「あれ? 留守かな。でも鍵は開いてるけど・・」

独り言のようにつぶやいて、兄の住むマンションの扉をそっと開いて『お兄ちゃん?』と呼びかけてみる。

水曜日の夜。

その前の日曜日に、兄の部屋に忘れていった図書室で借りた本を取りに来たタケルは、チャイムを押して

も出てこない住人を留守なのだと思い込み、合鍵をポケットから取り出した所だった。

そうっと靴を脱いで廊下を歩き、そうっとリビングを覗き込む。

ソファの向こうに、床に寝転がる兄の足が見えた。

さらにそっとそばにいき、ソファの背からその姿を覗いて声をかけようとして慌てて口を押さえた。

「おにい・・・」

制服のまま床に寝そべるヤマトは、自分の腕を枕にして軽い寝息を立てている。

タケルは、音をたてないようにその傍に、でも少し離れて坐り込むと兄の顔を見下ろした。

こういう時。

大抵、ヤマトはタヌキ寝入りで、傍にいくなりがばっと飛び起きて脅かされるとか、いきなり抱きつかれて

キスされるとか、はっきり言ってろくな目に合ったことがないのでタケルの警戒もいたしかたないのだが。

声をかけるのもなんとなく気がひけて、とりあえず立ち上がって、放ったらかしになっている洗濯物を取り

入れ、たたんで片付け、キッチンに溢れている汚れた食器を静かに洗う。

そうしながらも、寝ているヤマトを横目で伺う。

・・・どうやら本当に眠っているみたい?

(ごはん、何作るつもりだったのかな・・? 勝手に作っちゃったら怒るかな。といっても僕のレパートリー

なんて5本の指で足りちゃうけど)

考えて、起こして相談しようかどうしようかと洗い物を終えた手を拭い、もう一度ヤマトの傍にぺたんと坐

り込む。

「お、にい、ちゃん・・・」

囁くように呼んで、そうっと髪に触れると、ヤマトが小さく身じろいで薄く瞳を開いた。

「タケル・・?」

「あ、ごめん・・・起こした」

「いつ、来た?」

まだ眠そうな目をして、ヤマトがかったるそうに前髪を掻き上げる。

「さっき。あ、あのごはんをさ。作ろうと思っ・・」

「かせ・・」

「え?」

「膝、かせよ」

「膝?」

タケルが不思議そうな顔をしているうちに、ヤマトはタケルの膝に頭をもたげるようにしてきたかと思うと、

そこを枕にまた目を閉じて眠ってしまった。

(え? 寝ちゃった・・)

困ったような、でもなんだか嬉しいような顔をして微笑んで、タケルがヤマトの顔を覗き込む。

そして、ぎこちない手つきでヤマトの髪を、いつも自分がしてもらうように優しく撫でた。

なんだか嬉しい。嬉しくて、くすぐったい。

(ふふ・・・なんか、今日のお兄ちゃん、かわいーかもv)

