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History Members 三国志編 第33回
「成帝国一代記 ―我永久にハチミツを愛ス―」

F「『真・恋姫†無双 萌将伝』のオフィシャルサイトで、何枚かCGが公開されているが、そのなかのいちばん上、横長の一枚が気になった」
Y「よく見るとババアどもしか他国の武将と交流していないアレか」
F「うん、君主たちさえ目線が合っていないアレだが、何人かチョコバナナ食べてるのが気になってな。『真・恋姫』本編で『バナナがあるならほしい』みたいな発言があったのはどうなったンだろう、と」
A「……爆弾発言はさておいて、云われてみればンなこと北郷くんが云ってたねェ」
F「まぁ、気になっただけなんだが。さて、僕の尊敬する加来耕三氏が、北の公孫一族……といってもコーソンさんではなく、遼東系の公孫度を数に入れて『客観的にとらえると三国鼎立というよりは、先の公孫氏を加えて四国鼎立、つまり、"四国志"とするほうが史実に近い』としているのは常々触れている」
Y「厳密に云えば『鼎立』ってのは鼎の足だから、みっつより多かったり少なかったりするとずれるンだがな」
F「……まぁ、そうだな」
Y「いや、云ってみただけだ。気にすんな」
F「うん。この辺りの事情について、坂口和澄氏は、出典はちょっと失念したがこの"四国"に南の士燮を数に入れていてな。交州における士一族の勢力は確かなものだったから、そう考えることもできるが」
A「お前としては否定的な見解か」
F「交州は何しろ遠すぎた。長江までさえ遠いというのに天下を賭けての争いには加われん。加えて、士燮本人に天下を望む意思があったのかといえば、まずなかっただろうとしか云いようがない」
A「天下を望む意思があったのか……でいえば、公孫淵も疑わしいがな。アレは、魏が権限を黙認していれば呉についたりしなかったはずだから」
F「それに、場所が燕では遠すぎるというのも事実だ。その辺り『拠点が中原に近いかどうか』と『群雄当人に天下への意思があったか』を考えると、やはり公孫淵や士燮では脱落という気がしてならない。董卓のように洛陽から長安に遷都して強引に"中原"を西にずらす、なんて真似をしでかすのもどうかと思うが」
Y「それを云ったら、天下二分にせよ三分にせよ、天下を増やして中原を無力化するという強引極まるモンだぞ」
F「だったな。ともあれ『天下への至近距離』と『天下への野心』を併せ持ち、曹操司馬仲達さえやらなかった(できなかったとは云わない)皇帝への即位をやってのけたのが、今回のお題の袁術陛下にあらせられる」
A「だから、何で敬語なんだって……」
F「何となく。袁術、というか袁家の本籍は汝南郡(じょなん、豫州)で、周知のように四世三公と云われる名門の出自だ。だが、以前『袁紹関連家系図』で指摘した通り、この血筋は袁紹・袁術の高祖父(祖父の祖父)にあたる袁安(エンアン)によって後漢時代に端を発したと云っていい。袁安から四代続けて三公は出しているが、実は歴史のある家ではない」
A「権力はある、名声もある、だが歴史はない……か」
F「うむ。漢の高祖劉邦に旗揚げから従っていた夏侯嬰の末裔たる曹操や、そもそも皇族の劉備劉表とは、純粋な家柄でははるかに及ばないンだよ。孫堅に至っては『孫武の末裔なんじゃね?』と、万が一事実だったとしても家柄としてはどうかと思える記述しかないから、そっちよりはまぁ上だが」
A「武将としての名声には影響があるンじゃね?」
F「袁家に歴史はないが、権力はある、名声もある、勢いもある。ために、いち時期は中原の動静を左右していた。"天下"を左右した董卓でも『二袁と劉表と孫堅さえ殺せば天下は俺の物になる』と云っていたくらいで、その董卓死後の戦乱の時代をリードしたのは二袁の兄弟だった」
A「兄弟だっけ」
F「違うというオハナシも正史にはあるが、いちばん説得力のある説を『私釈』から通している次第だ。袁安の孫の袁湯(エントウ)には4人の子がいたが、そのひとり袁逢(エンホウ)の、庶子が袁紹で嫡子が袁術になる。ふたりは腹違いの兄弟だったが、袁逢の兄の袁成(エンセイ)が早死にしたので、袁紹がその家督を継いだ。で、気がついたら世論は袁紹に流れていた」
Y「正史での袁家は、基本的に袁紹系を指してるからなぁ」
F「なぜそうなったのかは、立場の差が大きいだろうな。党錮の禁で社会的・経済的に困窮していた清流派士大夫を、何顒(カギョウ)を通じて袁紹が援助していたンだ。対して袁術は、後漢の太尉だった陳球(チンキュウ)の甥の陳珪老を味方につけようとしたように、名門同士のつながりを意識している」
Y「そうなると、袁術は不利だわな。何しろ、そもそもの名門は董卓に与するか、与するのを拒んで殺されるかだ」
F「そゆこと。袁紹ら諸侯が反董卓連合を結成すると、長安にあった太傳の袁隗(エンカイ)、つまり二袁の叔父(袁逢の弟)ら袁氏一門が皆殺しになっている。このとき『当時の群雄は袁紹に味方していたが、彼のために復讐を誓った』とあってな」
