Children live to the future.
Art education explore the area of children's possibility.
美術教育は子どもの可能性を広げます。
○始めに
○生きる力
○作品について
○教科の目標
○マルチメディアと造形教育
【葛飾区図工部教科理論部】
1,人間の全面的発達
1)ヒュマニズム
いじめ問題、小学校からの受験戦争、離婚家庭の増加など、児童の生活の中で様々な形で人間性の抑圧やその一面化が進んでいる。昨年の神戸の少年事件などを見ると、「人間の中にある自然」が崩壊し始めている−という実感を抱かないわけにいかない。「自分に対するの自信のなさと、人間不信が事件を起こした」と言う、専門家の分析が新聞に掲載されていた。それは、まさに子供のなかに「愛されているという意識、生まれてきてよかったという実感」が欠如してしまっていることでもある。この欠乏欲求が充足されていなければ、どんな教育も無意味であろう。教育課程審議会の中間まとめでも、改善の基本的な考え方で「自分がかけがいのない一人の人間として大切にされ、頼りにされていることを実感でき、存在感と自己実現の喜び」が必要であると謳っている。
美術教育とはヒューマンな人間を関心の中心におき、「手を動かす」という最も自然な方法で、《自分自身を信じること・自然の自分を表すこと》を体験させようとしている。まさに、審議会まとめに求められているような、「自分のよさ・個性」を発見する素地を養い、自立心を培っている学習である。そして、そこに行為や作品として−視覚的に自分があるという真実が、「すばらしい」という教師の面と向かった認める態度が、なによりも人間性を尊重し、心の隙間を埋めていくだろう。つまり、この教科はストレートに造形を通して児童一人一人の価値を認め、自分自身と向き合うことで「より人間的な在り方や表現」を求めることを第一の課題とする。
2)調和ある発展
人間性を愛し、信頼することは、自然のままの(あるいは本能的な)状態に隔離することではない。まして、子供らしいということで、よく社会で見かけるように電車やレストランで騒がす事ではない。「人に迷惑をかけない」これがしつけの第一歩である。それが、「時代を超えて変わらない価値あるもの」と言えるであろう。児童中心とは行動でなく、その精神のことである。美術教育はわがままで身勝手な芸術家ぶった、アートを気取った人間をめざしているのではない。《自由》ではなく、まず《我慢》を覚える事、《やってはいけないことを》覚えること。これが学校に入った(入る前の)児童の最初の課題とも言える。そこから、初めて子供は動物を人間として越えていく。 ただの「のびのび、楽しく」や「抑圧解放」を越え、美術教育は、これをより「人間的な自分らしさ」として、造形表現活動をとおして各人固有の人間性(個性)を実現していこうとしている。
今までの、人間性を阻害し、地球環境を破壊してきた、西洋啓蒙主義・近代合理主義・主知主義の反省に立ち−「欲望をコントロールしながら」感性や心情を重んじ・「作品をつくりながら」人間性の調和ある発展を求めている。
3)人と触れ合う
人間性の実現・完成は、材料や機械に触れ合うだけでなく、教師や友達との人間的交わりを通じてのみ可能である。互いが支え合い、共に学ぶことによって、自分自身が高まり、たくさんの答えが見えてくる。様々な社会事件が示したように、それは個室でのビデオ鑑賞や、隔離されての修行では不可能なのである。人間だけが人間を人間にしていく。つまり、ヒュ−マニズムを単なる「Me,first」の個人主義として捕らえるのではなく、自分の主張と全体との調和を保つ「バランス感覚」を養うことを含んでいる。今の授業ではコンピュータも使うようになり、教師が機械的に材料を並べ、手順を法則的に指示しても、心からの表現=作品は生まれてこない。美術教育は児童との人間的な触れ合い=相互作用で、その子らしい人間的な表現を期待している。そのために、思いを持たせたり、心が動くような教師の感性的指導が道具や技術の指導以上に重要な意味を持っているのだろう。
