所属:ヴァンフォーレ甲府(2005.8月現在)
ポジション:FW 身長:183cm 体重:78kg
1973年7月6日生まれ。四日市中央工業3年時の高校選手権で帝京高校と共に優勝。名古屋からオランダへの留学を経て代表入り。将来を嘱望される中、五輪代表合宿中に右ひざの靱帯を断裂する大けがを負うが復活する。その左足の威力から、付けられたニックネームはレフティーモンスター。
Q:小倉さんといえばレフティモンスターというニックネームですが、これは10年以上前からでしたよね。
そうですね、ぼくが高校3年の夏からですね。ライターの金子達仁さんがすごい買ってくれていてインターハイのプレーの後に雑誌を見たらついていました。たぶんそれがきっかけだと思います。ちょうど18歳になったばかりの時でしたね。モンスターという言葉に引っかかりましたが「まあええかぁ」という感じでした(笑)。
Q:左足といえば小倉さんの代名詞ですが、相手選手からは左足はケアされている。そういう時にあえて左足で行くのか、それとも右で行くのか、というのは状況次第なんでしょうか?
どうですかね。でも小さい頃からずっと左利きできたので、やっぱ相対して相手選手はぼくの左を切ってくることが多かったですね。と言いながら、ぼくドリブルで抜くのは右の方向が多かったですね。ただ、パスとかシュートの時は、左で蹴れるように無理矢理態勢を作ってました。強引に左足のアウトで蹴ってたこともありました。
Q:左利きの選手の独特の感覚というのは?
よく言われますけどね。どうなんですかね。左利きの方が有利だとか、ちょっと違う、ということを言われるんですが自分自身が左なので、正直どんな違いがあるのかというのはわからないですね。
Q:小倉さんを見ているとイマジネーションのあるプレーとかが出てくるんですが、それは意識されているんでしょうか?
だんだん年齢を重ねるごとにプレースタイルも変わってくる中で、そういう想像力とかイマジネーションとかは持ち味の一つだと思っています。
Q:Tシャツキャンペーンで、このデザイン(レフティモンスターのロゴとその中にシルエットが描かれている)にされた理由を教えてください。
何パターンか試作してもらえるという事だったんですがシンプルなんがいいかなと思って、ぱっと思い浮かんだものでした。前にぼくの横断幕を作ってくれたファンの方が言われていたんですが、ぼくって特徴的な動きをしていて、シルエットでわかるらしいんですね。確かにそれを見せてもらったら似てたので、そのイメージで作ってもらおうという事になりました。
Q:小倉選手のシルエットの横に文字が入っているんですがこれは?
OGU11。ここはポイントなんですがわからない人には誰もわからない(笑)。「ああっ!なるほどね」という所です。
Q:デザイン画の配色は?
何パターンかあったんですが、Tシャツは暑い時に着るものなので、白がええかなと思っいました。ただちょっと派手になりました(笑)。
Q:ところでサッカーを始めた時期ときっかけは?
小学校1年生の、確か9月くらいだったと思います。ぼくの兄は4つ上なんですが野球を始めてて、兄とキャッチボールばかりしてました。幼稚園の頃からオヤジと新聞紙を丸めて野球をやるような野球家族だったんですが、野球って4年生からしかできなかったんですね。道具とかの関係で。で、近所に幼なじみの子がいて、その子らがサッカーをするということがあって「じゃあ足腰鍛えるのも野球には大事だから、サッカーやっとけ」ということではじめました。それが小学校1年の時でした。野球のためにはじめたようなものですね。
Q:それでのめり込んだ理由は?
たぶんドリブルだったと思います。ぼく小学校3年生の時に6年生と一緒のAチームでやっていて、今聞くとドリブルでひょいひょい抜いていたらしいんですね。昔はウィングがあった時代なのでぼくは左ウィングをやってて、抜いてセンタリングということをやってました。ひょいひょい抜けますし、3年生からAチームでやれているし、ということで自分では楽しくやってましたね。
Q:逸話とかはありますか?
いろいろありますよ。6年生の時にキックオフシュートを何本か決めました。小学校の時のピッチって狭いですし、キーパーもよそ見してるじゃないですか。だから2〜3点決めました。
小さい大会だとチームメイトのご両親とか来られてて、ぼくがあまり点を取るもんやから監督から「隆史もう下がっとけ」ってディフェンスの一番後ろにされたんですが、そこから全員を抜いてシュートを決めたりとか。もう監督は苦笑いしてました(笑)。「もうええわ」みたいな(笑)。
Q:楽しくて仕方なかったんじゃないですか?