Y「優劣がはっきりしていたワケか」
A「しかし、袁隗とかの一族を逃がす余裕はなかったのかね?」
F「その件については、二袁の認識の甘さが響いているンだ。実は、并州刺史の推挙を受けた董卓を朝廷に受け入れたのは、当時は司徒だった袁隗でな。まさか大恩ある袁隗叔父を殺すまい、とタカをくくっていたらしい」
A「……驚愕すべき人間関係」
F「ちなみに、ふたりとも生年の明記がなく実年齢は不詳。袁紹はまぁ曹操と同じくらいと思われるが」
A「袁術はそれより少し下くらい、か」
F「ともあれ、それから董卓が死んだことで、後漢末の戦乱は激しさを増していく。以前触れた通り、董卓にとどめを刺されたかに見える劉氏の王朝にどう接するべきか、で群雄たちは大きく三派に分かれた。あくまで佐弼しようとする保守派と、棚上げして名族による支配体制を目論む改革派、そして革命派だ」
A「旧来の権威にすがる曹操、自分たち名族による代理統治を求めた袁紹、完全に劉氏を否定する袁術……だったな」
F「ところが、朝廷における袁術派、正確には袁家本流は壊滅し、その遺徳は袁術ではなく袁紹に流れた。後漢書には『連中はこのワシに従わず、我が家の奴隷に従うか!』と、袁術が袁紹をどんな目で見ていたのか判る台詞が見えるな。ために、袁術が頼ったのは旧来の勢力者ではなく、正規の権力によるバックを失っていた孫堅ら下々の出の者たちだった。袁術というよりは袁家のネームバリューに惹かれて成り上がりを試みた者たちだな」
A「出鼻をくじかれたかたちか」
F「そもそも董卓が『劉氏のタネは残すにあたわず』と取って代わろうとして失敗したのは、諸侯はもちろん宮中の支持を得られなかったことが大きい。ブタ殺しの何進が除かれたように、涼州のイナカ者に従うを是としなかった者が多すぎたワケだ」
Y「袁術の方向性は董卓に近いが、スタートははるかにマシだったワケか。袁家のネームバリューはあったからな。問題は、それを活かせなかったことだが」
F「そうなる……。宮中を脱した袁術が拠点としたのは荊州の南陽郡(なんよう)だったが、ここの太守を孫堅が殺したモンだから、袁術は南陽を抑えることができた。で『袁術は贅沢三昧、欲望のまま際限なく税を取り立て、人々は苦しんだ』ワケだ」
A「正直なオハナシ、『俺は誰かの子孫だぞ!』と嘘をつく輩の方が、本当に血を引いていながら何もなせなかった奴よりマシじゃないかとアキラは思う」
F「受精卵はそれ自体で血液を作れるから、血を引くって表現は生物学的にどうかと思うがな。ちなみに、後漢書の記述では劉表が朝廷に袁術を南陽太守とするよう上奏しているンだが、その劉表が荊州に入るのを阻んだのが袁術だ」
A「お前、何やっとんね!?」
F「そこで劉表が何をしたのか、はさておいて。袁術は、豫州に孫堅を、揚州に陳瑀(チンウ)を送りこんで支配下にとりこもうとしている。豫州では相手が周喁(シュウギョウ)だったからうまく行きかけたンだが、ここでボケをかました奴がいた」
A「誰だ?」
F「袁術本人だ。曹操領に攻め入ってあっさり返り討ちにあってな。これに先立って、中原に出るなら袁術の背後にあたる荊州を治める、袁紹と組んでいた劉表に孫堅を差し向けたところ、孫堅が戦死してしまう。起死回生でも狙ったのかもしれんが、最大戦力を欠いた袁術軍では曹操には勝てない」
Y「荊州入りの一件のせいで袁術に好意的なはずがないから、攻める順番としては間違ってないが、そもそもやっていることが間違っていただろうに」
A「恩を仇で返されたワケだからなぁ……」
F「寿春(じゅしゅん、揚州治所)に逃げ込んだ袁術は、今度は孫策を使って周昂治める九江郡、次いで陸康治める盧江郡(ろこう)を攻略し、揚州北部(長江北岸)における支配権を確立した。続いて食指を伸ばしたのは、陶謙の死後に劉備と呂布が奪いあっている徐州でな。揚州南部は孫策に任せ、自分でそっちを担当していた」
A「微妙な展開だったよな、演義だと」
F「正史でも似たようなモンだ。まず劉備が迎撃に出ると、袁術と組んだ呂布が本拠地を奪う。戦闘中だったもののそれではまずいと劉備は、いったんは呂布に降るも曹操の下に逃げ込んでしまったので、袁術が得たのは徐州南部の広陵郡だけだった。この地は、ちょうど戻ってきていた呉景に任されている」
A「その気前の良さを、孫策にも披露していれば……」
F「んー、袁術には袁燿(エンヨウ)という息子はいたンだが、コイツに関する記述は『逃げた、捕まった、(孫家に)仕えた』くらいしかなくてな。まぁボンクラだったと考えてよさそうなんだ。だから『孫策みたいな息子がいればなぁ』というのは本心だっただろう、というのは前にも触れた。それだけに、孫策には父として接していたンだろうな、と」
Y「嫌な父親だな」
F「あいにく、生まれてこの方いい父親なんて、泰永の父親くらいにしかあたってなくてな。他の親はどんなだったかといえば、そんなだったとしか経験がない。僕が何か成功したら親が偉い、僕が稼いだらそれを取り上げる、それでいて『親に感謝しないゴミは死ね』と常時暴力をふるう親だが」
