真間の手児奈


昔々の話です。
下総国葛飾郡真間に手児奈という美しい娘が住んでいました。
手児奈はもとは国造の娘として生まれたのですが、
早くに母親が亡くなり、祖母に育てられていました。
その祖母も手児奈がまだ少女のうちになくなってしまいました。
やがて父が亡くなると、国造は父の弟が継ぎました。
手児奈以外の子ども達はそれぞれに暮らしていましたが、
手児奈はたちまち落ちぶれてしまいました。

手児奈の着物はとても小さくて袖が殆どありませんでした。
でも、彼女には生地を手に入れることはできません。
沓もいつしか失ってしまいました。
手児奈は裸足で歩いていました。

それでも、不思議なことに、手児奈は相変わらず美しいのでした。


さて、どちらかというとぼんやりとした手児奈の父とは違い、
叔父は目端の利く人物でした。
遠く飛鳥の地にある都に住む大王が長いこと床に伏しているのですが、
次の大王と目されている王子が無類の少女好きだと聞きつけました。
彼は葛飾郡の美少女を捜させることにしました。
他でもない、彼の姪が絶世の美少女真間の手児奈なのですが、
手児奈の母があまりに早く亡くなったので、
彼女が前の国造の娘であることを知っている人はもういないのでした。


美しい手児奈に言い寄る男は決して少なくありませんでした。
手児奈は恥ずかしがりの乙女でした。
可愛らしい彼女が泣きそうな顔で恥じらうと、それ以上の無理強いをする男などひとりもいませんでした。

しかし、美しい少女を差しだしたものには褒美をはずむと、国造が保証したのです。
身よりのない手児奈を引き取り、美しく着飾らせて、国造のところへ連れて行けば、褒美も名誉も間違いなしです。

里の主だった家の男達がいっせいに手児奈を口説きはじめました。
国造のところへ連れて行くと言えば、手児奈が怯えると考えた彼らは
自分自身の、或いは子弟の妻に望むのだと言いました。

手児奈には難しいことは分からなかったけれど、
今まで愛情だけで「好きだ」と言ってきた若者達とまったく違うことに気が付いていました。

愛情だけなら、手児奈に無理矢理言うことを聞かせようとは考えません。
愛情だけなら、優しい瞳で手児奈を見つめます。

「求愛者」達は互いに憎しみあいました。
やがて、手児奈を手に入れようと争った兄弟が、殺し合うという事件が起きてしまいました。

真間の井で水を汲む時にちょっと立ち話をしていた娘達ですら、手児奈を非難しました。
「男達に競わせていい気になっている」
「美しさを鼻に掛けている」

もともと身寄りがなかったのに、友だちもなくし、手児奈は泣き暮らしました。


そして、手児奈は決心しました。


――私さえいなければ、争いがおきない――


 


入り江の里に「熊」と呼ばれる若者が住んでいました。
全身毛がふさふさとしていて、特に脚は黒々としていました。
熊だけに力が強く、収穫の時期に海や山の神様に奉納する角力では
熊にかなう者はいませんでした。
また、熊は鮭を獲るのが大変に巧みで、
秋鮭の遡上の時期になると、何の道具も使わずに何尾もつかまえてくるのでした。
熊がざぶざぶと水の中に入っていくと、
臑毛にまとわりついた空気が粒を作って、
きらきらと銀色に輝きました。
鮭共は銀色の粒を餌と間違えて、熊の脚に噛みつきましたから
熊は「イテテテ」といいながら、鮭を岸に投げました。

その日は大漁で、熊は夢中になって鮭をとり続けました。
日が傾いてあたりが暗くなってきたので、帰ろうかと腰を上げたところ、
川上から何かが流れてきます。
不思議に思って近付いてみると、大変に粗末な着物を纏った女で、
ピクリとも動きません。

死んでいるのでしょうか。
気を失っているのでしょうか。

熊は迷わず川に戻りました。
体力に任せて泳ぎ、
女をつかまえ、
岸にたどり着きました。

水を吐かせてみると、女が咳き込みました。
生きています!
冷たい水の中を漂ってきたのだから、相当に弱っていますが、
それでも少女は生きていました。

熊は少女を自分の小屋に連れ帰りました。
その晩は必死で看病しました。
月明かりで見てさえ、たいそうに美しい少女は、
熊の看病の甲斐あって、翌朝目を覚ましました。

けれど、少女は名乗ろうとしませんでした。
それどころか、一言も口を利かず、熊が用意した食事に箸も付けません。

熊は去年病気で妹を亡くしました。
似ているわけではないけれど、同じくらいの年頃の少女だから放っておけないのだと、
熊に説得されて、少女はようやくひとくちふたくち食べるようになりました。

数日後、少女は熊について来て、岸に投げられた秋鮭を集めるようになりました。

さらに数日後、少女は熊の着物を繕い、
熊が持ってきた糸を紡ぎはじめました。

雪が降る頃、少女は「私は真間の手児奈です」と名乗りました。
そして
ふたりは夫婦になりました。

熊は角力でもらった餅を里の人々に振る舞い、
自分たちの夫婦のお祝いをしてもらいました。
里の人の中には「真間の手児奈」を知っている人もいるのですが、
黙っていることにしました。
噂で聞いた真間の手児奈は
炎に群がる夏の虫のように、
港に入る先を争う舟のように、
男達に言い寄られて、入水したのだと聞いています。
しかし、目の前の若い女は熊の傍らにちょこんと座り、
穏やかに微笑んでいるのです。


熊はよく働く男でした。
手児奈は里の誰に知られることもなく、熊との子を何人も産みました。
子ども達もそれぞれに幸せな結婚をして、手児奈の晩年は穏やかであったそうです。


 


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