実践17 Art Lessons
ロンドン日本人学校 舟橋 舞美
1. はじめに
本校の児童・生徒は日本の子どもと同様の教育を受けることができるが,それ以上にここでしかできない体験をしている総合的な学習(ロンドンタイム)の時間を通し,現担任の第5学年の児童は「イギリスを知ろう」のテーマのもと,体験を通してイギリスの自然,産業などを学習するそれはまさに現地理解であるとともに,日本の生活経験のある児童にとっては,日本との比較であり,経験のない児童にとっては,その日本こそが新たな発見,感動となる。
ここイギリスは,歴史的背景からみても,世界的影響力を持ち,ある時代の勢力を物語る世界中の遺跡物,芸術作品を目にすることができる。遺跡物に関しては,その国にあるからこそみる価値があるのであり,美しいのだと個人的には考えるが,本物を目の前にできる感動は,やはりはかり知れない。さて,その感動や価値を,子ども達は理解しているのだろうか。日本ではない,イギリスだからこそできるこの感動を伝え,価値あるものに高めていくところに,ロンドン日本人学校における美術教育の意義があると考える。
2. 美術教育の違い
ある名画が日本に来るとするゴッホの「ひまわり」,ムンクの「叫び」,ミレーの「落穂拾い」…そのお目当ての名画のために長蛇の列ができる。ベルトコンベアーのように順番に進み,名画の前で立ち止まることを禁止されるましてや,写真撮影,スケッチはもちろん禁止である。そして,名画を見たことに満足し,こう思うのだ「教科書で見た絵だ」と−このような経験はないだろうかこれは正しい絵の鑑賞と言えるのだろうか。
教科書で見た「名画」を見たことが,鑑賞したことによる感動なのではない。では,何が感動なのかそれは人それぞれであり,一概には言えないことであるが,私の感動について言えば,こうである。何世紀も昔,この絵の前に,まさに今私の立っているこの位置に,彼も筆を持って立っていたのだ。絵の表面の絵の具の盛り上がり具合,色の重なり,光の表現,細部の表現彼の製作中の心の葛藤や完成したときの喜びまで,そこに立つことにより,共有できる美しさの感動とともに,「本物」に出会えた喜びがそこにはあるのだ。しみじみと眺め,気に入った絵の前ではゆっくりといろいろな思いをはせながら過ごしたいものであるしかし,それが日本の美術館のほとんどではできないのだいわゆる「目玉商品」のために「見ること」だけが目的とされてしまう。
ヨーロッパにおいて,いわゆる「名画」は,他の同様に名画である多くの絵画の中にある。日本であれば,ガラスケースに入り,他の空間とは隔離された特別の展示をされる絵も,ヨーロッパの多くの美術館では多くの絵画の中のひとつに過ぎない。もちろん「名画」は世界的評価の上でも名画であることに違いはないそれだけ自然に芸術鑑賞できる環境であるということだ模写をする美術学生も多い。日本では考えられないことであるが,かつて芸術家達は同様に,名画を目の前にし,模写をしてその技術の一部を身につけようとしたのだ。ダヴィンチの「モナリザ」は,多くの芸術家達のモチーフとされたそのダヴィンチや,ミケランジェロもローマ彫刻をスケッチし,技術を身につけていったのだ。本でしか見ることのできない日本の子供にとって,その実物の大きさや本当の色までを想像して鑑賞することは難しい。
3.西洋美術史と文化
ヨーロッパにおいて,芸術の歴史は時代の歴史そのものであるといって過言ではない。勢力を持ったものが画家のパトロンとなり,芸術家達は競ってその腕を高めあった貧しい時代には芸術こそが心のよりどころとなっていることも多い。自然や民衆を描き, 芸術が上流階級のみに許された時代から変化していったこともわかる。もちろん,ヨーロッパにおいて宗教と芸術のつながりは切っては離せない関係だ。日本で弥生式土器を作っていたころ,イタリアのポンペイでは壁画に美しい絵を描き,街には彫刻や芸術的建造物が建ち並んでいた。