A「……親のいないアキラには何とも」
F「いない方がいい、というのが僕の結論だからなぁ。もちろん、僕はアイツらとは違うから、自分の結論を子に押しつける真似はしないけど。それはそうと、袁術の性格を語る際に欠かせないのがミカン話になる。陸康の息子の陸績が6歳のとき、招かれて袁術のもとを訪ねたンだが、お茶請けに出されたミカンを懐に3つ隠して退出しようとした」
A「ところが、懐からおみかんがころり」
F「袁術が『おやおや、陸家の坊ちゃんは、ヒトに招かれた席でミカンをパクるのか?』とからかうと、陸績は恐縮して『母に持ち帰ってやろうと思ったのです』とお返事。袁術は、並の子ではないと陸績に感銘したという」
Y「元代に編纂された『二十四孝』のひとりに数えられるエピソードだな」
F「ミカンの木が小さいうちに伐とうとしたのか、陸康が孫策に攻め殺されたのはこの翌年のことだった」
A「そういうところを気づくなよ!」
Y「井原西鶴がお前を知っていたら『本朝二十不孝』を、ちゃんと親不孝20人で締めくくったのになぁ」
F「ラストが孝行話だからなぁ、アレ。ともあれ、袁術はある程度以上の勢力を築き、董卓の死後に長安を牛耳った李・郭は袁術を左将軍に任じて手を組もうと画策したこともある」
A「なりふり構わんね、アイツらも」
F「ところが、献帝が長安を脱したものの、李・郭から追撃され大敗した195年。ついに袁術は天下への野心を暴露する。配下を集めると『劉氏が衰退した今、四世三公にして人望あふれる袁家のワシが、天命と人々の期待に応えたいと思うが、どうじゃ』と諮問したのね」
A「やっちまったよ……」
Y「天命はさておいて、誰がどんな期待をしてるンだ?」
F「これに先立って(ただし、年代の明記はない)、さっきも云ったが陳珪老に『私が大事を成すときには、ご協力いただけるのでしょうね』という書状を送っている。これに陳珪老は『死んでもイヤじゃ』と応えてな」
A「あのじいちゃんはあのじいちゃんで、態度がどうかと思うンだが」
F「それだけに、配下の閻象(エンショウ)が『献帝は殷の紂王(暴君の代名詞)に及ばず、袁家も(殷を滅ぼした国)に及びません』といさめたので、この場では沙汰止みになっている。ところが『袁術は押し黙って不機嫌だった』と見てきたような記述があり、この2年後、ついに袁術陛下は皇帝を御僭称あそばされた」
A「ときどき、そんな口調で喋ってたら親が怒るのは当たり前じゃと思うンだ」
F「この世はすべて絵空事。三国時代約100年のなかで、世襲・禅譲に依らずに皇帝となったのはわずか3名。その意味では曹丕司馬炎を凌ぎ、劉備や孫権に肩を並べた偉業と云っていいのだが、問題は、陛下のお国はこの二名にも及んでおられなかったことでな」
Y「とりあえず、敬語やめろ」
F「うん、そうする。袁術陛下は『ワシの家はより興り、五行の運りにかなう。また、予言書に"漢に代わる者は当塗高なり"とあるが、そりゃワシのことじゃ!』と主張した。この"当塗高"は『塗(みち)に当たって高いもの』で、袁術の字は公路、『ワシの名も字も"みち"じゃからな!』ということらしい」
A「世にバカ者のタネは尽きまじ……」
F「陛下は、皇帝としての権威を確かなものにしようと、公卿を設置し祭礼を行った。そこまでは……まぁいいかどうかはさておいて、贅沢は南陽時代からさらに激しくなって『後宮の女たちはドレスを着飾り、宮中に米と肉はあり余った。のだが、士卒は飢え、彼の支配域である長江から淮水にかけての地域には何もなくなり、人々は互いに喰いあった』という記述が」
A「みぎゃーっ!?」
(ばたーんっ!)
ヤスの妻「アキラの鳴き声が聞こえたよ!?」
F「退場!」
三妹「いい加減にしなさいよねっ!」
(ずるずるずる……ばたんっ)
Y「失礼しました」
A「ふーぅっ……いや、ホントに」
F「袁術を悪く云えば『勘違いしたオヤジ』でな。袁家だから皇帝になってもいいのだ、みたいな考えで動いて、周りがそれに従うと思っていた節がある。人心を失っていたのは云うまでもないが、配下の忠誠も得られず、曹操に打ち破られたあとに、配下に収めていた山賊あがりの雷薄らのところに逃げ込もうとして、拒否されているンだ」
A「部下にも見捨てられるのは相当だよなぁ」
F「ここで注目したいのは、劉備と戦うも呂布に仲裁されて引き揚げた紀霊でな。軍を預かっておきながら何の成果も出せなかったに等しいこの男は、正史ではこのあとどうなったのか明記がない。袁術が皇帝になると大将軍に任じられた張勲でも、袁術を見捨てて孫策のところに逃げ込もうとしている辺り、推して知るべしという奴じゃないかと」
A「……処断された、か」
F「陸績や孫策への対応を見ていると、目下の者がどんな考えなのかが読めない一方で、危険視したらちゃんと手は打っているからな。ために、危機感を募らせた配下たちは次々と離反し、どうしていいのか判らなくなった袁術は、帝位を袁紹に送って保護してもらおうと青州に向かう途上で死んだ」

