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History Members 三国志編 第47回
「狂人の真似をして大路を走らばこれ狂人なり」

杜預王済(オウセイ)は馬癖(馬好き)、和嶠(カキョウ)は財癖(財宝収集癖)でゲスね」
司馬炎「じゃ、お前は?」
杜預「左伝癖でゲス」

F「晋書には多くの奇人変人と、それに負けない人数のボンクラがエントリーされている」
全員『じーっ』
F「やかましいわ! えーっと、今回のお題の王戎(オウジュウ)も奇人変人に数えていいひとりだ。云うまでもなく『竹林七賢』のひとりなんだが、実は彼が詠んだ詩が確認できなくてな」
A「ダメじゃん」
F「うん、僕の手と記憶力にも限界があるのを痛感した」
A「いや、お前じゃなくて……というか、王戎って天下統一戦に加わってた武将だよな?」
F「いかにも。豫州軍を率いて武昌攻略にひと役買っている」
Y「南方軍の副司令官扱いか。八王の乱の頃には司徒にもなっていたかと思うが、そんなのが七賢とはなぁ」
F「同じく七賢に数えられる劉伶(リュウレイ)が、建威参軍になったのを除くと酒絡みの記述しかない、とは本人の回で触れたな。その建威将軍が王戎なんだ。天下統一戦では建威将軍・豫州刺史として豫州軍を預かっていたから、実はこの軍中にあのノンダクレがいたとゆーことになる。何をしていたか記述はないが」
A「ぅわ、すげぇ気になるけど本気でどーでもいい」
Y「どっちなんだよ」
F「とまぁそんな具合で、肝心の詩そのものが残っていないのはともかくポエットでありながら、軍を率いては功績をあげ、老いては政治を預かりと、軍・政・文に通じる多芸のひとでな。まぁ、正史三国志や晋書の記述を追うよりは、世説新語でこそ輝いている男ではあるが」
A「歴史的な実像より民間伝承のが大きいンだ」
Y「大岡越前みたいなモンか」
F「テンプレに移るが、出自は徐州瑯耶郡(ろうや)。孔明と同郷だが県はおとなりになる。234年の生まれだ」
A「……あのー」
F「なんだかなぁとは僕も思う。孟達の推挙で幽州刺史となった王雄という武将がいたが、彼の孫にあたる。父の名は王渾(オウコン)といい、お詫びになるが、『私釈』195回の4では同じく天下統一戦に従軍した王渾(オウコン)の子としていたが、同姓同名の違う王渾の子だった。あのヒト223年の并州太原郡(たいげん)生まれだから、別人なのは明らかで」
A「うっかりじゃね」
ヤスの妻「太原の王渾の息子が"馬癖"の王済だったよね」
F「ですね。で、瑯耶の王渾のところに、同僚(尚書郎)の阮籍(ゲンセキ)が訪ねてくることがよくあったンですが、王渾には軽ーくアイサツするだけで王戎のところに行ってしまい、暗くなるまで話し込んでいた、というエピソードがあります」
A「竹林の筆頭格だっけ?」
F「だ。ちなみに王戎は竹林七賢の最年少で、阮籍(210年生)とは親子ほど違うが、王渾に向かって『戎ちゃんと話すのが楽しくて楽しくて。アンタとは比べものにならんくらい賢いねー』とほざくほど、この少年を気に入っていた」
A「そこまでかい」
F「早熟の天才というか神童という奴でな。明帝曹叡が市民に虎を見物させたンだが、檻の中にいるとはいえ怖いモンは怖い。見に来た人々は吼える虎に恐怖を隠さないが、王戎だけは平然としていた」
A「怖がろうよ、そこは」
F「さすがに、爪と牙は折ってあったンだよ。それに気づいたから平然と見物していて、楼閣から高みの見物していた曹叡は『変わった奴もいるな……』と感心している。晋書・世説新語の両方に引かれたエピソードだ」
Y「意外と性格悪いな、曹叡も」
A「あの親であの祖父なんだから、意外でもないと思うが」
