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コラム・・・というほどのもではありませんが
思い出に残っている試合や選手のことなど・・・


★自分用覚書になりつつあります(^^;
 

 1    レフティ モンスター引退/2.10.2006
いつかは、この日がやってくるとは思っていたけれども実際に発表されると辛いなぁ〜・・・。
やり遂げたというよりは、志半ばと言う感じがしていたから・・・・。
 
「ケガのイメージを払拭したい・・・」
オグといえば「あのケガさえなければ・・・」と誰もがそう言って片付けてしまいがちですが、よ〜く考えてみると手術後(2回目の)のオグは、サッカー選手として復帰していたし、たくさんのオグらしいプレーを魅せてくれていた。だけど”小倉隆史”は、こんなもんじゃない!と、衝撃的なデビュー当時を知っている者は思っていた。(自分も含め)それとレフティ モンスター復活=蒼ユニをもう一度身にまといピッチに立つ事!海外のクラブで活躍する事・・・と、勝手に位置づけていたのかも知れない。その日はやってくると信じていたし。
 
小倉自身「・・・払拭するのは、自分の力次第だとも思っていた。そういう意味では、僕の力が足りなかった。それ以上のものを見せられなかったということだと思います」と引退報告インタビューで話している。
 
オグのプレーは、すべてが私のツボだった。ボールの持ち方パスの出し方、独特の”間”・・・すべてが・・・。もう見られないんだぁ〜と思うと悲しいし寂しいしつまらないし・・・切ない!
 
「ケガをしたのも、本当にいい経験をさせてもらったと思っているし、今の自分も嫌いじゃないです」と言えるオグはやっぱりすごいなぁ。
 
第二のサッカー人生を歩みだしたオグ。夢や目標、理想・・・手に入れられなかったものを第二のサッカー人生では、その手につかみ取って欲しい。
 
14年間、お疲れ様でした。そしてありがとう♪
 
*オグの引退にあたって、なかなか折り合いがつけられない方も多いと思います。そんな方は、ぜひ”週間サッカーダイジェスト”(2006.2.28/No.825)の引退報告インタビュー「オレらしく、オグらしく」を読んでみてください。きっと納得するはず。納得せざるを得ない?!^^

 2    J's GOAL/小倉隆史 2005
所属:ヴァンフォーレ甲府(2005.8月現在)
 ポジション:FW 身長:183cm 体重:78kg
 
1973年7月6日生まれ。四日市中央工業3年時の高校選手権で帝京高校と共に優勝。名古屋からオランダへの留学を経て代表入り。将来を嘱望される中、五輪代表合宿中に右ひざの靱帯を断裂する大けがを負うが復活する。その左足の威力から、付けられたニックネームはレフティーモンスター。
 
Q:小倉さんといえばレフティモンスターというニックネームですが、これは10年以上前からでしたよね。
 
 そうですね、ぼくが高校3年の夏からですね。ライターの金子達仁さんがすごい買ってくれていてインターハイのプレーの後に雑誌を見たらついていました。たぶんそれがきっかけだと思います。ちょうど18歳になったばかりの時でしたね。モンスターという言葉に引っかかりましたが「まあええかぁ」という感じでした(笑)。
 
Q:左足といえば小倉さんの代名詞ですが、相手選手からは左足はケアされている。そういう時にあえて左足で行くのか、それとも右で行くのか、というのは状況次第なんでしょうか?
 
 どうですかね。でも小さい頃からずっと左利きできたので、やっぱ相対して相手選手はぼくの左を切ってくることが多かったですね。と言いながら、ぼくドリブルで抜くのは右の方向が多かったですね。ただ、パスとかシュートの時は、左で蹴れるように無理矢理態勢を作ってました。強引に左足のアウトで蹴ってたこともありました。
 
Q:左利きの選手の独特の感覚というのは?
 
 よく言われますけどね。どうなんですかね。左利きの方が有利だとか、ちょっと違う、ということを言われるんですが自分自身が左なので、正直どんな違いがあるのかというのはわからないですね。
 
Q:小倉さんを見ているとイマジネーションのあるプレーとかが出てくるんですが、それは意識されているんでしょうか?
 