「漢王朝は天下を失い、皇室の実権は曹操の手に落ち、天下は乱れております。これでは周末期となんら変わらず、いずれは強者が群雄を統合するでしょう。袁家が天下を得ることは(私が受けた)瑞兆に示されてます。兄者は四州を支配し、その強さは比類なく、徳においても他の追随を許さんでしょう。曹操が漢王朝を助けようとしても、どうしてすでに耐えた天命を永らえ、滅びゆくものを救えましょうか」

F「袁紹は内心で『ごもっとも』と考えた、とある。袁紹自身も書記に『漢王朝は衰えたから、袁家が取って代わるべきだ』という意見書を書かせ、それを配下に見せる、という真似をしでかしているンだ。配下に『誰ですか、こんなアホなことを云ったのは?』と返されて、その書記を殺しているが」
A「……ろくでもない兄弟だな」
F「袁紹はさておいて、袁術は董卓の失敗を他山の石にできなかった。さっきも云ったが、董卓の失敗は本人が涼州のイナカ者に過ぎなかったことが大きい。何進は外戚、曹操は名族、劉備は皇族だったが、董卓には血統としての優位性がなかった。ところが、袁術にはそれがあった」
A「だから皇帝になれる、なってもいいと思ったのが失敗だったワケか」
F「実際には書を交わして行われたンだが、袁紹が劉虞を皇帝に擁立すると云いだしたときの、三者三様のやりとりだ」

