■□ あいたくて ■□


「はあ・・・・」
午後の授業に入って、かったるさについつい伸びきった髪をかきあげて、窓の外をぼんやりと眺めた。
外は、もう11月だが、午後の日差しは眠気をさそうほどの暖かさだ。
それでも風は強いらしく、はらはらと散っていく葉っぱを見てると、またため息が出た。
電話しなくては、今日こそ。そう思ってから、すでに5日が過ぎている。
もう今度の日曜日まであと一週間を切っちまった。
とにかく今日だ。バンドの練習も休んで・・・。いや、練習休むほどのことでもないか・・・。あいつだって、そんなに早くはまだ家に帰ってないだろうし。
しかし、なあ・・・。どう言えばいい?
だいたい電話なんて、もう随分長くしてないし、会ったのだってまだ夏だったぜ?
その時だって、一瞬かける言葉に困ったほど、恐ろしく背も伸びてて、声だって・・・。
あの、甘えったれの可愛い声じゃなくなってた。
戸惑って、ついよそよそしくなっちまって、もしかしたら、それで傷つけたかもしれないのに・・・。
今更、こんなことで電話って・・・。どう思うだろう。
髪を片手でぐしゃぐしゃと掻き回して、中学に入ってすぐ仕事で多忙な親父との連絡用に買ってもらった携帯電話を、忌々しげに睨みつける。

『お兄ちゃん!』
そんなこと言ってないで、早く電話してきてよぉ!と小さいタケルの声が、その電話から今にも聞こえそうだ。
けど・・。

いつも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」って可愛い声で足元にひっついて甘えてきて、抱き上げてやると、本当に嬉しそうに笑った、小さいタケル・・・。
いつまでも、この腕の中にいてくれるもんだと、そう思っていた。
・・・・・小さなタケル・・・か。
胸中でつぶやいて、なんとも言えない痛みに胸をかきむしられるような、そんな感じがあった。
・・・・・甘えんぼうで泣き虫で・・・。可愛かった俺の弟・・・。

   
そんなタケルは、今はもう、どこを探してもいないのに・・・。
例えばもっと、時の流れがゆるやかだったなら、それとも、もっと近くて、その成長の1つ1つを目に焼き付けて見守れたなら、こんな言いようのない喪失感もきっとないのに違いない・・・・。
俺はバカだ。
タケルはいなくなったりなんかしていない。

俺のタケルは、ちゃんとそこにいる、どうしてそれがわからないんだよ?
そんな自分自身を責めるように、俺はぐっと電話を握る手に力を込めた。
・・・・・とにかく、今日。電話しなくちゃ・・・な。

 

そもそもの発端は、確か5日前だったか。
めずらしく早く帰ってきた親父と、いつもより食事の遅れた俺は、一緒に夕食をとっていた。その席で、急に親父が、「ヤマト、おまえサーカスに行かないか?」などと言い出したのだ。

「仕事絡みで、招待券を何枚ももらってなー。あちこちで知り合いにわけてやったりしてたんだが、あと2枚余っちまって」
「親父と2人でサーカスー? なんかぞっとしねえ図だな。第一、中1の男が父親とそんなとこに行って面白いかよ」

憮然としてそう言うと、慌てたように否定しやがった。
「いや、ちがうんだって。俺はどっちにしてもその日は仕事でいけねえから。おまえ、タケル誘ってやったらどうだ?」
「タケル?!」
その名が出た途端、頭の中が真っ白になってしまった。
「ほら、夏休みも、島根のばあちゃんが具合悪くて寝こんでて、結局、今年は恒例の島根行きもなかったし、それからも全然会ってないだろう? おまえが誘ってやったら喜ぶと思うんだがなあ・・・」

顔をほころばして言う親父に、しばし沈黙して、それから食べ終わった食器を流し台に運びつつ、ぼそ・・と答える。
「誘っても、きっと行かないって言うって」
「どうして」

どうしてって・・。
「小4にもなって子供っぽいだろ、サーカスなんて。しかも兄貴となんか誰が行くかよ」
・・・・自分で言って、むなしくなってしまった・・・。
けど。そうさ、どうせ断わるに決まってる。
夏休みだって、島根に一緒にいけなくなった代わりにと、何度か誘いの電話を入れた。
けど、アイツはバスケの練習だなんだととにかく理由をつけて、事ごとく断ってきたんだ。
きっともう、俺となんかと会いたくもないに違いない。
俺は一人悶々と思考を巡らせて、親父の話など聞いちゃいなかった。
そう、もしここで注意深く親父の話に耳を傾けていたならば、その次の春にタケルたちがお台場に越してくるなんて縮図が、すでにこの時から出来上がりつつあったことに気がついていたはずだったのに。