 だんだん年齢を重ねるごとにプレースタイルも変わってくる中で、そういう想像力とかイマジネーションとかは持ち味の一つだと思っています。
 
Q:Tシャツキャンペーンで、このデザイン(レフティモンスターのロゴとその中にシルエットが描かれている)にされた理由を教えてください。
 
 何パターンか試作してもらえるという事だったんですがシンプルなんがいいかなと思って、ぱっと思い浮かんだものでした。前にぼくの横断幕を作ってくれたファンの方が言われていたんですが、ぼくって特徴的な動きをしていて、シルエットでわかるらしいんですね。確かにそれを見せてもらったら似てたので、そのイメージで作ってもらおうという事になりました。
 
Q:小倉選手のシルエットの横に文字が入っているんですがこれは?
 
 OGU11。ここはポイントなんですがわからない人には誰もわからない(笑)。「ああっ!なるほどね」という所です。
 
Q:デザイン画の配色は?
 
 何パターンかあったんですが、Tシャツは暑い時に着るものなので、白がええかなと思っいました。ただちょっと派手になりました(笑)。
 
Q:ところでサッカーを始めた時期ときっかけは?
 
 小学校1年生の、確か9月くらいだったと思います。ぼくの兄は4つ上なんですが野球を始めてて、兄とキャッチボールばかりしてました。幼稚園の頃からオヤジと新聞紙を丸めて野球をやるような野球家族だったんですが、野球って4年生からしかできなかったんですね。道具とかの関係で。で、近所に幼なじみの子がいて、その子らがサッカーをするということがあって「じゃあ足腰鍛えるのも野球には大事だから、サッカーやっとけ」ということではじめました。それが小学校1年の時でした。野球のためにはじめたようなものですね。
 
Q:それでのめり込んだ理由は?
 
 たぶんドリブルだったと思います。ぼく小学校3年生の時に6年生と一緒のAチームでやっていて、今聞くとドリブルでひょいひょい抜いていたらしいんですね。昔はウィングがあった時代なのでぼくは左ウィングをやってて、抜いてセンタリングということをやってました。ひょいひょい抜けますし、3年生からAチームでやれているし、ということで自分では楽しくやってましたね。
 
Q:逸話とかはありますか?
 
 いろいろありますよ。6年生の時にキックオフシュートを何本か決めました。小学校の時のピッチって狭いですし、キーパーもよそ見してるじゃないですか。だから2〜3点決めました。
 小さい大会だとチームメイトのご両親とか来られてて、ぼくがあまり点を取るもんやから監督から「隆史もう下がっとけ」ってディフェンスの一番後ろにされたんですが、そこから全員を抜いてシュートを決めたりとか。もう監督は苦笑いしてました(笑)。「もうええわ」みたいな(笑)。
 
Q:楽しくて仕方なかったんじゃないですか?
 
 そうですね、楽しかったです。ゲームするのがとにかく楽しかったですね。
 
Q:挫折感というのはあったんですか?
 
 トレセン、三重県の選抜チームみたいなのに小学校6年から中1になる時に入ったんですが、三重県のうまい子らが集まっているんですが、びっくりしました。ぼく当時リフティングとかものすごく下手で50回もつけなかったくらいだったんですよ。ドリブルで抜いて抜いてシュートとかの実践派だったので、フェイントの仕方もわからないし、リフティングとかもたまにしかやらなかった。だから何回もできなくて「いいや」って感じでした。ところが回りみてたらリフティングの技をするわ、みんな見せてくるわけですよ。「こんなんできるで。お前できるか?」という感じで。で、何にもできへんし(笑)ちょっと劣等感を感じましたね。みんなうまいなぁ。三重県といってもうまいの一杯いるんだなと、思いました。
 
Q:四中工に入った中西選手(現横浜F・マリノス)とはどうでしたか?
 