袁紹「後世まで続く政治を行い、天下万民が漢王朝再興の主を仰ぎ見るようにしたいと思う。現在、長安には名目上の幼い皇帝がおられるが(中略)、朝廷はみな董卓にこびへつらい、とても信じられん。我らはあの連中が東進できないよう軍を配置し、長安で野垂れ死ぬようにすべきだ。そのうえで、こちらでは徳のある皇帝を立てれば太平を期待できよう。我が袁家の一族を殺されながら、どうして再び朝廷に仕えられるか!」
袁術「董卓は混乱につけこんで権力を握ったが、こんなモン漢王朝にとってはちっさいことじゃないか。それなのに、アンタは皇帝を変えてさらなる混乱を引き起こすつもりか? 陛下は周の成王のような資質を持っておられる。(中略)亡き太傳(袁隗)は情の強い方で、董卓のせいで災厄が降りかかるのを承知で信義を貫き、朝廷から立ち去らなかった。だが、これは董卓の仕業であって朝廷が悪いのではない。なれば、上は国家の賊を討ち、下は家門を復興させるべきなのに、皇帝を変えるなど承知しかねる。ワシは董卓を討つ、その先のことは知らんぞ」
※周の成王
 周王国の二代め(殷を討った武王の息子)。『私釈』80回の6参照。

曹操「まぁ、董卓の罪は明らかだ。我らが軍を集めたら、遠くも近くも呼応してくれた。これは、漢王朝復興の正義があったからだろう。確かに陛下は幼く董卓に操られているが、国家を滅亡に導く気配があるワケじゃない。なのに皇帝を変えたら天下がどうなるよ。本初、お前さんは劉虞に仕えるといい。俺は献帝に仕えるから」