F「ただ、晋書では『年六七歳(王戎が6歳か7歳のときのこと)』とあるンだ。数えで6歳としても239年だから、この年の正月一日に死んでいる曹叡が、こんなことをできるはずがない。本当に曹叡がしでかしたならもっと早くなるから、虎を怖いと思わないトシで見に行ったンだろうな、と。ちなみに、阮籍のエピソードは15のときだ」
A「249年だと……ああ、仲達のクーデターがあった年か」
F「クーデター云うなっての。そんな王戎が官途に就いたのは鍾会の『裴楷(ハイカイ)は万事に精通し、王戎は口を開けば淡白ですが、発言は要を得ています』との推挙による。時期は不明だが推挙した相手が司馬昭なので、司馬師の死んだ255年以降だろうと推察できる」
A「ハタチ回ったくらい……まぁ、妥当なラインか」
F「ちなみに、この頃すでに王渾は亡かったらしい。黄門郎から始まって地方の太守へと昇進を続けたが、荊州刺史になったときにトラブル発生。官吏を使って自分の邸宅を整備したせいで『役職を悪用して私腹を肥やした』と弾劾されたンだ。免官されそうになったものの、曹叡・鍾会の肝煎りではそうもできず罰金刑で済んでいる」
A「まだ魏の時代だモンなぁ……」
F「かろうじて、だがな。蜀討伐に際して鍾会に意見を求められた王戎は『天を頼るな、自分で動け』という老子の言葉を引用し『勝利するのは難しくなくとも、それを保つのは難しいでしょう』と応えている。彼の末路は周知の通りで、人々は王戎の見識を称賛したという」
A「いや、けしかけてどーすんのさ」
F「まぁ、鍾会の末路を予見していた者は少なくなかったしな。晋書での記述は天下統一戦に飛んで、羅尚(ラショウ)を先鋒に武昌(ぶしょう)へ攻め入り、守将の楊雍江夏太守の劉朗、牙門将孟泰らを降している。この功で侯に封じられ六千戸を得た」
Y「呉の副都を攻略した功が、高く評価されたワケか」
F「で、荊州刺史だった経験を買われてか、呉領の戦後統治にも当たっている。孫休に取りたてられた石偉(セキイ)は孫皓の代に官職を辞していたが、王戎は自ら彼のもとに赴いて気を遣い、司馬炎に推挙した。この件は本人が固辞したのでうまくは行かなかったものの、荊州の士人は王戎に心を寄せたとある」
A「ここはむしろ、石偉をほめるべきところじゃないかな」
F「この頃から王戎の評価は下がり始める。母が死んだので一度官職を離れたが、司馬炎が死んで楊駿(ヨウシュン)が天下を牛耳るようになると、皇太子の世話係に任じられた。その楊駿が死んでも連座せず、光禄大夫、次いで中書令と昇進している。だが、274年に布告した官吏登用制度は『こんなバカなモンやってられるか!』と弾劾された」
A「何したンだよ……」
F「具体的にどんなシステムかは書いてないのでよく判らん。だが、皇后賈南風に通じていたし、娘婿は張華に通じているしで、官職から干されることはなかったンだね。むしろ司徒まで昇進したが、賈南風の失脚後、その娘婿が張華に連座して殺されたので、さすがに免職されている」
Y「まぁ、仕方ないだろうな」
F「ところが、司馬冏(シバケイ)と司馬倫(シバリン)が敵対すると、司馬倫のブレーンの孫秀(ソンシュウ)が王戎を呼び戻している。これが301年のことで、杜預・王濬・王渾・胡奮・賈充・張華のいずれもすでになく、天下統一戦の将帥クラスで生き残っていたのは王戎ただひとり。国の元勲と呼ぶにはやや心許ない男ではあったが、他にそう呼べる男はいない」
A「その辺りの人名は入り乱れすぎてよく判りません」
Y「アホはさておいて、頼れるのか?」
F「そこなんだよなぁ。孫秀に向かって『あんな奴あてにできますか!』と訴えたヒトがいて、司馬倫も王戎を用いなかった。そのため、司馬倫・孫秀が司馬冏に負けても連座せずに済んでいる」
A「ぅわ……」
Y「軽んじられたから味方しなかった、ために殺されずに済んだ、か。運がいいのか悪いのか」