そうですね、楽しかったです。ゲームするのがとにかく楽しかったですね。
Q:挫折感というのはあったんですか?
トレセン、三重県の選抜チームみたいなのに小学校6年から中1になる時に入ったんですが、三重県のうまい子らが集まっているんですが、びっくりしました。ぼく当時リフティングとかものすごく下手で50回もつけなかったくらいだったんですよ。ドリブルで抜いて抜いてシュートとかの実践派だったので、フェイントの仕方もわからないし、リフティングとかもたまにしかやらなかった。だから何回もできなくて「いいや」って感じでした。ところが回りみてたらリフティングの技をするわ、みんな見せてくるわけですよ。「こんなんできるで。お前できるか?」という感じで。で、何にもできへんし(笑)ちょっと劣等感を感じましたね。みんなうまいなぁ。三重県といってもうまいの一杯いるんだなと、思いました。
Q:四中工に入った中西選手(現横浜F・マリノス)とはどうでしたか?
永輔は同じ鈴鹿市だったのでライバルでした。デカとチビで。ぼくは小学校の頃からでかくて、白子小学校だったんですが、白子の小倉と、愛宕のキノコカットの永輔ちゃんといって(笑)。小さい頃、チビで毒キノコみたいな…、毒、付けんでいいわ(笑)。キノコみたいな髪型してたんです(笑)。で、めっちゃ早くてすばしっこくて、ライバル関係だったんです。小学校の頃から。
Q:で、四中工になってはじめて一緒になったと。
そうですね。
Q:四中工の時の思い出は?
楽しかったのは高3のときですかね。高1の時も結構強かったんですが、高2の時にちょっと落ちて、高3の時は強かった。負けた試合というのはたぶん年間10試合なかった。公式戦、練習試合を全部合わせてもほぼ勝ってました。社会人とやっても大学生とやっても勝ったことがあったので楽しかったですね。
Q:思い出の大会というとやっぱり。
インターハイと選手権。でかい大会二つですね。
Q:選手権では両校優勝でしたね。
複雑でした。絶対に勝つつもりでしたから、市船が負けた時点でやれると思ってましたからね。帝京だったらいいって思ってたら帝京は都会の子で、大舞台に強かったですね(笑)。やっぱ、自分ら田舎の子やったなぁと(笑)。スタート出遅れた、みたいな(笑)。
Q:あのときの国立はすごかったですよね。
そうですね。最後の方、一番上の通路にまで人がいましたからね。階段の所とかにもいましたし、どれくらい入ってたんですかね。
Q:高校サッカー最高の人出だったのかもしれませんね。
かもしれませんね。めちゃくちゃすごかったですからね。最初ぼくら早めに会場に入るじゃないですか。最初ちらっと見た時にまだ入ってなくて、どうなのかなと思っていたんですが、ピッチに出たらすごくて、それでやられましたね(笑)。ちょっと舞い上がっちゃいましたね。ふわふわってしてしまいましたね。
Q:その後、プロからのオファーは?
当時10チームからあったんですが、その中でJリーグからは7〜8チームあって、あとは準会員チームからも何チームか誘ってもらってました。
Q:その中からグランパスを選んだ理由は?
海外留学です。ぼくプロって海外のイメージしかなかったので、正直生意気なんですが、ステップアップしやすいだろうなと。プロに入った方が海外に行きやすいだろうと思ったんですね。そこで留学を年単位で行かせてもらえるところはどこなんだろうか、って聞いてみたんですが、グランパスから「1年でも2年でも行ってこい」って。そう言ってもらったんです。それでグランパスに行かせてもらうかなと思ったんです。まあ、契約の中に入ってたわけじゃないんですが、グランパスから口約束で約束をもらいました。
Q:実際にエクセルシオールに行かれたんですが、戻ってきた時のインパクトはすごかったですよね。オランダでの経験というのはどうだったんでしょうか?
