雨ふり |
寝る前は、確かお月さまが出ていたはずなのに。 いったいいつの間に降り出したのやら。 ――明け方。 銀次は、しとしとと降る雨音で目をさました。 うわあ、えらく降ってるなあと、薄目を開けてフロントガラスを流れる雨を確認し、またそのまま目をとじる。 まだまだ空は暗かったし、朝というには早すぎる。 もうちょっと、いや、まだもっともっと、とにかく眠っていたかった。 なのに。 なぜだか、瞼を閉じても、意識は一向に眠りに落ちていかない。 どうしたんだろう。 雨音が気になって眠れないなんて、最近ではもうなくなっていたのに。 雨は銀次にとって、もう冷たいものでも悲しいものでもなくなっていたのに。 それなのに、意識は深みに落ちていかず、浅いところで保たれたまま。 眠れないことに、理由もなく少し焦れて、サイドシートで寝返りをうつ。 2度3度それを繰り返していると、やがて運転席から眠そうな声がした。 「眠れねぇのか?」 「あ…。起こしちゃった?」 銀次が、蛮の声に肩越しに振り返って小声で返し、ドア側に向けていた身体を運転席の方に転がす。 蛮が目を閉じたままで、それに答えた。 「…いや」 「ごめん」 「バカ、そうじゃねえって。雨の音でよ」 「あ、蛮ちゃんも? 雨音で目が覚めたの?」 「ああ…。オメーもか?」 「…うん。なんか、すごい降りだなぁって」 「…ああ。えれぇ降ってんな」 「うん…」 フロントガラスを叩く激しい雨とは裏腹に、車内では声を潜ませるように、静かに会話が交わされる。 別に、まだ朝も早い時間だからと、誰に咎められるわけでもないのだが。 雨音に混じって至近距離で聞く互いの声は、なんだか妙に耳に心地好かった。 雨に聞かれないように、内緒話をしているみたいだ。 銀次がくすっと小さく笑えば、それに「なんだよ」と答える蛮の低い声も、少し籠って聞こえ、銀次はもっと近くで聞きたいと蛮の口元に耳を寄せた。 今度は、蛮が笑む。 コラ、髪の毛がくすぐってぇだろうがと、ぽかりと拳でその額をこづいた。 「ねえ」 「んー?」 「どうしてかな」 「何が?」 「目がさめて、もう一度寝ようとしたんだけど」 「…ああ」 「やけに雨音が、耳について」 「……まぁ。そういう時もあらぁな」 「うん」 銀次の答えに、蛮がふいに目を閉じたまま手を延ばし、銀次の頭をそっと自分の胸の方へと引き寄せた。 「蛮ちゃん?」 「――まだ、雨は嫌ぇか?」 さっきよりももっと近くで、蛮のやさしい低音が響いた。 少し驚いたように微かに瞠目し、それから銀次が緩く首を横に振る。 「ううん」 そして、蛮のあたたかな胸に耳を寄せて、そっと目を閉じた。 「…そんなじゃないよ。うん…。今は、そんなことない」 「…そっか」 「うん」 「なら…。いいけどよ」 いたわるように蛮の手が、そっと銀次の金色の髪を撫でた。 銀次が、それに小さく微笑む。 「うん。それに」 「ん?」 「いっしょだし」 「何が?」 「蛮ちゃんと、一緒だし。――こうやって、二人並んで聞く雨の音は、なかなかにロマンチックでもあるかなぁって」 「…ばーか。テメエにゃ、似合わねぇよ。そういうのはよ」 「えー。ひどいなあ」 失笑まじりの蛮の台詞に、銀次がむくれたように、笑いながらもそれに返す。 「…ねえ?」 「あ?」 「今日は、一日雨ふりかな」 「どうだかな」 「寝る前は、お月さま出てたケド」 「…あー。そういや、そうだったか」 「天気予報どうだっけ?」 「さぁな。覚えてねえよ」 「お昼にさ。そろそろ桜が咲きかける頃だから、去年お花見に行った神社に行ってみよって、そう言ってたのにー」 「ああ。けどまあ―。どうせ、まだ咲きゃしねえさ。今年は、去年に比べてまだまだ肌寒いしよ」 「うん。でも。ちょっと行ってみたかったなぁ」 さも残念そうに言う銀次に、蛮が目を閉じたまま、やれやれと心中で呟く。 やれやれと思うのは、自分にだ。 銀次にはとことん甘い、そういう自分に――。 「明日でもいいじゃねえか。明日晴れたら、つれてってやらぁ」 「ほんとっ?!」 