 永輔は同じ鈴鹿市だったのでライバルでした。デカとチビで。ぼくは小学校の頃からでかくて、白子小学校だったんですが、白子の小倉と、愛宕のキノコカットの永輔ちゃんといって(笑)。小さい頃、チビで毒キノコみたいな…、毒、付けんでいいわ(笑)。キノコみたいな髪型してたんです(笑)。で、めっちゃ早くてすばしっこくて、ライバル関係だったんです。小学校の頃から。
 
Q:で、四中工になってはじめて一緒になったと。
 
 そうですね。
 
Q:四中工の時の思い出は?
 
 楽しかったのは高3のときですかね。高1の時も結構強かったんですが、高2の時にちょっと落ちて、高3の時は強かった。負けた試合というのはたぶん年間10試合なかった。公式戦、練習試合を全部合わせてもほぼ勝ってました。社会人とやっても大学生とやっても勝ったことがあったので楽しかったですね。
 
Q:思い出の大会というとやっぱり。
 
 インターハイと選手権。でかい大会二つですね。
 
Q:選手権では両校優勝でしたね。
 
 複雑でした。絶対に勝つつもりでしたから、市船が負けた時点でやれると思ってましたからね。帝京だったらいいって思ってたら帝京は都会の子で、大舞台に強かったですね(笑)。やっぱ、自分ら田舎の子やったなぁと(笑)。スタート出遅れた、みたいな(笑)。
 
Q:あのときの国立はすごかったですよね。
 
 そうですね。最後の方、一番上の通路にまで人がいましたからね。階段の所とかにもいましたし、どれくらい入ってたんですかね。
 
Q:高校サッカー最高の人出だったのかもしれませんね。
 
 かもしれませんね。めちゃくちゃすごかったですからね。最初ぼくら早めに会場に入るじゃないですか。最初ちらっと見た時にまだ入ってなくて、どうなのかなと思っていたんですが、ピッチに出たらすごくて、それでやられましたね(笑)。ちょっと舞い上がっちゃいましたね。ふわふわってしてしまいましたね。
 
Q:その後、プロからのオファーは?
 
 当時10チームからあったんですが、その中でJリーグからは7〜8チームあって、あとは準会員チームからも何チームか誘ってもらってました。
 
Q:その中からグランパスを選んだ理由は?
 
 海外留学です。ぼくプロって海外のイメージしかなかったので、正直生意気なんですが、ステップアップしやすいだろうなと。プロに入った方が海外に行きやすいだろうと思ったんですね。そこで留学を年単位で行かせてもらえるところはどこなんだろうか、って聞いてみたんですが、グランパスから「1年でも2年でも行ってこい」って。そう言ってもらったんです。それでグランパスに行かせてもらうかなと思ったんです。まあ、契約の中に入ってたわけじゃないんですが、グランパスから口約束で約束をもらいました。
 
Q:実際にエクセルシオールに行かれたんですが、戻ってきた時のインパクトはすごかったですよね。オランダでの経験というのはどうだったんでしょうか?
 
 ぼくは日本人選手の海外移籍する最初の方でした。Jリーグのチームも移籍の事情がよくわからないし、そんなに段取り良く行けた訳じゃなかった。最初の半年はフェイエノールトに練習生扱いで行ったんですが、最初は試合に出られると聞いていた。そしたらビザも取ってないわ、契約も結んでいない。今考えたらアホみたいな話なんですけどね。で半年が過ぎて出られない事がわかった時に、当時のフェイエノールトのGMが広島の監督とかをやってたビム・ヤンセンで「お前の年だったらバンバン公式戦に出た方がいい。ただしフェイエノールトは外国人枠が一杯だから出るのはむずかしい。お前は日本に帰ったらレギュラーで出られるんだろう?だったら日本に帰るか?それとも2部チームのエクセルシオールだったら紹介できるぞ」と言われた。で、エクセルシオールのテスト受けたら監督がOKしてくれてようやくそこがスタートになった。だからいろんなこと、生活のことや、言葉のことも大変だし、行ったらなんとかなるという事じゃないということはぼく以降の人はみんなわかったんじゃないですかね。クラブもそうでしょうし。そうした中で、1年の約束だったんですが、向こうは夏始まりの5〜6月にシーズンが終わるので半年しかやれないという事になった。向こうで点をそれなりに取ってチームからも残ってくれと言われたんすが、一方で名古屋が低迷していたのも知っていた。そういう中、名古屋に「残りたい」と話をしたら「何を言ってるんだ、この状況で」と言われたんです。ただそこでわがままを通させてもらって半年伸ばしてもらいました。おかげでエクセルシオールには1年居させてもらい、シーズンを通して出られたというのは大きな経験になりました。
 
