真間の手児奈


昔々の話です。
海の向こう、唐の国よりもっと向こうの国には「羊」という動物がいます。
その国では、大昔、悪鬼どもがこの世に侵入して大きな戦が起こり、
それ以来この世のものはすべて善と悪とが戦うようになったのだと伝えられています。
戦の最初に太陽を案内したのが羊であり、正義の動物だとされています。
かの国の人々はたたらぼしやえきへぼしを羊に見立てたのです。

※当時春分点があった牡羊座は特別な扱いを受けていました。また日本でも「すばる」など星に名前をつけていました。「たたらぼし」「えきへぼし」はいずれも牡羊座の星です。
舎人(資人)としてやってきた男を見た時、王は「羊」と呼ぶことに決めました。
王は国守として下総の国に下っていきます。
一行の先頭を務めているのは羊です。
前任の下総国司達は大変に豪勢な様子で帰ってきましたから、王も期待しています。
平城京に帰ったなら、臣籍に下ろうと決めています。


 


下総国は一昨年まで干ばつに襲われていました。
昨年は逆にいつまでも梅雨が明けず、長年凶作が続きました。
ところが、国府の取り立ては相変わらず厳しいものでした。
決められた稲を納めるまで、容赦しませんでした。
不足分は私出挙(※国が強制的に貸し付ける稲を公出挙といい、年利50%の一種の税でした。私出挙は私的に貸し付ける出挙であり、年利は100%でした。)とされました。

下総の人々は苦しみ、あるものは餓死し、あるものは他国へと逃げました。
こうして里の人口は10年で半分になってしまいました。
残された人々もいずれは餓死してしまうでしょう。

悪いことばかり続いた下総国ですが、ついに国司の交替の時が来ました。
強欲な国司が去ると聞き、人々は小躍りして喜びました。
しかし、窮乏の現実が変わるものではありません。
人々は新しい国司の情けを乞うことにしました。

真間の里にはたいそう美しい少女が住んでいました。
親類縁者が餓死してしまったので、身寄りがありません。
人々はその少女手児奈に頼んだのです。
新しく赴任してくる国守の側女として上がり、里を救ってほしいと。
手児奈は里を救うためならば、と側女に上がる決心をしました。

強欲な国司は私出挙だと言って、それぞれの里から若者や娘を連れて行ってしまいました。
平城京には大きな寺院や貴族の大邸宅があります。
強欲な国守は、そこに奴婢を献上するつもりなのです。
名高い手児奈も藤原北卿(※藤原房前。北家の祖)に献上しようと血眼で探しましたが、
真間の里人達は手児奈を隠し通しました。

強欲な国司が去ったこの年、十分に雨が降り、十分に日が照りました。
まるで10年来の不幸を取り戻すかのように、稲穂はすくすくと育ちました。
そして、秋になると深々と穂先をさげたのです。

これならば、手児奈を十分に美しく着飾らせて、新しい国守に献上できます。
里の大人達は手児奈を自分の家から国守に差し出そうと必死になりました。
まるで前任の国司の強欲がうつってしまったかのようです。
若者達は、里の若い女が減ってしまったところに、とびきり美しい手児奈が残ったので、
国守のものになる前に味見をしたいと手児奈を追い回しました。

仲が良かった友だちの妹は手児奈をなじりました。
手児奈を庇ったばかりに自分の姉が連れて行かれてしまったのだ、
こんなに豊作になったのだから、手児奈が連れて行かれれば良かった――

強欲な男達と好色な若者達に追い回され、友だちを失った手児奈は
真間の井から流れ出した小川に沿って歩いていきました。

生まれてこなければ良かった。
お母さんや弟たちが死んだあの年に、私も一緒に死ねば良かった。


 


羊は下総の国府に確実に王を迎えさせるため、
一行が箱根を越えると先に馬を飛ばして、下総に向かいました。
上総から下総に入り、馬で行くうちに、羊は奇妙なことに気が付きました。

どこの国にもうち捨てられた家やひとけのない里はあるものですが、
竈の煙が上がらない里が多すぎやしないか。
また、若者や娘の姿がほとんど見あたらない里もありました。
男が見あたらないのは、運脚(※調庸を都に運ぶ農民)で説明が付きますが、娘までいないのはどういう事なのでしょうか。
平城京に凱旋と言っていい豪勢さで帰ってきた前任者の様子から、
下総は豊饒な国に違いないと一行は喜び勇んでやってきているというのに。


いずれにしても、王がお着きになってからの話である、
もう少しで国府に着くのですから、羊は最後の力を振り絞って急いでいました。

しかし、川上から何かが流れてきます。
「や、や、あれは…!」
人間ではありませんか。
女のようです。
羊は馬から下り、川に飛び込みました。

気を失った少女を連れて、羊が国府に辿り着いたのは夜になっていました。
助け出された少女は、新しい国守に献上される身の上であることを打ち明け、
手を出してくれるなと懇願しました。


翌日から羊は「万事質素に」お迎えするように奔走し始めました。
一方で真間の里長を呼びつけ、事情を聞きました。
彼らの手駒であった手児奈はすでに国府にいるのですから、真間の里人達は気を落としました。
これでは、手柄は新しい国守の従者・羊のものですから。
せめても、と里長は、手児奈が真間の住人であることを強調しました。

事情は分かりましたから、王がお着きになると思われる前日に、
羊は手児奈を真間の里で一番の年寄りの家に連れて行きました。
その間、羊は手児奈の願い通り、彼女にまったく触れませんでした。

「貧しければ貧しいで、豊かになれば豊かになったで、
何か変わると人の心は醜くなることだ」
年寄りは手児奈を引き取りながら嘆息したのです。
そこで、羊はどういうことかと訊きました。
年寄りは問われるまま、昔も手児奈という娘がいたこと、里の男や国府の役人達に言い寄られて悩み、ついに入水して果てたのだという、言い伝えを話しました。
「昔の手児奈も哀れであったが、この娘は命が助かっただけでも、昔の娘よりは幸いだった」
そういうと、年寄りは涙ぐみました。

翌日王は大変質素に迎えられました。
驚いたけれど、信頼する羊の指示ですから、お怒りになることもなく、
羊を呼んで静かに国の様子をお聞きになりました。
羊は国の様子をつぶさに話し、併せて手児奈のことと古い言い伝えのことも話しました。


王は大変に教養の高い人であったので、真間の里で2回も同じ悲劇が起こったことを気になさいました。
昔の手児奈が成仏できずに苦しんでいると訴えたのだろう、
しかし同じ手児奈の名をもつ娘を自分とは同じ運命にしたくなかったのだ、と
王は里人達に諭しました。

そして、任が解かれた時、王は下総に下ってきた時よりもさえないご様子で、平城の都に帰って行かれました。
下ってきた時と同じように、羊が先陣を務めましたが、彼の傍には愛らしい娘が寄り添っていました。
王が「おまえひとりを大事に思う人とともにいることが幸せというものだ。好きな人のところに行きなさい」というと、
手児奈は「はい」と一礼し、素直に羊の元に向かったのでした。

真間の里では、昔と同じ悲劇が2度と繰り返されることのないよう、昔の手児奈の霊を慰めることにしました。


 


現在残る真間の「手児奈霊堂」は安産の神さまとなっています。


※このお話は手児奈伝説とは関係のないフィクションです。


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