日本は,このような芸術的歴史背景の違いを,芸術の遅れと誤って捉え,ヨーロッパ芸術に対するコンプレックスを持っているように思える。日本もバブルの時代,多くの絵画を購入し,それに莫大な金額をつけたそれは,絵画価値をあげることにはつながらず,単なる投資として一般庶民にまでその感覚が植え付けられてしまった。ヨーロッパのものは素晴らしい、という前述のコンプレックスも見え隠れする最近では某テレビ局の「お宝」ブームに乗り,日本の骨董芸術への関心も高まってきたこれもひとつには「鑑定」による,。金額的価値評価が伴うのではあるが,日本文化への誇りと関心が向上した点においては大いに評価してよいと考えている。
文化は文化として,お互いの国の違いを認め,それぞれのよさを評価し合うべきなのだそれが本来の芸術鑑賞の姿であり,教育活動における国際理解の原点であると考える。「(多くの意味で欧米を指す日本的感覚での)外国のものは素晴らしいだから見習う,真似をする」といった,考えを持たないことだ本場のものは本場のものとして受け入れる,そして自国の文化にも多くの関心と誇りを持って欲しいと願う。
このような考えの上にたった美術教育は,在外教育施設だからこそ効果的にできると思っている。異文化に直接触れ合うことのできる環境異国の中の日本その中には凝縮された日本文化の姿があり,他国が日本をどのように捉えているのかを垣間見ることができる。この恵まれた環境を大いに教育活動に生かしたいものである。
4. 今後の課題
日本でムンク展を見に行ったときのことであるどうして最終日に来てしまったのだろうと,大変後悔した美術館の周りを2周し,やっと中に入れたのは並び始めてから2時間後「立ち止まらないでください」といわれ,工場の部品のように流れていった。大学時代,美術の版画を専攻していた私としては彼の木版画やリトグラフに関心があり,表現方法を近くでじっくり見たかったのだがその願いはかなわなかったある。絵の前で仁王立ちをして動かない男性がいた。「立ち止まらないでください」の声にも動じない周囲の白い目も気にせずじっと眺めている−パステル画の『叫び』である。ある女性が彼にたずねた「これが本物のムンクの『叫び』なんですか」。しかし,彼は答えなかった。その絵の前後には何十枚という『叫び』の絵が並んでいたのだ。どれも,ムンクの描いた『叫び』であり,どれも本物である。きっと彼女が言いたいのは, 「これが教科書にのっていた『ムンクの叫び』なのですか」ということだろう。とにかくいちばん有名なのはどれなのか,知りたかったのかもしれない。
一枚の名画ができるまでには,多くの習作が残されているのである。シリーズ化されて,それをテーマに描き続ける画家もいる。絵を描く者にとって,自分の絵に満足をした時が,自分の才能の限界を知る時なのだという。よって、自分の才能や可能性を信じる芸術家達は,決して満足せず,描き続けるのだ。ゴッホには多くの「ひまわり」があることは知られている。どれも本物であり,(市場には贋作も出回ってはいるが)どれも価値ある作品である。美術を学ぶものにとっては,完成された作品よりも,デッサンや習作の方が学ぶところが多い。できるだけ,早いうちに本物を体験させることの重要性を感じる。
日本人学校の教師として,また,美術を学んだものとして,いったい自分に何ができるのだろうか。まずは学級担任として,図画工作科が週1時間に削減された中,いかに日常生活の中で造形的意識を持って生活できるかを考えた。学級掲示については意識して数種の書体でレタリングをした。教えることはせず,教師が視覚的に示すことで, 多くの影響力をもつ。いつしか子ども達の作る掲示物の中にも,文字デザインの凝ったものが生まれた。図画工作の時間に教科書の中のM.C.エッシャーの作品の一部を鑑賞した数日後,その全容の掲載されたエッシャーの画集を学級文庫の棚に置いた。子ども達はまるで宝物でも発見したかのように喜び,その絵の全容をじっくりと鑑賞していた。ああ,次は是非,エッシャーの本物の絵をこの子達に見せてあげたいそうしたらこの感動はもっと大きくなるのに,と思う。
