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10月18日(火) 夜

「おかえりなさい」
 グロリアが一礼するのを、小柄なシスターは軽く流した。
「めぐみは?」
「もう寝ています。いつも通り」
「でしょうね」
 すでに十時過ぎだ。子供が起きていていい時間ではない。
「七海の……いえ、モーセ・ビアンキの、名目上の母が死んでいました」
 すでにジョルジとは離婚しているので、七海の母ではあるが拓海とは関係がない。というか、紫明の長子は古き聖戦で死んだことになっている。
「区長になってやると日参していた老婆が、きょうは来なかったから何事かと警戒した警備員が警察に届け出たところ、自宅で娘と心中しているのが見つかったそうです」
「最初から警察沙汰にしておけば済んだ話じゃないかと思いますが」
「その手の輩はひとりじゃないそうです。小須戸の賎民どもがいまだに隠れ住んでいるとも思えませんが、新潟市に合併してからどうにも治安が思わしくないもので」
 余所者には関係のない話だ。グロリアは肩をすくめた。
「正直な本音として、あの子が新津で暮らすのに、あの老婆は邪魔になると思っていましたが、イベントを押しつける前に面倒事が消えてくれて助かりました」
「自分の都合だけベラベラ喋ってますね」
 少しだけキツい視線でシスターを見下ろすが、身長より長い十字架を振られる。
「あの子をどう見ました? グロリア」
「強い男のようですね。硬いからこそ折れる、砕ける。そういう男かと」
 頑なに守ろうとするものがあるからこそ、その硬さが死につながる。柔軟でなければ長生きはできないのが戦場だ。
「ひとまず、一日は時間を置きましょう。心の準備をさせる時間は必要でしょうから。そのあとで突き落とします」
 自分が逃げるチャンスを与えたことをグロリアは口にしない。拓海を気の毒に思う気持ちは偽りではないし、そもそも自分もそのイベントに巻き込まれているのが気に入らないのは本心だ。
 何より、今度こそめぐみを守らなければならない。
 グロリアの苦悩を知っているシスターは、小柄な身体で厳かに告げる。
「剣星の死より十数年。その安らかな眠りを妨げることのないよう気を配ってきましたが、あの子が帰ってきたことは主の意志と思いましょう。カエサルの物はカエサルに、正統なる保有者がそれを受け継ぐ日が来たのです」
「意訳すると『面倒だから十数年ほったらかしてたけど都合のいい子が来たから押しつけますわヒャッハー』ですか」
 いい性格だ。洒落は判るが笑えない、のがこの小さなシスターだった。軽くまぶたを押さえたグロリアだが、
「どうしても、ですか」
 めぐみは守る。今度こそ、あの小さな妹を守らなければならない。拓海がめぐみを傷つけるなら殺してでも。どうしてもめぐみが優先なのがグロリアの慈悲だが、拓海に無理を押しつけるシスターの思惑は気に入らない。
 助けられる者は助けたい。それだけの慈悲と意地で三界を制したグロリアに、シスターは軽く笑った。
「別に、あの子の弟にやらせてもいいんですよ」
「……年下には興味がないので」
 星宿の主、剣星の後継者。その大それた肩書に見あう男なのか、見届ける必要はあるだろう。
「綾にも、そう伝えておきなさい。まずは様子見です」
「はい」
 さて、泣くことになるのは誰なのか。慧か、シェリルか、めぐみか、それとも……
争乱教恋譚 本編に続く
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