F「運じゃない。司馬冏から意見を求められて応えれば『漢・魏の頃からお前のやり方が通じたことがあったか!』と罵られたので、宮廷から身を退いたンだ。ために、302年に司馬冏が死んでもやっぱり連座しなくて済んでいる」
A2「……疫病神?」
Y「天下が見えていないのか、見えているのか。コイツ絶対失敗するなと踏んで、自分から離れようとしたようにも思えるが、頼りにはされても意見は聞き容れられないのか」
F「お前は頭を使わずに戦争してろ、とでも思われたのか。それだけに、司馬衷(シバチュウ)が司馬穎(シバエイ)を討つべく北伐の軍を起こすと、王戎も従軍している。負け戦で身辺に敵兵が迫っても平然としていて、慌てるそぶりは見せなかったという」
A「虎でも敵でもどんと来い、みたいな」
Y「いい根性だったことは認めねばならんな」
F「304年に司馬衷が長安に移ると、王戎は身を退いて出奔。親しい客と歓談しながら余生を過ごし、翌305年に死去している。享年は72、割と波乱な人生だったが『高官に在職しても能力はなかった』と酷評されている」
A「……とことん反応に困るな」
Y「歴戦の勇者ではあろうし、地方官を歴任し中央でも官職を得ていたのは判る。だが、いずれにも才はなかったな」
F「そう云わねばならんだろうねェ。器用貧乏というか、各方面に才があっただけに各方面で用いられ、それでいて誣告されて身を退くはめになっている。まぁ、そのおかげで結果として助かっているンだが」
A「命あっての何とやらか。世渡り上手で長生きしたってところかな」
Y「アキラ」
F「あっはは。僕は不器用なタチだからねェ、長生きできないのも当然だよ。さて、最初に云ったが王戎は、史書でのはたらきより世説新語でこそ、その複雑な心境が明らかになっている。割と数は多いンだが、雅量篇と倹嗇篇がメインだ。ちなみに、倹嗇篇収録の9篇のうち、4つが王戎に関するオハナシ」
A「けんしょくって?」
F「吝嗇とも云うが、要するにどケチ。親族が結婚したときに衣を一枚贈ったンだが、その親族が離婚したら『せっかく祝ってやったのに何だ!』と怒鳴りつけて代金を請求している」
Y「それはまずかろう。いや、結婚祝いが服一枚ってのがそもそもまずいが」
F「自分の娘の嫁いだときも、数百万金(晋書では数万金)を貸したけど御祝儀じゃなかったからねェ。娘が里帰りしてきてもいやそーな顔をしてて、察した娘が金を返すと喜んで歓待したとか」
A「お前、何やっとンね」
F「雅量篇と倹嗇篇とで、本人の成長ぶりが見られるエピソードがあってな。まず雅量篇。7歳のとき、道端にスモモの木があって、枝が折れそうなほど実がなっていた。子供たちが競って実を盗るのを、王戎は冷ややかに眺めている」
A「李下に冠をたださず?」
F「いや、『道端でこんなに実が残っているンだから、この実は苦いに決まってる』との判断。実際に、苦い実だった」
A「あらら……」
F「それから数十年してからになるが、王戎は、自分の庭でとれた甘いスモモを売っていた。だが、買って行ったひとがこのスモモを栽培したら大変たいへんと、錐で種に穴を開けて発芽しないようにしていたという」
A「成長じゃなくて堕落じゃね?」
F「身分は高くしかも金持ち、所有する財産は洛陽で並ぶ者がなかったという、石崇(セキスウ)や王ト(オウガイ)はどーしたな記述もある。だのに本人はまだ足りないと、夜毎妻とソロバン片手に証文を計算していたという。人々は『王戎の病気は膏肓に入ってるぜ……』と噂しあっていた」
A「和嶠やらいう奴の財癖がどれほどのものか判らんけど、この連中には及ばんだろうなぁ……」
F「ともあれ、魏の末期から晋の終焉近くまで生きた王戎は、確かに竹林七賢とは思えない人生を送っている。世事から離れて現実逃避するニート集団とは隔した生涯だと、本人も自覚していたらしい。ある竹林を通りかかったときの述懐が晋書に引かれている」