一教師として,ロンドンに来たからには,現地における美術教育がどのようなものであるのかを是非学びたいと思う。本物と自然に触れ合うことのできるこの環境で,美術教育がどのように行われているのかは多くの関心事であるまた,その中で,日本の芸術がどのように紹介されているのかも大いに気になる。現地に学び,日本の美術教育にもその良さを取り入れていきたいと思うが,そのためには,私自身がもっと日本文化と芸術について学び,現地にそれを伝えるだけのものを持っていなければならない。そうでなければ,前述のように,「ヨーロッパに習え」の今までの美術教育と何ら変わらないからである。
5. さいごに
最近の出来事である5月の連休中に(と言っても日本人学校は休みではなかったが)イタリアへ旅行にいった子どもがいた。彼はサッカーが好きで,大好きなサッカーチームのあるイタリアへ行けることを大変喜んでいた。しかし,帰ってきた彼のイタリアへの関心は,芸術や文化に変わっていた。「ローマには地下鉄が作れないんだ少し掘ると遺跡が出てくるからなんだよ。大昔の柱がいっぱいころがっていたよ。教会の彫刻や絵がものすごくきれいで,ぼくは生まれて初めて金を見たミケランジェロっていう人は,天井にあんなにたくさん絵を描いてすごいなあ,と思った」
これこそが本物体験。大人であれば解説書やガイドが欲しいところであるが,子どもにはまず,本物を見せてあげたい。そこから何か感じて欲しい,と彼をみてそう思った。
今後,価値ある実践報告ができるよう,努めていきたい。
ロンドン日本人学校 5年C組 担任 舟橋 舞美
4月
・教師による学級掲示(1)
自己紹介カード
少し丸みを帯びた字で
見出しを作った
・教師による学級掲示(2)
朝の歌
『ボンジュールマダム』
言葉と文字の色を関係付けて
表現した
色と言葉を視覚的に
捉えさせるねらいがある
子どもの学級掲示(1)
係の仕事
色や太さなどには
意識して表そうとしている
工夫も見られるが
まだ,書くことが中心の段階
・教師による学級掲示(3)
国語
楷書体や明朝体といった
整った形のレタリング
ほとんど作成しておき,
最後の数枚を休み時間に
子どもの前で仕上げた
・子どもによる学級掲示(2)
学級目標
本学級の目標は
『5年C 明るい笑顔で 思いやり』
1文字ずつ別々の児童が担当した
形や表現方法に工夫が見られ始める
・子ども達による学級掲示(3)
図工
自分の作品が仕上がった子たちが
掲示用の見出しづくりをした
『文字をかきたい』
といって,数人で分担して作った
テーマを意識した文字デザイン
になっている『書く』段階から
『描く』段階へと変化してきた
『文字』という,身近でなんでもないようなものが,日常生活の中で表現の媒体ともなりうるのである。教科外においても造形的活動を取り入れて行うことは可能である。そこには,友達による生きた評価がある。そして,それが学級で使われ,役立っているという充実感もある
今後も,週1時間の図工指導のあり方とともに,学級活動における造形的活動のあり方についても追求し,実践していきたいと思う
・図画工作科 児童の作品紹介
4月 自分の顔を美しく(鉛筆による自画像)…1時間
形からの発想…1時間
芸術家の作品鑑賞…0.5時間
5月 自然の中にかくれんぼ(紙工作)…3時間
友達を描こう(コンテによるクロッキー)…1時間
6月〜7月ぱらぱら漫画とアニメーションボックス…5時間
本校は9月の第1週に写生大会がある。校内のコンクールも行われるため,少ない授業時間ではあるが,1学期中に写生大会につながる指導を行う必要がある。『見て描く』再現的絵画表現が減少し,『思いや感じたことを描く』想像的絵画表現が主流の最近の図画工作の中,本校の取り組みは独自の活動であり,本校の特色,伝統でもある。
図画工作の授業においては,発想をいかした作品づくりと,写生につながる基本的描写法を平行して指導している。今年度は趣向を変え、子ども自身が用紙や描画材を自由に選択できるよう、提案した。教師自身にもその効果を体験していただこうと、6月 20日に美術講習会を開催した。写生大会では日ごろ図工を受け持っていない教師も引率する為、教師の予備知識として、技法やその効果を紹介した。今後も教材研究を行い、必要があれば行っていきたいと考えている。