Q:日本に帰ると、代表に選ばれましたね。
 
 びっくりしました。オリンピック代表に入るのは聞いていました。西野さん(アトランタ五輪日本代表監督・現G大阪監督)にも見に来てもらってて、帰ったらすぐにオリンピックの合宿があるのでその用意をしてました。でチームの方に迎えに来てもらって寮から送ってもらう途中でその人に電話がかかってきて「小倉バック。帰れ。代表に入ったぞ」という感じで。「オリンピックとどうなん?」って聞いたら「上だよって」言われて。ファルカンどこで見てたんだ、という感じでした。そんなの入っていいのかなぁと思いながらびっくりしましたね。ただ、経験させてもらうのはいいことだと思いました。
 
Q:フランス戦でゴールを決めました。
 
 大人と子供の試合だったですけどね。でもよかったです。代表で唯一取ったゴールがフランスで。
 
Q:その後96年の2月ですか。ケガをしてしまってね。衝撃的でした。
 
 もう終わったと思いましたね。ヒザが抜けてましたからね。まさかあんな、逆に曲がっていると思ってなかった。ヒザを突いたら足がスコンと落ちてたので、うわー、って思ったんですが、ドクターがポン、って押したら戻った。そこは記憶は曖昧なんですけどね。なんか、叫んでたと思うし、なんかわからないです。
 
Q:そのまま飛行機で日本に帰った。リハビリって人には説明できない領域ですよね。
 
 なんていうんですかね、それはそうなんですが。当事者とすれば起きたことは起きたことでやるしかないんですね。大したことはないとは言いませんが、やるしかないんですね。やるしかないから大変さも何もない。目の前の事をこなしていくしかない。何をできるわけでもない。ギブスで固定しておくだけでも、それを受け入れるしかない。そこで走るわけにもいかないし何もできない。そこで現実を受け止めて、できることをこなして行くしかない。当事者になればやっていくしかない。それだけです。
 
Q:いろんな経験をされていますが、今、10歳くらい若い人たちとやっている。そういう人たちが壁にぶつかった時にアドバイスなどはされるんでしょうか?
 
 期待できる選手には言いますが、それを言ってもわからない選手には言いません。今ある現状を当たり前に思って、その中で自分は何もしてないのにプライドだけは一人前にある。そういうのを見ると腹が立つ。エバっていいのは世界で一番うまい人だけで、そういう人ほどエバらんのやろうけど、それくらいまでになったら多少その気になってもいいと思う。ただ、上には上が居過ぎますからね、サッカーの場合。そのくせ、訳のわからないプライドを出されても、もちろんプライドは持っていていいんですが、変なプライドを持たれても困る。だからサッカー選手をするには純粋で居るのが一番だと思います。うまくなる。プロとしてすごく強くうまくなるためには何をすればいいのか、というところに戻る。そうすればやらなければならない事とか、聞かなければならない事、受け入れなければならない事とかが見えてくると思う。あまりにも目の前の簡単な事ばかりをやり過ぎると根本を見失いがちになる。だから根本を見れば、自ずと答えは見えてくると思います。
 
Q:プロサッカー選手というのは?
 