・・きれいに整った顔立ち。通った鼻筋と、りりしい口元。

目元は少しきつめだけれど、その瞳の色はタケルのよりずっと深い。

自分とは似ていないそれらにコンプレックスを感じたこともあったけれど、今は似ていないからこそ好きで、

自分にないからこそ強く惹かれるのだとそう思っている。

兄の全てが好きだ―。そう思うだけで頬がなんだか熱くなってくる。

前髪を指先で梳いて、軽く額にキスしてみた。

起きていれば速攻でからかいのネタにされるところだけれど、この際それも覚悟の上で。

でも、瞼は重く閉じられたままだ。長く睫の陰をその下に落としている。

深く眠るその顔は、なんだかいつもより、少し疲れているように見えた。

・・無理もない・・。

学校の授業を終えた後、バンドの練習をして、帰宅するのは日が落ちてから。

暗くなってからの帰宅にも関わらず家で待つ人はなく、それどころか、本来なら誰かがしてくれるであろう

はずの家事が、容赦なく待っている。

朝、父が干していった洗濯物を乱雑に取り入れ、そのへんにほったらかして、風呂に湯を溜め、2人分の

食事を作る。見たいテレビもあるだろうし、帰って何もかも面倒で自分の部屋でゴロ寝を決め込みたいこ

ともあるだろう。

タケルも帰宅後一人になってしまうことが、最近では多くなってきたけれど、とりあえずは家事一切は母が

してくれるので、そのわずらわしさを味わうことはあまりなく済んでいる。

男親と女親に引き取られた差だとはいえ、普段そのことに気づいていなかった自分自身が悔やまれた。

ヤマトは、確かに掃除や洗濯は苦手だと言ってはいたが、別段それを苦にしているような素振りはタケル

には見せなかったから。

そして、いつも自分の弱い所は見せず、タケルのことばかり気づかっていた。

たまにこうして平日にいきなり訪問して驚かせる弟を、けれども優しい笑顔でいつも迎え入れてくれた。

もしかしたら、誰かと話したりするのさえ面倒なほど、疲れていることもあったかもしれない。

(ごめんね・・・お兄ちゃん・・僕、いつも甘えてばかりで、お兄ちゃんのこと、ちっとも考えてなかったかも

しれない・・)
その気配に気づいてか、ヤマトがゆっくりと瞳を開いた。タケルは驚いたようにそれを見下ろし、瞬時に

涙を隠して、そして目を細めてひどくやさしげに微笑んだ。

「おはよ・・・お兄ちゃん」

「・・タケル?」

呼んで、確かめるように手をのばして頬に触れる。夢の続きでも見ているような瞳に、タケルがにっこりと

笑って小首を傾げてみせた。

「寝心地よかった?」

「あ・・?」

タケルの膝枕で眠っていたことに気づいて、ヤマトが驚いたような顔をして、それから照れたようにくすっ

と笑って答えた。

「ああ・・よく眠れたよ」

言って、それからじっと、深い蒼い色の瞳でタケルを見上げる。

見上げられることなんてあんまりあることじゃないのに、それだけでもドキドキするのに、見つめられて思

わず頬が熱くなってしまう。

「な・・なに?」

「ん・・・いや。何でもない」

「何? 教えて」

「ちょっとな。色々あって・・」

「うん・・」

「かなり、苛立ってた」

「うん・・」

「何もかも、嫌になっちまって・・」

「うん・・」

「こういう時、おまえがいてくれたら・・って、そう思ってたから」

「え・・?」

タケルの瞳がぴくっと震えた。体が思わず強張ってしまう。

ヤマトの両腕がタケルの腰に回され抱きつくように、そしてその腹の辺りに顔を埋めてくる。

初めてのことに頬を赤く染めながらも、タケルの両手がヤマトの頭をそっと抱き寄せた。

いつもとは違うかたちの抱擁に、胸が躍るように高鳴っている。

だけど普段は誰にだって弱みを見せないヤマトが、今、自分に甘えてくれていることが、たまらなく嬉し

い。しばらく、じっとそうしていて、ふいにヤマトが顔をあげたかと思うと、首を伸ばしてタケルの唇に軽く

キスをした。そして、そのまま身を起こすと、タケルが驚いている間もなく、やおらその体を自分の腕に

引き寄せた。ヤマトの腕の中でくるりと反転させられる格好になって、気がつけば逆にその足の上に抱

き上げられている。

「お、お兄ちゃん!」

「やっぱ、こっちの方が自然だよな」

どうやら寝ぼけていた頭がしっかり覚醒したらしいヤマトが、照れ隠しもあってか明るくそう言うのを聞い

て、タケルもつられて笑ってしまう。

そして、兄の瞳を覗き込んで、茶目っ気たっぷりに言った。

「もう、甘えん坊さんはいいの?」

タケルの台詞に、何のことだ?と言う顔をして、ヤマトが少し顔を赤らめてそっぽを向く。

「それより、何だよ今日は。来るって言ってなかったろ?」

ちょっと突き放したような口調になってしまうヤマトに、タケルがくすっと笑って肩をすくめた。

「この前来た時、学校の図書室で借りた本、忘れていったから。あれ、返却日明日なんだよね。だから、

今日のうちに取りに来なくちゃと思って」

タケルの言葉に“ああ、あの本な”とつぶやいて、それからニヤリと笑って勝ち誇ったように言った。

「ああ、俺の机の上にあるから取って来いよ。おまえがこの前、わざと忘れていたヤツ!」

ヤマトの言葉にカーッと頬を真っ赤に染めて、タケルがヤマトの膝からさっと立ち上がった。