ぼくは日本人選手の海外移籍する最初の方でした。Jリーグのチームも移籍の事情がよくわからないし、そんなに段取り良く行けた訳じゃなかった。最初の半年はフェイエノールトに練習生扱いで行ったんですが、最初は試合に出られると聞いていた。そしたらビザも取ってないわ、契約も結んでいない。今考えたらアホみたいな話なんですけどね。で半年が過ぎて出られない事がわかった時に、当時のフェイエノールトのGMが広島の監督とかをやってたビム・ヤンセンで「お前の年だったらバンバン公式戦に出た方がいい。ただしフェイエノールトは外国人枠が一杯だから出るのはむずかしい。お前は日本に帰ったらレギュラーで出られるんだろう?だったら日本に帰るか?それとも2部チームのエクセルシオールだったら紹介できるぞ」と言われた。で、エクセルシオールのテスト受けたら監督がOKしてくれてようやくそこがスタートになった。だからいろんなこと、生活のことや、言葉のことも大変だし、行ったらなんとかなるという事じゃないということはぼく以降の人はみんなわかったんじゃないですかね。クラブもそうでしょうし。そうした中で、1年の約束だったんですが、向こうは夏始まりの5〜6月にシーズンが終わるので半年しかやれないという事になった。向こうで点をそれなりに取ってチームからも残ってくれと言われたんすが、一方で名古屋が低迷していたのも知っていた。そういう中、名古屋に「残りたい」と話をしたら「何を言ってるんだ、この状況で」と言われたんです。ただそこでわがままを通させてもらって半年伸ばしてもらいました。おかげでエクセルシオールには1年居させてもらい、シーズンを通して出られたというのは大きな経験になりました。
Q:日本に帰ると、代表に選ばれましたね。
びっくりしました。オリンピック代表に入るのは聞いていました。西野さん(アトランタ五輪日本代表監督・現G大阪監督)にも見に来てもらってて、帰ったらすぐにオリンピックの合宿があるのでその用意をしてました。でチームの方に迎えに来てもらって寮から送ってもらう途中でその人に電話がかかってきて「小倉バック。帰れ。代表に入ったぞ」という感じで。「オリンピックとどうなん?」って聞いたら「上だよって」言われて。ファルカンどこで見てたんだ、という感じでした。そんなの入っていいのかなぁと思いながらびっくりしましたね。ただ、経験させてもらうのはいいことだと思いました。
Q:フランス戦でゴールを決めました。
大人と子供の試合だったですけどね。でもよかったです。代表で唯一取ったゴールがフランスで。
Q:その後96年の2月ですか。ケガをしてしまってね。衝撃的でした。
もう終わったと思いましたね。ヒザが抜けてましたからね。まさかあんな、逆に曲がっていると思ってなかった。ヒザを突いたら足がスコンと落ちてたので、うわー、って思ったんですが、ドクターがポン、って押したら戻った。そこは記憶は曖昧なんですけどね。なんか、叫んでたと思うし、なんかわからないです。
Q:そのまま飛行機で日本に帰った。リハビリって人には説明できない領域ですよね。
なんていうんですかね、それはそうなんですが。当事者とすれば起きたことは起きたことでやるしかないんですね。大したことはないとは言いませんが、やるしかないんですね。やるしかないから大変さも何もない。目の前の事をこなしていくしかない。何をできるわけでもない。ギブスで固定しておくだけでも、それを受け入れるしかない。そこで走るわけにもいかないし何もできない。そこで現実を受け止めて、できることをこなして行くしかない。当事者になればやっていくしかない。それだけです。
Q:いろんな経験をされていますが、今、10歳くらい若い人たちとやっている。そういう人たちが壁にぶつかった時にアドバイスなどはされるんでしょうか?
期待できる選手には言いますが、それを言ってもわからない選手には言いません。今ある現状を当たり前に思って、その中で自分は何もしてないのにプライドだけは一人前にある。そういうのを見ると腹が立つ。エバっていいのは世界で一番うまい人だけで、そういう人ほどエバらんのやろうけど、それくらいまでになったら多少その気になってもいいと思う。ただ、上には上が居過ぎますからね、サッカーの場合。そのくせ、訳のわからないプライドを出されても、もちろんプライドは持っていていいんですが、変なプライドを持たれても困る。だからサッカー選手をするには純粋で居るのが一番だと思います。うまくなる。プロとしてすごく強くうまくなるためには何をすればいいのか、というところに戻る。そうすればやらなければならない事とか、聞かなければならない事、受け入れなければならない事とかが見えてくると思う。あまりにも目の前の簡単な事ばかりをやり過ぎると根本を見失いがちになる。だから根本を見れば、自ずと答えは見えてくると思います。
Q:プロサッカー選手というのは?
いまだにわからないです。プロというものに対してどう接すればいいのか。たとえば仕事だって言う人もいるしお金を稼がなアカン、という人もいる。夢として楽しみたい、という人もいる。どちらがいいと言うことはぼくは言いませんが、その人の考え方がありますからね。節制してきっちりして、普段の生活からきっちりして、というのもそうだろうし、お金のためにやるんだ、というのそうだろうし。
ぼくおもしろかったのが、エクセルシオールに行った時にグランパスから留学という形で行ってたのでグランパスからお金をもらっていたんですね。「お前はそうかもしれないが、俺たちはお金がかかっているから勝つぞ」って19歳の時に言われて、それはちょっとショックというか、すごいな、と思った。プロってそういう部分もあるんだ。シビアやなぁと思いましたね。
プロに対するいろいろなとらえ方がある中で、根本にはサッカーというみんな同じ土台があって、何をしなければならないのかというと、FWだと点を取る。守備は守ること。いろんな事がある中で、いい選手になるしかない。いい選手になればいろんな事がつながってくる。そうなるために何をするのかというところに帰ってくる。いろんなものをやっていく、突き詰めていくと、プロフェッショナルというのは元に戻れば楽になる。いろんな贅肉がそぎ落とされて、やらなければならない事が見えてくる。そう思いますね。
Q:Jの中でも何チームか移籍されている。その経験の中で得られたものって大きいんじゃないでしょうか?