 いまだにわからないです。プロというものに対してどう接すればいいのか。たとえば仕事だって言う人もいるしお金を稼がなアカン、という人もいる。夢として楽しみたい、という人もいる。どちらがいいと言うことはぼくは言いませんが、その人の考え方がありますからね。節制してきっちりして、普段の生活からきっちりして、というのもそうだろうし、お金のためにやるんだ、というのそうだろうし。
 ぼくおもしろかったのが、エクセルシオールに行った時にグランパスから留学という形で行ってたのでグランパスからお金をもらっていたんですね。「お前はそうかもしれないが、俺たちはお金がかかっているから勝つぞ」って19歳の時に言われて、それはちょっとショックというか、すごいな、と思った。プロってそういう部分もあるんだ。シビアやなぁと思いましたね。
 プロに対するいろいろなとらえ方がある中で、根本にはサッカーというみんな同じ土台があって、何をしなければならないのかというと、FWだと点を取る。守備は守ること。いろんな事がある中で、いい選手になるしかない。いい選手になればいろんな事がつながってくる。そうなるために何をするのかというところに帰ってくる。いろんなものをやっていく、突き詰めていくと、プロフェッショナルというのは元に戻れば楽になる。いろんな贅肉がそぎ落とされて、やらなければならない事が見えてくる。そう思いますね。
 
Q:Jの中でも何チームか移籍されている。その経験の中で得られたものって大きいんじゃないでしょうか?
 
 ケガをした後は、切られながらいろんなチームに行ったんですが、まあ、いろんなチームの中には、ここみたいにクラブハウスがないチームもあったり、ヴェルディとかグランパスみたいな施設が充実しているところもある。札幌みたいな地方では、移動はいつも飛行機という所もある。そのチームごとに気候や土地的なハンディがあったりして、そういうのを見るのもおもしろかった。あとはサッカーをやっていくと輪が広がっていくので、そういう意味ではいろんな所にいていろんな人と出会えて、それは財産になっていますね。
 
Q:そんな中で甲府に入団されるんですが、そのきっかけはメールのやりとりだったと聞きました。
 
 そうですね。ちょうど札幌をやめる時にチームがなかったので、これは大変だと思って海外で試してみようと思ったんです。ところがオランダって組合が強くて最低年棒とか決まっていて、プレーはできるけどそのお金が出せないと言われた。ベルギーとかにも行ったんですが、その時に当時の甲府の監督の松永さんからメールを頂いて。最初はヨーロッパに行ったばかりで断ったんですが、ヨーロッパのシーズンが終わるというタイミングでまたメールをもらったので、一度見に行きます、と。そのやりとりはメールが多かったですが、電話も頂いてました。
 ちなみにパソコンはマックとWindowsと悩んだんですが、Windows98のPCを買いました。今でもそれを使ってますよ。海外に行くと重宝しますね。連絡とかメールでできますからね。海外に行くとメールが待ち遠しくて。届いている時のあのうれしさといったらないですね。寂しかったんですね(笑)。
 
Q:甲府に来た時の印象は?
 
 びっくりしました。初めてのJ2だったし、クラブハウスない。練習場ない。いろいろな所を転々としているというところで、こんなチームがあるんだなあと。その中でひたむきにチームを作っていこうという気持ちは感じられました。こぢんまりとしててクラブとしてまとまっていて、雰囲気いいなぁ、と。試合を見ててもそういうチームでしたね。
 
Q:その中で自分が取り組んでいける事と言うのは?
 
 いろんな経験をしてきて、年齢でも一番上の方でしたが、特別何かをしてやろう、というのはなかったんですね。ただ、いつも声を出したり要求することは要求して、思ったことはどんどん伝えてお互いにそれで高めていければいいと思っています。そのまま自然に要求して、ディスカッションして、よりよい方向に持って行ければいいと思う。それを高いレベルのところで要求する。「後ろに出すんじゃなくて、前を向け」とかね。そういうところでレベルを上げられればいいと思っています。要求することでついてきてくれればいいと思っています。
 
Q:試合からは遠ざかっていますがモチベーションを保つのはどうですか?
 