「わわわわざとなんかじゃないよ! 変なこと言わないでよ、お兄ちゃん!!」

しどろもどろになって、ヤマトの部屋に本を取りに行くふりをして逃げ込もうとするタケルを、ヤマトの腕

が素早く捕らえる。

「ちょっと何! 離してよ、もう!」

真っ赤になって、いかにもヤマトの言葉を肯定している顔を見られたくなくて、その腕から逃れようと暴

れるタケルを、ヤマトが強引に腕の中に抱き寄せる。

「何だよ、もおっ」

「おい、こら、暴れるなって」

「いいよ、もう」

「いいって、何が」

「どうせ、僕は女々しいんだから! そういう姑息な手を使ってまでお兄ちゃんに会いたいんだから!」

言って今度は泣き出しそうな顔になって、唇を噛んで視線を逸らす。

ヤマトは自分の照れ隠しのためのからかいで、逆にタケルを泣かせてしまいそうになっていることに気

づいて、悪かったというとその目元に口付けた。

そして苦笑して言う。

「素直じゃないトコ、似てるよな。俺とおまえ。意地っ張りなとことか」

「・・・兄弟だもん」

「そうだな」

「照れ屋なとこも」

少し責めるような瞳でヤマトを見上げるタケルに、ヤマトがやっと大人しくなったその身体を腕の中に抱

き締めた。

「サンキュ・・」

「え・・?」

「そばにいてくれて、嬉しかった」

「お兄ちゃん・・・」

「実の所、すごく会いたかった、おまえに。本、届けるフリして会いにいこうかと思ってた」

「え・・?」

「悪かったよ。なんか、お礼に美味いもん作るから。・・だから、怒るな・・」

「うん・・」

頬を染めて頷く弟を見つめてキスして、ヤマトはもう一度、その身体をそっと抱き締めた。

そして、その耳元に甘く囁く。

「その前に・・・」


「えっ?」


「今日、遅くなっても大丈夫か?」


「あ。えっと・・・うん・・」


小さく答える弟の、その耳の下のやわらかいところに唇を寄せてくる兄にタケルの体が強張ってピクリ

と震える。それでも頬を染めてヤマトの背中に両手を回してしがみつくタケルは、息を吐き出しながら、

もう一度答えた。


「うん。いいよ・・・・大丈夫・・」

その答えを聞いて、ヤマトがタケルの額に自分の額を合わせるようにして顔を近づけ、唇に口付ける。


「母さん、電話しとけよ」

唇が離されると、携帯を手渡され、タケルはこくんと頷いた。母の携帯へと電話を繋ぐ。


「・・・あ、お母さん。・・・うん・・・え、今、お兄ちゃんとこ。・・・そう。あ、うん、そうじゃなくて、学校の図書

室で借りた本を忘れちゃってたから取りにきてるんだ。それで・・・・うん、ご飯食べて帰ってもいい? 

・・・うん、わかった。じゃあ・・・・え? あ、うん!電話かかってきてる。金曜まででいいって。家にメモ

おいてるよ。あ、それと、もう一つ頼みたいのがあるから連絡してって。あ、それから・・・」


どうやら、タケルが家にいた間に、母の仕事関係の電話が数件入っていたらしく、なかなか終わりそう

にない会話に、ヤマトがちょっとふてくされたような顔で溜息をつく。


「えーと、あとはそれだけかな。あ、そうそう!」


また何か思い出したらしいタケルに、ヤマトは深々と溜息をつくと、それから何か悪戯心が起こったよう

な顔でにやりと笑った。


「柿崎さんがこの前の、訂正が入ったからっ・・・あ・・ッ!」


突然漏れてしまった声に慌てて自分の口を抑え、背後に回っていたヤマトを驚いた顔のまま見上げる。


「え、ううん。何でもない。お兄ちゃんが・・・・う・・ン」


言いかけて、また息をつめて身体を強張らせる。

背中からタケルの身体に回されたヤマトの手が、タケルのTシャツの裾をめくり上げ、素肌をその手の

平で撫ではじめたからだ。そして、それはそのまま上へと這い上がり、後ろから、指先が胸の飾りを弄

ぶように触れてくる。タケルの体がビク!と戦慄く。頬を染め、顔を歪め、崩れそうなる身体を抱きとめ

ながら、ヤマトは低く笑うとタケルの手から携帯を奪い取った。


「あ。ヤマトだけど。・・・タケル? なんか急に腹痛いって。うん。大丈夫。ちゃんと送っていくから心配

しなくていいよ。ああ、わかってる。じゃ・・・」


そう言って電話を置くと、腰が抜けたようにぺたんと床に坐り込んでいるタケルに、悪びれもせず笑い

かける。


「お兄ちゃんが。って何だよ。母さんに、お兄ちゃんがイヤラシイ事するって、告げ口するつもりかよ」

「そ、そんなことするわけないでしょ! お兄ちゃんこそ。電話中に変なことしないでよ!」


「おまえがいつまでもしゃべってて、電話切らねえからだろ」

真っ赤になって睨むように抗議する瞳に、ヤマトが同じように坐りこむと、抵抗しようとする身体を腕に

強く抱き寄せて、耳元で、まるで脳の奥にまで響くような声で低く囁いた。


「あんまり、焦らすな・・・」


全身の力が抜けていくような思いでその言葉を聞きながら、耳の後ろまでを真っ赤に染めて、タケルは

”ごめん・・・”と小さく呟くと、そっと兄の胸に頬を寄せて目を閉じた。

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 抱 擁