの、気づかれぬようにトイレに行っては胃液までもを吐き出した。 ―このまま、こんな状態で、あとどれくらい持つというのだろう。 正気を保っていられるのは、あと何日? もっとも、それ相当の訓練を受けている身体は、皮肉にも、そう簡単にへばったりはしないのだろうが。 いっそ死んでしまえればどれほど楽だろうか、とも思う。 そうしたら、あの子も少しは喜んでくれるかしら。 もしも憎しみを、もうそれきり忘れてくれるのなら、それもいいかもしれない。 だけど・・。 それを自らのために、選ぶわけにはいかなかった。 (だって、僕は人殺し、なのだから・・・。死にたいなんて、贅沢だ―) “兄の仇”という一言が、深く瞬の脳裏に刻み込まれていた。 それがもし兄でなく、父であっても母であっても、状況に何ら変わりはなかったが・・。 それでも自分の持つ唯一の肉親、それと同じ存在を他人から奪ったということが、瞬を責め苛んでいたのだ。 もしも今、誰かの手によって、兄をこの世から連れ去られてしまったら。 自分はきっと、その相手をこの上なく憎悪し、同じことを考えるかもしれない。 ―だから。 彼の憎しみは、不当なものではないのだ。 きっと・・・そうなのだ― 星矢たちの目を盗んで邸を抜けだし、瞬は公園のベンチに一人腰掛け、ぼんやりとそんなことを考えていた。 その目の前に、いきなりニュッと真っ赤な物体を、小さな手が差し出した。 「・・え?」 「瞬さまぁ、あげる!」 赤い風船を瞬の手に押しつけて、5つぐらいの女の子が風船と同じ色のほっぺをして、にっこりと満足げに微笑んだ。 「やあ、お嬢さん・・。でも、いいの? キミのでしょう?」 「いいの! 瞬さま、淋しそうなんだもん。だから、あげるね!」 「ありがとう・・。嬉しいよ。・・・あ、ところで足の方はどう? もう痛くない?」 「うん! ちょっと寒いと痛いけど、こわいって言ってちゃいけませんって、センセが言うんだもん! でもセリ、もうだいぶん歩けるようになったんだよ、ほらほらっ」 「わあ、ほんとだ。よかったねえ、セリちゃん。もう杖なくても平気だね。きっと春になる頃には、一緒にかけっこが出来・・!」 やさしく微笑みながら言いかけた瞬の顔が、一瞬にして強張った。 “危ない!”と、少女を腕に抱きかかえ、茂みの中に身を投げ入れる。 そしてそのまま、少女を降ろすと、ひらりと身を返し、敵の気配を追って木の上へと跳び上がった。 その背後で、持ち主を失った風船が、頼りなげに風に仰られ、空へと舞い上がっていく。 それがバン!と大きな音をたてて割れ、茂みの中から顔を出した少女は、突然の成り行きにわけもわからず、”わあああぁぁ”と大きな声で泣き出した。 (凄い殺気・・! リィダ・・!! でも、さっきのは威嚇じゃない! 間違いなく、彼はあの子を狙っていた・・! 本当に、本気で殺すつもりだったんだ・・!!) 冷たい汗が、背を流れ落ちる。 瞬は高い枝の上で、素早く気配を感じ取ると、その方向へザザザ・・・ッ!と葉を分け、身を翻した。 そうして、まるで導かれるように、森の奥へ奥へと入っていく。 それが罠だとわかっていても、もうどうしようもなかった。 もう。 自分の代わりに誰かが、他の者たちが傷つけられるのは我慢できなかった―― つづく。 2<>4 書いてて自分でかなりツラい・・。 瞬ちゃん、カワイソー・・。 次こそは、一輝兄さん登場です・・! |