A「袁術の本心はあとあとの行いから明らかだけど、発言そのものは見上げたモンだな」
Y「この辺の意見の差異を見ると、袁術がまずかったワケじゃないな。董卓が献帝を操っています、それは事実で天下に知られている。ではどうするかと聞かれて、袁紹は違う皇帝を立てようとした。そのせいで『袁紹はよからぬことをたくらんでるンじゃね?』と、反袁紹派が生まれるのは自然の成り行き」
F「問題は『袁紹は天下を治める器じゃない』と反発した連中のまとめ役の座が、袁術ではなく曹操に流れついたことでな。なぜかと考えれば、あっさり答えは出る。曹操は死ぬまで漢王朝の臣下であり続けた、少なくとも生前はその姿勢を見せ続けた。ところが、袁術は皇帝になってしまった」
A「曹操ほど世間慣れしていなくて、自分の欲望や野心を隠すすべに通じていなかったのか」
F「見てきた通り袁術の素行は、欲望に正直で万民受けするタイプではなかったからな。自分が皇帝になったことで袁紹よりもっと非道いと思われたのが大きかった。董卓のやろうとしたことをお前がやってどうする、というところでな」
A「うまくやれば反袁紹派を糾合できたはずなのに、それができなかったワケか」
F「そゆこと。目端は利く男だが、どうにも自分のことは見えていなかった感があるな。禅譲でも世襲でもない劉氏にあらぬ皇帝ということで、董卓や袁術が失敗して孫権が成功したのには、やはり漢王朝が過去のものになっていたという世代的な影響が強いだろう。曹操が健在だったこの頃では、劉氏の皇帝に取っては代われなかったワケだ」
A「袁家は、実力と自意識のバランスが取れていないンだよなぁ……」
F「正史の注に引かれた袁術の最期はあまりに悲惨だ。雷薄に拒絶されてもまだ立ち去りがたく、何とか受け入れるよう3日もうろついていたが、食料が尽きて寿春に引き返そうとした。夏の盛りでのどが渇いて、ハチミツ入りの水を食事係に求めるが、そんなモン残っちゃいなかった」
A「あまりに落ちぶれ果てた最期じゃね」
F「かくて199年、皇帝を自称した男は世を去った。享年不明。辞世の言葉は『袁術ともあろう者がこんなザマになろうとは……』と。最期まで、いまひとつ反省というものに欠ける人物だった」
A「序盤に天下を揺るがしていたのは事実だろうが、どうにも大物とは思えない奴だったなぁ」
F「さっきも云ったが、息子を含む遺された一族は孫策に捕らえられ、息子は孫家に仕えるに至っている。また、娘は孫権の夫人におさまったのはいつか云ったな。名門の血筋を孫家といえども無碍にはできなかったようでな。張勲も、もともとつきあいのあった孫策のところに逃げ込もうとして劉勲に捕らえられ、その後孫策に保護されている」
Y「皇帝を名乗った男の一代記が幕を下ろした、と」

「陳寿にございます。袁術は金遣いが荒く女癖も悪くて、欲望のままにふるまいました。それじゃ自分の一生の間さえ栄華を保てないのは当然でしょう。自業自得ってモンです」
「范曄でーす。占いの結果を知ることは誰にもできますが、自分に都合のいい結果だけを持ってきて『コレは俺のです!』じゃ通じませんって。天を欺こうとすれば忠臣も失いますよ。帝位を名乗るなんて誰が受け入れてくれるンですか」
「裴松之だ。お前ら、何云ってンだ? 毛の一本ほどの功績、糸クズほどの善行もないのに天下を荒らし、自分から皇帝を名乗った奴なんざ生者も死者も憎悪するだろ。態度改めれば生き残れるってタマじゃねーよ。お前らの云い方は袁術の極悪加減を表現するのにぜんぜん足りないンだよ」