「私はかつて、嵇康(ケイコウ)殿や阮籍殿がここで酒盛りしていたときに、末席に加えていただいた。すでに嵇殿も阮殿も亡く、私は時流に流される生き方をしている。竹林は目の前だというのに、はるか遠くの山河のように見えるよ」

Y「劉伶とは違って世捨て人にはならなかったワケだな。しかも、それを悔いている」
F「繰り返している通り、魏の末期から晋にかけては、後漢末よりタチが悪い混乱期だった。何しろ曹操劉備もおらず、まっとうに天下を治められる器の持ち主は異民族。先が見えない時代だけに、野心家の刃に倒れる嵇康みたいな例もあった。ために、劉伶は酒におぼれて無害な人物を装い命を永らえている」
A「王戎はそうしなかったワケか」
F「うむ。王戎は官職について有能な俗人としてふるまい、ある程度の権力を握ることで自分を守ったンだ。それでも猜疑の眼が向けられていたようで、逃れるために選んだのは倹嗇という手段だった」
A「素じゃないのか?」
F「素なのか演技なのか判らんエピソードがあるンだ。父の王渾が亡くなると、王渾(もと涼州刺史)の部下たちが香典を持ってきた。数百万銭を数えた香典を、王戎は受け取らなかった」
A「でもそれ、若い頃だよな?」
F「ところが、天下統一後になって、南郡太守が賄賂を送ってきた。なぜかそれが宮廷に知られて弾劾されたのに、王戎が受け取らなかったことが発覚したモンだから、司馬炎は『王戎がそんなことするはずないと思ったンだよ……』と群臣にのたまっている」
Y「……あの男が、家臣をよく知らなかったのか、それとも王戎はそういう奴だと思っていたのか」
F「そこで注目したいのが、王戎の母が死んだときのエピソードだ。同じ頃に"財癖"和嶠の父(世説新語では母)も亡くなって、ふたりはそれぞれ官職を辞して喪に服していた。司馬炎は、家臣にふたりの様子を見に行かせた」

司馬炎「どうだった?」
劉毅「はい。和嶠殿は祭礼の定めにのっとって、食事を制限して悲しんでおります」
司馬炎「じゃぁ王戎は?」
劉毅「王戎殿は、肉をむさぼって酒を呑み、碁を打っておられました」
司馬炎「……和嶠が心配だな。度を越した祭礼をしないよう、注意してきてくれ」
劉毅「お言葉ですが陛下、それなら王戎殿を気遣われますよう」
司馬炎「なんでさ」
劉毅「和嶠殿は心身ともにしっかりしています。ですが王戎殿はやせ衰え、喰っては吐き呑んでも吐き、杖で立ちあがるのもやっとの様子でした」
司馬炎「なんでさ!? ちゃんと喰って呑んでるンだろ!?」
劉毅「それくらい、御母堂の死を悲しんでおられるのですよ」
司馬炎「……あー」