たしか親父はこう言った。
「なあ、誘ってやれって。タケル、ここのとこ、なんだか元気ないらしいんだよなー・・」
なんで、俺が知らないタケルの近況を、親父が知ってんだよ・・・?
まあ、そんなことに気づいたのは、ずっと後々のことで。

ともかくと、つい手渡されて受け取ってしまった招待券を持て余していた俺は、それでもとりあえず電話だけはしてみようと思っていた。
この機会を逃すと、また電話しづらくなってしまうし、こっちとしても会いたくないわけじゃない、あるはずがない。

小さいタケルじゃあろうがなかろうが、アイツは俺の可愛い弟なんだ。
声だって聞きたい。
昔のように高いかわいい声じゃなくて、声変わり途中の声でも、それだって愛おしい。
・・・・ただ、そう。

なんとなく、意味もなく、少し寂しい気持ちになることと、それをアイツに気づかれて避けられてるんじゃないかと思うと、どうしても二の足をふんでしまう。それだけだ。
それとまあ単純に、「行かない」とあっさり断られるのが怖いだけ、だな。
「はあ・・・」

また深々と溜息をつき、とにかく結局、たかが電話のためにバンドの練習がサボることにして家に帰り、それから5時30分くらいまで待って電話をしてみることにした。
クラブがあったとしても、もうそろそろ帰っている頃だろう。
受話器をもったまま、心臓の鼓動がこれ以上早くなる前に、とにかく素早くタケルの家の番号を押す。

ああ、この、相手が電話にでるまでの時間が・・・・。
1回、2回・・5回・・・・・7回・・・・・・10回・・・
なんだよ、帰ってねえのかよ。
肩を落として、さらに長いため息をつくと、仕方なしに受話器を置こうとした。

せっかく気持ちがめげちまわないうちに電話したのに、後からまたというのはツライよなあ・・・・。と思ったその時。
「はい!高石です!」
いかにも今帰ってきて、電話に飛びついたというような声がした。
「あ・・・・ヤマト、だけど」

慌てて電話を落としかける。
「え・・・・・・・・?」
え・・・?って何だよ。
「タケル?」
「あ・・・はい!」
はいって。
「元気にしてるか?」
俺の言葉に一呼吸おいて、元気な声がそれに答える。
「うん! おにいちゃん」
゛お兄ちゃん”そう呼ばれた途端に、俺の中に勝手にあったわだかまりや、ためらう気持ちが溶けるようになくなっていく。我ながら、ゲンキンなものだ。
「そっか・・。久し振りだな。おまえの声きくの」
「うん。お兄ちゃんの声も久し振り。・・・・あ、どうかした?」
「いや。その」
いきなり本題かよ。
「今度の日曜、おまえヒマ?」
「えっ?うん」
なんだ、あっさりと。
「サーカスとか、行かねえか?」
「サーカス?! あ・・・でも、誰と?」
「誰とって。俺と・・・・だけど」
「・・・・・・・・・」
おい!なんで黙るんだよ!
・・ああ、わかってるさ。
どうせ俺となんか行きたくないんだろう?
ほんの3秒くらいの沈黙に、耐えきれずに勝手に答える。
「やっぱサーカスなんて、ガキっぽいよなあ。しかも兄貴と行くなんて、そりゃあ誰だって・・」
「僕でいいの?」
へ? 僕で、って。おまえに決まってるじゃん。
そのために電話してんだから。
「ああ、もちろん」
「でも・・・ 他に誰か誘わなくていいの?」

誰かって誰だよ?
「おまえを誘ってるんだけど」
何が言いたいかわからないが、まだ何か続けようとするタケルの言葉を遮るように言う。
「俺はタケルと行きたくて、おまえに電話してるんだけど?」
言いきるなり、電話の向こうの顔が見えた気がした。

ぱあっと花がさいたように、嬉しそうに頬を染めてる顔。
「行く!お兄ちゃんと、サーカス行きたい」
「え?ああ。・・そっか」

あんまりはっきり誘いを受けられ、今度はこっちが戸惑う。
「うん!」
「じゃあ、また時間とか前の日に電話するな? 母さんにも言っとけよ」
「うん、わかった」
「楽しみにしてる」
やさしく言ってやると、電話の向こうで微笑む気配がする。
じゃあな、と切ろうとすると、あわててタケルが言った。
「あ、あの!」