「おう」 「やったぁ!」 「晴れたら、だぞ」 「わかってるよ! じゃあ…! あ、そーだ」 「あ?」 「ティッシュ、後ろにまだ箱があったよね」 「は? あぁ、あったんじゃねえか? 」 蛮の答えの途中で、銀次がくるりと後部座席を振り向き、生活用品でいっぱいのそこをごそごそと探り出す。 さすがに蛮も、いったい何かと目を開いた。 「ええっと、確かこの辺。――あ、あったあった!」 「なんだ、トイレかよ?」 「違うよ! もおー」 苦笑しつつ、銀次がティッシュの箱を大事そうに抱えて座り直す。 「ええっと。こうやってくしゃくしゃっと丸めて、と。何枚くらいいるかなー。もっと大きい方がいいかな。んん、こんなくらい…? で、これをもう一枚のティッシュでくるんで…と。――あ、蛮ちゃん。マジックあったっけ?」 「あーと。確かドアポケットに―。お、あったぜ! おら」 「ん。あんがと」 蛮の手からマジックを受け取って、銀次が丸めたティッシュをもう一枚のティッシュでくるんで、ギュッと指で絞った球形のところに、キュキュとにっこり笑った顔を描く。 「ハイ! てるてる坊主の出来上がりー!」 さも得意げに目の前に差し出され、蛮が思わず瞠目し、たじたじとなる。 …相変わらず、自分にはまったく予想もつかないことをしてくれる。 「……」 「かわいいでしょ、ねっ」 「――お、おう」 「さてと、どこに吊るそうかな。あ、でも首のとこ何かで絞っておかないと、捻っておくだけじゃ中のティッシュが出てきちゃうか。蛮ちゃん、紐とかなかったっけ?」 「…ああ。ちっと待ってな」 銀次の言葉に、蛮が同じように後部座席をごそごそやり、巻いた包帯を取ると適当な長さに切り、その端から口でビッと細く裂いて銀次に手渡す。 「おら」 「わ、すごい! あんがと、蛮ちゃん!」 嬉しそうに、その片方の端でてるてる坊主の首をリボン結びにし、もう片方を、うーんと考え、結局ルームミラーの根元に括りつけた。 「ほら、蛮ちゃん。かわいーいv」 にっこり笑って自分を見下ろすてるてる坊主に、銀次がそれと同じようなにこにこ笑顔になって蛮を見る。 「ねっv」 「――ぁあ。まー。確かに、可愛いわな」 「うん!」 無邪気に肯く銀次に、”オメーがな”と、危うくぽろりと言ってしまいそうになり、蛮が内心慌てる。 そんな事は、たとえ殺されたって言えない――。 そんな蛮の心中などまったく気付かず、銀次がなんだか妙に安堵したような顔になって、静かにシートに身を横たえると、寄り添うように蛮の方に体重を傾けてくる。 眠そうに目をこする銀次に、ずり落ちかけた毛布を直してやりながら、蛮がそっと”もう寝ろ”と呟いた。 銀次がそれに”うん”と素直に肯き、てるてる坊主を見上げながら、ゆっくりと目を閉じる。 雨は、まだしとしとと明け方の街を濡らしている。 それでも、蛮の肩を枕にして目を閉じた銀次には、それはもう、やさしい子守り歌でしかなかったけれど。 ――ややあって、銀次の唇からすーすーと、微かな寝息がこぼれ始める。 蛮の紫紺の瞳がそれに気付き、見下ろすと、フッとやさしく細められた。 雨はまだ降り続いている。 先程に比べれば、幾分ましにはなったようだが。 この分だと、今日は一日。悪くすれば、明日も同じ雨が降るだろうか。 考えて、蛮が右手を延ばし、銀次によく似たにっこり笑顔のてるてる坊主の、その丸い額をつんと軽く指先でつつく。 「おい頼むぜ、坊主。とっとと、この雨をなんとかしろ」 命令のように呟いて、もう一度指先でこつんとやると、まるい笑顔が反動で揺れた。 蛮の瞳がそれを見つめ、らしくない自分に苦笑しつつ、倒したシートにゆったりと背中を預けていく。 そして、銀次の頭を抱き寄せ、その髪をくしゃくしゃとやりながら、安らかな寝息をたてる薄く開いた唇に、そっと唇を寄せた。 次第に、銀次と同じ眠りの中に墜ちていながら。 蛮は祈るようにもう一度、心の中で唱えていた。 ”どうかこの雨を――。 どうか、とっととこの雨を、コイツのために止ませてくれや――” …と、そんな風に。 END |