そして、大切なことは今まで述べてきた《思いを持つ・自分を持つ》ことが、児童の学習の道具として必要最小限な"MINIMUM
ESSENTIALS"といえることだ。それが、自ら調べ判断し、自分なりの考えをもち、表現する力に育っていく。言い換えれば、美術教育は自分を起点に、自ら美を求める人間として、あらゆる学習の道具(=用具教科〜用具を使うからではない)になり、基礎教科の役割を果たし得るのである。
4)ものや機械と触れ合う
新教育課程では、教科書の記述内容が、知識ないし概念として、教師から児童生徒へ一方的に教え込むことは少なくなっている。しかし、今の学校教育では、教えることの多さと進学学力の確保として、暗記と記憶の方法は避けることはできない状況である。その結果、学習が受け身になり、疑似体験授業や疑似環境が肥大化して、自分から学ぶことの楽しさや感じることの意義が失われている。
美術教育は実践的な認識の教育である。感覚と思考と技術−つまり頭と心と手−との結合が要請される。知識として「頭だけで知る」のではなく、手触りの実感として「手でも、心でも」、そして「からだ全体で知ること」が学習である。知育の方法は、本来このように多角的であるべきであり、美術教育はそのバランスを取る教育に大きな役割を果たしている。しかし、運動がダイナミックでも、一部の造形遊びに見られるように、素材に遊ばれ、感覚に溺れるのがねらいではない。たくさんの材料を与えられ、衝動的・感情的に学校でストレス解消をするのは真の楽しさではないだろう。
「我感じる故に我あり」であって、素材や用具を持って「我忘れる!」では主体的に学ぶ人間教育の破壊である。つまり、ものや機械と触れ合うことは、その実感だけでなく、「感じる自分」=製作や活動を通してその過程や作品の中に=“自分らしさ”を発見することである。
クールな頭の知識だけでなく、ホットな感情や想像力、アクティブに身体や道具を働かせてー体験的・意識的に『自分を導くこと』が美術教育の目標なのである。それが、自ら学び、自ら考える力である。言い換えれば、具体的に作品(主体)としての『自分をつくること』。そのために表現及び鑑賞(相互理解)の活動があるのである。これこそ、学校教育において、貴重な自分を主張する場なのである。
5)作品と触れ合う鑑賞力
絵や粘土の物質的な作品(もの)は観られることによって誕生する。この学習は、第2の創作であると言われている。つまり、ただ見るだけではない。感性的・内的な好き、嫌いとともに、作品の真義に触れるような価値の認識という感受作用が伴っている。しかし、最も大切な目的は自分と違うものに接する機会だということである。国際化への対応として、改善の基本方針に見られるように「広い視野をもって異文化を理解し、異なる文化や習慣を持った人々と偏見をもたずに自然に交流し共に生きていくための資質や能力の育成を図る」ことをねらっている。
タレントのヒロコ・グレースは、読売新聞社のインタビューに対して「世界各国の異なる人々を理解し、差別することなく受け入れるには、子供のころから異なる国々の生活や文化に触れる環境を作り、新しいことやものに新鮮な興味を示す“開かれた心(open-mindedness)”を育てることが大切」と話している。 国際化の波に対して、造形的な優劣だけでなく、その個人や国民への人間的なヒューマンな認め方。文化の違いの知識や理解への努力がこれからは必要であろう。鑑賞教育は、人と触れ合うための、他の人間性との教育的出会いの場所なのである。
6)未来と触れ合う