狂人「司馬炎は医者を送って治療させ、群臣に『アイツが気を遣っちゃまずいから見舞いにも行くな。治療に専念させろ』と布告している。正直、僕には判らん心境だが、『雅量』とは『人柄が上品な様子』な」
A2「……ノンダクレ、じゃなかった?」
F「自己申告はよそうね。王戎が吝嗇を売りにしていたのは、演技だったと考えていい。劉伶は酒でもって身を守り、嵇康は身を守れなかった。竹林の先人たちを見ていた王戎は、悪評をいとわないことで身を守ったワケだ。母の死を悼む過度な慟哭も、その一環としてのパフォーマンスだったのかもしれん」
A「いや、それは素直に悲しんでたと思おうよ」
Y「そんなに悲しむなら、世俗から離れてしまえばよかろうに」
F「それができなかったのは阮籍の言葉だろう。例の竹林で酒盛りしていたある日、王戎が遅れて顔を出した。それを見た阮籍は『俗物がやってきたせいで気分がブチ壊しだ』と、お前は"こっち"に来るなと発言しているンだ」
A「……どう応えた」
F「王戎は『皆さんの気分は俗物くらいで壊れるものでしたか』と応えている。その後の王戎伝に阮籍の名は、先に見た述懐シーンでしか出てこないが、王戎が阮籍らのところに行けなかったのは本人が自供している通りだ」
ヤスの妻「交わしていたのは酒と言葉だけじゃなかった、ということかな」
F「ですね。何しろ王戎伝には『阮籍はほとんど呑まなかった(籍以酒少)』と書いてあるくらいですから。竹林七賢に数えられながら、とてもそうとは思えない人生を送った王戎。まぁ、詩が残っていないのも無理からぬことだったな、と」
A「仕方ないねェ……」
F「ところで、和嶠について。司馬炎が『晋王朝は何代続くか』と占わせると『一代です……』と出た。群臣が顔色を失う中、『一は万物の根幹となる数で、全ての数は一から生じるのです』と禅問答みたいなことをのたまってフォローしたのが裴楷だった。だが、晋の王族のボンクラぶりは誰の目にも明らかでな」
Y「息子の司馬衷はかなりのアホだったな」
F「司馬炎はある日、和嶠に『このところ、息子が立派になってきた。ちょっと様子を見て来てくれ』と命じた。見に行って戻ってきた和嶠とのやりとりがある」

司馬炎「どうだ、分別がついただろ」
和嶠「いえ、バカのままですね。これじゃ晋王朝は終わりですよ」

A「正直な心ってのは大事なものだから、普段はなくさないようにしまっておこうよ!」
F「ために、司馬衷が即位すると、和嶠は御前に呼び出されている」

司馬衷「おい和嶠、ボク様が皇帝になっても晋は治まっているぞ。パパ様に向かってボク様をけなしたからには、処罰は覚悟できてるだろうな?」
和嶠「ご自由にどうぞ」
司馬衷「え?」
和嶠「いま陛下が私を罰するのは、当然のことです。本来私は、陛下を批判したときに先帝に罰せられるべき立場でした。ところが先帝は私を許された。あのような皇帝を掲げたのは国の幸いでしょう」

F「こちらの"財癖"も演技だったと、考えてよさそうだ」
A「これだけの男たちを抱えておいて、それを使いこなせないようでは国も滅ぶか……」
F「続きは次回の講釈で」


王戎(おうじゅう) 字は濬沖(しゅんちゅう)
234年〜305年(あまたの困難を乗り越えての大往生)
武勇4智略2運営5魅力1
徐州瑯耶郡出身の、晋の武将。「竹林七賢」のひとり。王衍のおじ。
倹嗇をもって動乱の時代を生き抜き、天下統一戦を勝ち抜いた将帥クラスではいちばん長生きした。

和嶠(わきょう) 字は長輿(ちょうよ)
?〜292年(司馬衷には殺されなかった)
武勇2智略2運営4魅力2
豫州汝南郡出身の、晋の文官。世に云う"財癖"。
祖父譲りの硬骨な生き様で煙たがられながらも重宝された。

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