「ん?」
「電話、してくれてありがとう、お兄ちゃん。嬉しかった・・・・。じゃあ」
「え! あ、おい・・!」
言うだけ言って、切っちまいやがった・・・。
けど、「嬉しかった」だって。
なんて、なんて、可愛いことを言うんだ・・・。

なんで俺の弟は、こんなに可愛いくて、いい子なんだろう・・・。
さすがにこれは、かなり寒いほどブラコンだと思うが、カワイイもんはカワイイんだから、しょうがない。事実だ。
気まずいと思っていたのは俺の錯覚で、もしかすると、ずっと俺からの電話を待っててくれてたのかもしれない。
そう考えると、今すぐ抱きしめてやりたいほど愛おしいと思う。
受話器を置いて、一人でじーんとしていると、さすがにちょっと自分でも、こいつはヤバイという気がした。
けど、とにもかくにも。
俺はデートの申し込みをして成功したが如く、それから日曜日までの数日をご機嫌のハイテンションで過ごし、勘のいい太一に「どうせ、タケルと会う約束でもしたんだろー」とかあきれたように言われたりもした。

「図星だろー」
・・・うるせえ、ほっとけよ。

 

「遅せえな・・」
もう開場まで時間がないというのに、タケルはなかなか姿を見せなかった。
だから家まで迎えに行くといったのに、頑として現地集合を曲げなかったのだ。
まさか忘れたわけじゃ・・? 
いや、昨日ちゃんと電話も入れたし。

風邪引いたとか。怪我とか、まさか事故とか?
もしかすると、やっぱり俺に会うのが嫌で、すっぽかすつもりなのかもしれない。
いや、もしそうだったとしても、適当な理由をつけて連絡をよこすだろう。
何も言わずに約束をすっぽかすような、そんな奴じゃない。
・・だったら、やはり事故とかでは・・・。

心配で、じっとしていられなくて辺りを歩き回ると、その目の中に大きなサーカスのテントが映った。
今日はなんだかすごい人だ。入場制限も出るらしい。
今どきサーカスなんてと思っていたが、結構人気あるんだな。
そんなことを思いながら、どやどやと駅からこちらに向かって歩いてくる人込みの中に、ふいに金色のものが見えた気がして、はっとなる。
人の波を掻き分けようとして押し戻されながら、タケルがこちらに駆け寄ってくる。その姿を認めた途端、不安は一瞬に吹き飛んで、心の中に火が灯ったように明るくあたたかな気持ちになった。
俺の前まできて、はあはあと息をきらせつつ、タケルが見上げる。

・・・おい、おまえ。また、背のびたろ?
「お・・お・・お、にい、ちゃん・・・ ごめん・・待った・・・よね?」
待った待った。計45分くらい。
今日は結構寒かったぜ?

なんてことは、もちろん言わない。
「いや、俺も今、きたとこ」
「ああ、そうなんだ・・ よかったあ」
「走ってこなくても、大丈夫だって」
「だって、なんだか入場制限してるっていうから」
「ああ、混んでるからな」
「入れるといいけど・・」
「俺たちは指定席だから、心配ねえよ」
「あ、そうなの。なんだ、よかった」
本当にほっとしたように呟いて、それから俺を見上げてにこっと笑った。
・・・まいるな。
やめてくんねえ。そういう顔。
思わず、顔がニヤけるから。

けど、目が合うとなんだか慌てたように視線を反らす。
マジで俺、ニヤけてたか?

頬を少し赤らめて、何か言おうとしたタケルの後ろで、場外整理をしていた係の者が「あと50名さましかお入りになれませーん」と大声で叫んだ。
それに次いで、「まもなく開演します」とアナウンスが流れ、いつのまに開場してたんだ?と思いつつも、タケルの背中を促すように軽く押す。
「行くぞ」
というと、「うん」と小さく返事して歩き出す。
入り口でタケルの分もいっしょに係員にチケットを手渡すと、はぐれまいと軽く俺の上着の裾を、細い指でぎゅっと掴んだ。
・・・そういうクセは、変わってねえよな。
ふいに目が合うと、恥ずかしそうににっこり笑った。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「礼なら、親父に言えよ」
俺は照れくさそうにそう言うと、ポンと軽くタケルの頭に手を置いた。
後からよくよく考えてみれば、どうもこの「ありがとう」は、「自分の分も一緒にチケット渡してくれてありがとう」の意味だった気がしたけど。
そんなことで、いちいち感謝すんなって。
あたりまえのことなんだから。


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