少ない授業時間のため、子ども達が作品完成や提出期限を考え、楽な方へ行かないよう授業を組替え、子どもの意識や思いが持続できるようにした。週1時間の図工だが、時数調整できるのが、小学校学級担任のメリットである。これがもし、図工専科だったら、どのように展開していただろう。中学部においては、週1時間の美術を担当教師が行っている。次回は、中学部の実践等もぜひ紹介したい。
本校の特色に1つとして、現地校との交流が挙げられる。私も、この1学期に、ジャーマンスクールの児童を受け入れたり、モルシャムジュニアカウンティースクールを訪問したりした。総合的な学習の発祥地であるイギリスの学校を訪問することはとても興味深い。イギリスでは、総合的学習の弊害とも言える、学力低下を苦慮し、最近では総合的学習とともに、基礎基本である、国語、算数などに力を入れている。
モルシャム校を訪問して思ったことは、その掲示のすばらしさである。子どもの作品はもちろん、教師の掲示が、まさにみせるためにされていることがわかる。デザイン、配色、構成全てが工夫されており、日本の学校とは全く違う。視覚にうったえた掲示がいかに子どもにとって必要なのか。そして、それが造形的であることにどんな価値があるのか、前述の私の考えが、ここイギリスの学校では既に全ての教師の手で実践されていることに感動した。現地校に学ぶことはとても多い。全てが素晴らしいと真似ばかりしているのではいけないが、良いところはすぐに本校の教育活動でも取り入れている。
現地校でも図工は週に1時間。しかも、理科や数学の為に削られることも多いという。しかし、教師達は、造形的活動の重要性を理解し、各教科でそれを取り入れ、教師が掲示物を通して、視覚的に美的感覚を養っているといえる。また、総合的学習の中でも、造形的活動は不可欠で、廊下の掲示には、それぞれのテーマに基づいて子ども達が製作したものであふれていた。また、イギリスでは美術館、博物館が数知れず存在する。そして、ほとんどが無料である。子ども対象に説明をしてくれたり、子ども自身が調べ学習できるようにしてあったりする。つまり、社会や家庭が本物の芸術・文化にかかわる大きな役目をしているのである。学校はその手助けに過ぎない。親子で美術館へ行き、親が子へ絵画の解説をする。それは昔、自分がここで学芸員や親から教わったことである。そうやって家庭内に伝統としてその力が受け継がれてきている。これが大きく日本と異なる点である。そういった家庭内教育力の違いや芸術に対する理解の差を考慮せず、ただ、欧米に習えで図工の時間を削減するのはどうだろうか。なぜ、日本人学校で図工が週に1時間なのか、ということを質問したことがある。それはその まま、私自身への質問となって返ってきた。
私自身が考える、週1時間の図工はいくつかの条件のもと十分に行えるものであると考える。それはまず、子ども達が、本物を見ること。地域社会、家庭において子ども達が日常的に良いものに出会い、感動できる環境が整っていること。そして、学校において、他教科でも造形的活動が取り入れられ、教師が進んで、見せるための掲示をすることである。
1時間という短い時間では、取り組む課題が単発的になりかねない。子どもの意欲が持続でき、楽しく活動できる教材を、今後追求していきたいと思っている。
少ない時数を補うものとして、写生大会の実施が上げられる。しかし、今年度1時間になってからは、その事前指導を行う時間がない、という声をよく聞く。9月の写生大会についても、実施以降報告したいと考えている。
中学部2年生は、修学旅行でパリに行く。ここでは、価値ある実践がされているのでぜひ紹介したい。ルーブル美術館、オルセー美術館で芸術鑑賞をする。もちろんイギリス国内でも十分それはできるのだが、その後、モネの家を訪問するのだ。そこで庭を眺めながら、モネの気持ちになってみる。それを俳句や短歌に詠む。美しいパリの街並みを水彩絵の具で描く。中学部担当ではないので、これ以上詳しい紹介ができず残念であるが、なぜ1時間か、1時間で何をしたいか、その価値を見極める必要があるだろう。ただ学校五日制完全実施に伴って時数が削減されているのではその価値があるとはいえない。