 大変ですね。いろいろ考えるし、言いたくなる事もある。でもさっきと一緒です。止まってしまったら何もないし、ぼくのやることは決められていて、今も自分自身うまくなりたい。この年になってもね。で何をするかというと普段からいろんなものを鍛えていかないとならないし、高みを目指してやっていかないといけない。そうしないと何も残らない。いじけるだけだったら誰でもできる。ただ、それだと下がっていくしかない。そういうしょうもない事はしたくない。ぼくは監督の下の駒の一つとしてやるだけ。こういう状況でもグランドに入ればやることは一つですからね。だからモチベーション的にきついと言っても、やることは変わらないと思っている。それを披露する場がないだけでね。
 
Q:では最後にサポーターのみなさんにメッセージをお願いします。
 
 半分を過ぎて順位も上の方に居るんですが、残りの試合一つ一つが大事になってくる。今でもたくさんの人にスタジアムに来てもらって応援してもらっているんですが、サポーターのみなさんの後押しが一番だと思うので、ぜひヴァンフォーレを応援してもらえればと思います。選手はみんな一丸となって上位を目指して頑張っているので、残りの試合の応援もよろしくお願いします。
 
J's GOALでのインタビュー
抜粋するつもりが、ほとんど転記!ごめんなさい。自分用覚書なので許してください。(って誰に言ってる?)
 

 3    BAGGIO......... (12/30/03)
アズーリのバッジオ
 
元イタリア代表のベテランFWロベルト・バッジョ(36)が、今季限りで引退すると表明した。来年2月18日で37歳を迎えるブレシア所属のバッジョは、ビチェンツァ、フィオレンティーナ、ユベントス、ミラン、インテル、ボローニャでプレーした。
 
 1982年から1985年までビチェンツァでプレーした後、5シーズンをフィオレンティーナを過ごし、ユベントスに移籍。ユベントスで活躍した後、1995年にミランへ。しかし出場機会に恵まれなかったことから1997年にボローニャに移籍し、22ゴールをたたき出す活躍を見せた。この活躍が認められて翌シーズンにはインテルへ。そしてこの頃、再びアズーリのユニフォームを!という世論が沸き上がった。すでに負傷でキャリアが終わりかけていた2000年に、ブレシアに移った。
 
 1993年のUEFAカップをユベントスで獲得。同年にFIFAの最優秀選手とフランスフットボール誌のバロンドール(欧州最優秀選手賞)を得た。
 
バッジオの凄いところは、例え弱小と呼ばれているチームに置いても自分の存在を表現できるところ。戦力的に落ちていると思われるようなチームであってもファンタジー溢れるプレーで、それを救い貢献できるところ・・・。とかくこんなチームじゃ・・・と言い訳する選手が多い中、どこへ行っても結果を残すバッジオは、やっぱり凄い!
 
ファンタジスタとは、バッジオの為にある表現だと思う。

 4    オグ・・・語録、、、
HPを作って、もう4年・・・相変わらず内容の無い「浅〜い」という表現がぴったりのHP.。4年の間にプロバイダーを変えたせいもあり、過去ログが残っていない。というより残していない!いつも上書き更新。すでにリンク切れになっている過去に製作したページをみていたら、ちょっと感動!・・・そこで、ここに残しておこうと思い・・・。オグが雑誌(たぶんNomberだと思う。。)のインタビューに対してのコメント。
 
この広告ポスターはオグがケガから復帰した時にnikeが出したもの!日本に於いては、サッカー史上過去にも今後も、もう無いと思う。それだけスゴイ選手なんです!レフティモンスター小倉隆史は!!!
 
小倉隆史
「プロのアスリートのヒザにメスを入れるってことは、選手の人生にメスを入れるってこと。
 
日常生活に支障がなくなったらええっていう普通の人の手術とはまるで違うもんやと思うんです。僕はもういい。幸いオランダに人脈があって、手術も完全に成功したみたいやから。でも、これからJリーガーの手術しようっていう日本のドクターには、そのこと、絶対に覚えておいて欲しい」
 
小倉隆史
「静岡のインターハイで味わった、味方の選手だけやない、相手も含めた22人を、フィールド全体を自分の左足1本でコントロールしとったって感覚が、ここに、この足に残ってるんです。あの感覚が左足に残っている限り、僕は自分を信じられる。
 
小倉隆史はこんなとこで終わる男と違うって、心の底から信じられるんです。何でサッカーなんて始めたんやろ、俺って何なんやろって思ったこともありました。でもね、今は自信をもって言えます。一番信じられるのは、結局、自分なんやって。
 
今は、生涯最大の試練に立ち向かって、それを何とか乗り越えようとしている時期や思うんです。いつか“ああ、あの頃はしんどかったな”って笑える日が必ず来るんです」
 
日本で行なわれた最初の手術・・・失敗だったとも、オグが焦りすぎた結果とも言われた。真実は、どちらであっても、「笑える日が来る」・・・来たのかなぁ〜。これから来るのかなぁ〜。来て欲しい!絶対来る!!
 