F「ちょっとあとの時代の陳寿は同情的だが、時代を経るにつれて評価が悪くなっているのが判るな」
A「ここまでボロクソ云われると、むしろ同情したくなってくる」
F「ところで、ちょっとくらいはフォローしておこう。袁術自身が兵を率いて、戦争で勝ったことは一度もない。曹操に手を出して返り討ち、劉備が徐州を失ったのは呂布のせいだし、その呂布に張勲を差し向けては敗れている」
A「フォローになってないよ!?」
F「そんな袁術の数少ない勝ち戦のオハナシになる。呂布に打ち破られたあとに、袁術は食糧を得ようと陳国に入った。ここには陳王の劉寵がいてな。霊帝は後漢三代章帝の血筋で、劉寵は章帝の弟にあたる劉羨(リュウセン)のひ孫になる。173年に帝位をうかがった罪で処罰されかけたが」
A「ぅおい!?」
F「霊帝の即位は167年だが、即位の経緯が経緯だけに不満のある皇族は少なくなかったらしいンだ。この前年、172年にも帝位をうかがったとされる渤海王の劉悝(リュウリ)が自殺しているから、霊帝でもまた皇族を死なせるのは躊躇い、宦官の勧めに従ってスルーしている。まぁ『クロスボウが得意で、十射すれば十射当たった』とか『数千張の弩兵を率いて出陣したら黄巾もよけて通った』とされる自称『輔漢大将軍』が自殺してくれるはずがないからなぁ」
A「何でそんな大物が隠れてるの、この時代ー!?」
F「そこで袁術は張闓陽という、どっかで聞いたような刺客を送りこんで、劉寵を大臣もろとも殺している。袁術らしいのはこのあとで、食糧のみならず女も奪って、後漢書では『陳はこのために滅んだ』とさえ書かれているンだ」
A「だから、フォローしようよ! お前といい裴松之といい、袁術を悪くばかり云って!」
F「いやな、となると何で南陽や寿春に入れたのかさえ疑問に思えてくるだろ? 実際のところ、袁術軍は孫堅・孫策くらいしかマトモに戦える武将がいなかった。紀霊や張勲でも出ると負けじみた雰囲気がある」
Y「西にも東にもいるンだなぁ」
A「南だよ!」
F「まぁ劉備の話はさておいて、袁術のやっていたのは、太守がいないか無能な郡・州に目をつけて太守を任命し、あるいは軍を送りこんで、曹操や袁紹より早く勢力下においたという行いでな」
A「名指しするな!」
Y「うるさいなまったく。しかし、そりゃ正しい日本語では空き巣とか云わんか?」
F「孫子ではこういうのを『戦わずして勝つ』と云う。兵法の極意だな」
A「…………………………」
Y「…………………………」
F「リアクションしろよ!」
Y「モノは云いようだな」
F「ようやっとでのリアクションがそれか!? ひとがちゃんとフォローしたのに!」
A「えーっと……兵法の極意を使う男相手では、孫子の子孫が従ったのも無理はないのかなぁ、と」
Y「やっぱり気づいてなかったのか。実は『孫堅関連家系図』で、孫臏のあとが途切れているのを」
A「……つながってねェ!?」
F「そこまではただ書いてあるだけ、だったりする。ともあれ、袁術はいかに他人を利用し、出し抜くかという目端が利いた。こういうのを悪知恵というが、そんなことを繰り返していたので人心を失ったというオハナシ」
A「それが判ってるなら少しは控えろよ、お前も!」
F「続きは次回の講釈で」


袁術(えんじゅつ) 字は公路(こうろ)
?〜199年(野垂れ死に)
武勇2智略4運営2魅力3(皇帝補正で魅力+1)
豫州汝南郡出身の、後漢末の群雄。のちに皇帝に即位。
対人関係の智略は冴えるものの時流を読み違えて、皇帝に即位したのが運の尽きだった。

張勲(ちょうくん) 字は不明
生没年不詳(正史・演義問わず記述がない)
武勇2智略2運営1魅力1
出自不明の、袁術配下の武将。
袁術から大将軍と扱われたものの、その死後はかねてからつきあいのあった孫策の元に逃げようとする。

紀霊(きれい) 字は不明
?〜199年?(演義では張飛と戦ってまっぷたつ)
武勇3智略2運営1魅力2
出自不明の、袁術配下の武将。
演義では、関羽とは互角に渡りあうも張飛には一撃という、露骨に評価に困る真似をしている。

陳王劉寵(りゅうちょう) 字は不明
?〜197年(袁術に暗殺される)
武勇5智略3運営5魅力1
後漢二代明帝の子孫。曾祖父の代から陳を治めていた。
霊帝の帝位をうかがったり自ら弩を引いたりとトラブルまみれの人生を送り、あえなく最期を遂げた。

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