ケガをした後は、切られながらいろんなチームに行ったんですが、まあ、いろんなチームの中には、ここみたいにクラブハウスがないチームもあったり、ヴェルディとかグランパスみたいな施設が充実しているところもある。札幌みたいな地方では、移動はいつも飛行機という所もある。そのチームごとに気候や土地的なハンディがあったりして、そういうのを見るのもおもしろかった。あとはサッカーをやっていくと輪が広がっていくので、そういう意味ではいろんな所にいていろんな人と出会えて、それは財産になっていますね。
Q:そんな中で甲府に入団されるんですが、そのきっかけはメールのやりとりだったと聞きました。
そうですね。ちょうど札幌をやめる時にチームがなかったので、これは大変だと思って海外で試してみようと思ったんです。ところがオランダって組合が強くて最低年棒とか決まっていて、プレーはできるけどそのお金が出せないと言われた。ベルギーとかにも行ったんですが、その時に当時の甲府の監督の松永さんからメールを頂いて。最初はヨーロッパに行ったばかりで断ったんですが、ヨーロッパのシーズンが終わるというタイミングでまたメールをもらったので、一度見に行きます、と。そのやりとりはメールが多かったですが、電話も頂いてました。
ちなみにパソコンはマックとWindowsと悩んだんですが、Windows98のPCを買いました。今でもそれを使ってますよ。海外に行くと重宝しますね。連絡とかメールでできますからね。海外に行くとメールが待ち遠しくて。届いている時のあのうれしさといったらないですね。寂しかったんですね(笑)。
Q:甲府に来た時の印象は?
びっくりしました。初めてのJ2だったし、クラブハウスない。練習場ない。いろいろな所を転々としているというところで、こんなチームがあるんだなあと。その中でひたむきにチームを作っていこうという気持ちは感じられました。こぢんまりとしててクラブとしてまとまっていて、雰囲気いいなぁ、と。試合を見ててもそういうチームでしたね。
Q:その中で自分が取り組んでいける事と言うのは?
いろんな経験をしてきて、年齢でも一番上の方でしたが、特別何かをしてやろう、というのはなかったんですね。ただ、いつも声を出したり要求することは要求して、思ったことはどんどん伝えてお互いにそれで高めていければいいと思っています。そのまま自然に要求して、ディスカッションして、よりよい方向に持って行ければいいと思う。それを高いレベルのところで要求する。「後ろに出すんじゃなくて、前を向け」とかね。そういうところでレベルを上げられればいいと思っています。要求することでついてきてくれればいいと思っています。
Q:試合からは遠ざかっていますがモチベーションを保つのはどうですか?
大変ですね。いろいろ考えるし、言いたくなる事もある。でもさっきと一緒です。止まってしまったら何もないし、ぼくのやることは決められていて、今も自分自身うまくなりたい。この年になってもね。で何をするかというと普段からいろんなものを鍛えていかないとならないし、高みを目指してやっていかないといけない。そうしないと何も残らない。いじけるだけだったら誰でもできる。ただ、それだと下がっていくしかない。そういうしょうもない事はしたくない。ぼくは監督の下の駒の一つとしてやるだけ。こういう状況でもグランドに入ればやることは一つですからね。だからモチベーション的にきついと言っても、やることは変わらないと思っている。それを披露する場がないだけでね。
Q:では最後にサポーターのみなさんにメッセージをお願いします。
半分を過ぎて順位も上の方に居るんですが、残りの試合一つ一つが大事になってくる。今でもたくさんの人にスタジアムに来てもらって応援してもらっているんですが、サポーターのみなさんの後押しが一番だと思うので、ぜひヴァンフォーレを応援してもらえればと思います。選手はみんな一丸となって上位を目指して頑張っているので、残りの試合の応援もよろしくお願いします。
J's GOALでのインタビュー
抜粋するつもりが、ほとんど転記!ごめんなさい。自分用覚書なので許してください。(って誰に言ってる?)
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