 
 

 5    小倉隆史/VF甲府快進撃の原動力となった2003年
03/12/14西が丘のオグ
 
昨季(02)、コンサドーレ札幌を退団。その後は、他チームからのオファーはなく、オランダへ渡って移籍先を探った。「渡欧してすぐに英機さん(松永監督)から、誘ってもらった。こちらのシーズンが終わるまで待ってほしいと伝えたら、その考えを尊重してくれた」
 
 その後もメールや電話で連絡を取り続け、帰国後、5月31日の川崎戦で初めてVF甲府を見た。「中止になるかという、大雨の中の試合だった。選手がサッカーに対してまじめで、ひたむきだった。このチームだったら、と思った」と好印象を持った。
 
☆J2には抵抗
 しかし、入団に向けては「正直、『J2』というところに抵抗があった」という。これまでJ1や日本代表といったレベルの高い、常に注目の集まる環境でプレーしてきただけに、クラブハウスや専用の練習場のないチームは「経験がない驚き」だった。それでも「直接、声を掛けてくれたのは英機さんだけ。監督から誘われることはうれしい。何よりも試合に出たかった」と入団を決意した。
 
 6月上旬にチームに合流。デビュー戦で、いきなり先制ゴールを奪う活躍を見せたが、チームに溶け込むまでには戸惑いもあった。ピッチでは声を荒げて足元にボールを要求する小倉の姿があった。「自分が生きるタイプのサッカーじゃなかった。自分の特長を伝えるのに時間が掛かり、周りも迷った。ボールを失うことは良くない。つなぐ必要がある。でも要求したら、どの選手もまじめに応えてくれた」
 
 加入後はほぼ全試合に出場。27試合でチーム最多の10ゴールを挙げた。小倉に刺激され、VF甲府のサッカーは生まれ変わり、チームは快進撃を続けた。
 
☆けがで暗転
 三重・四日市中央工高で全国高校選手権を制覇。卒業後は名古屋に入団し、将来の日本のサッカー界を支える逸材として期待された。左足から繰り出される強烈なシュート、創造性豊かなプレーから「レフティーモンスター」と呼ばれ、Jリーグを代表するスター選手になった。しかし、96年のアトランタ五輪日本代表合宿中、右ひざのじん帯を断裂、選手生命を危ぶまれる大けがを負った。
 
 「どうしても、けがの印象が付いて回った。体調的には問題がないのに、どのチームでも使いたがらず、試合に慣れさせてもらえなかった」。復帰後も出場機会は減り、近年は所属するチームが毎年、変わっていた。
 
 「VF甲府には『場所と責任』を与えてもらった。シーズンを通して使ってもらえたのは、本当に久しぶり。内容には満足してはいないが、今季は充実していた」と振り返る。
 
 山梨の印象を「富士山が見えるし、山に囲まれている景色がきれい。小瀬もアットホームな感じがいい」と語る。VFサポーターについては「どんどん増えていって、魅力のある応援をしてほしい。応援する人が増えるほど、チームも厳しさを求められる。チームもそれで成長する。もっともっと応援してほしい」と期待を寄せる。
 
 来季の動向も気になるところ。チームからは契約の意思が伝えられており、後は自らの判断に委ねられている。「チーム、監督からも熱心に誘われている。ありがたい。まだシーズンが終わったばかりなので、とりあえず休んで、それから考えたい」
 
(参考文章:山梨日日新聞03/12/27付)
 
2004年は何色のユニフォームを着ているんだろう・・・・何色のユニフォームを着ていても構わない。自分が納得できるチームで妥協することなくオグらしいプレーを魅せて欲しい!


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