子ども達の無気力・無感動・無行動−それは性格の問題ではない。児童の生きて来た歴史の中で、認められず(客観的)、楽しくなかった、成功しなかった(主観的)人間の表現でもある。素材体験よりも、造形遊びの授業がねらっているものはまさにこの一点であると考えている。準備・片付けが大変でも、汚れても、児童の「思いや・素材の興味」を起点に、彼らが動きだし、未来に飛び出すことを願っている。「チョコレートは食べてみないとわからない」−映画フォレスト・ガンプの主人公の言葉だが、これは先に帆を向ける人間の態度なのである。You Can Fly!しかしこれは、教師のプログラムや感覚で児童を躍らす造形ショウのことではない。それでは、自分で舵を取る学習になってはいないのである。身を人に任せてはいけない−。始動した彼らが次に学ぶのは根気であり、試行錯誤、がまんである。美術教育とは、手軽な楽しさを味あわせ、表面的な自分を表して、自分を甘えさせることではない。それは、意欲のない人のただの造形の入り口なのです。それだけなら、工作の本を見て、町の造形教室でやればいいのです。ーいつでも投げ出せて、指導員がゴールまで手伝っ
てくれるでしょう。
しかし、彼らが自分の未来と触れ合うには、構想力と判断力、目標を達成する現実的な手段を持っていなければならない。そこには強い意志と、根気が必要なのです。電球を発明したエジソンは、電気が灯らない方法を2000も知っていたと言う。このことも児童に伝えていかなくてはならない。表面的なただ楽しいだけでは終結しない。簡単に自分の答え(作品)がでないのも造形である。汗でつくる〜この実体化の過程の生みの苦しさを実感として体験させる役割を持っている。才能教育・生涯の趣味を持つことや「ゆとりのカルチャー教室」として美術教育があるのではない。流されず・未来を切り開いていける強い人間を育てているのである。
同じように、これからの高度情報通信社会を生きていくために、コンピュータの問題も避けては通れない。情報化への対応として、視覚言語を読み取り、そして表現してきた美術教育としては、新しい社会に不可欠な情報の選択・活用や視覚・映像の表現や情報伝達能力を養っていかなければならない。DOSからWINDOWS変わりに飛躍的に広まったコンピュータ社会の立役者は、まさに窓=WINDOWに並ぶアイコン(絵記号)だったのだ。
6)問題解決力
想像力や感性は人間の全面発達として重視し、認めていくが、その大切さは今ではどの教科も唱えていることである。美術教育はデイドリーマー(空想遊び)として、現実から離れ夢と芸術で遊ぶだけの教科ではない。芸術教科ではあるが、造形教育の遊び心とは、イマジネーションや夢を持つことによって、想像の世界から現実の世界に対応でき、それらを健全なものに変えていくことのできる現実的で実際的な創造力《生きる力》と結びつくものでなければならない。それは、総合的な学習でねらっている、自ら課題を見つけ、よりよく課題を解決する資質や能力と同じものである。主体的な自己判断力と自己決定力、そこに美術教育の大きな意義がある。
児童、生徒が進んで問題をとらえ、自らの能動思考で資料や材料を揃え、経験的な生々しい事態にぶつかりながらも知識・技術を駆使し、人との協力で解決することがこの学習なのだ。つまり、先に述べた基礎教科としての働きだけではなく、美術教育は、まさに総合科として、実際にすべての学問を総合して、社会の変化に主体的に対応・行動できる(美に向かうアーチストとして)実践的な力を育てているのである。そこでは、「生きる力」と、ものを生みだす力、思考力、創造力が完全につながっている。
2、地球をつくる
新しいヒューマニズムとは、人間を主人として人間社会を中心にすることではない。美術教育も、芸術は爆発だと言って周りを汚し、自分だけが輝くことではない。これからの文化や活動の基盤になっていくのは、人間的な感性《美への心》なのである。即ち審美的(エッセィック)教育として、美に向かう作品と行動を自らデザインするのが美術教育の願いである。そのデザイン活動は人間の活動の本質である。1972年6月には、「かけがえのない地球(OnlyOneEarth)」のスローガンのもと、国連人間環境会議がスウェーデンのストックホルムで開催され、全地球的視野からの環境問題への関心が高められてきた。「脱自然」「脱生物」の線に沿って進展してきた技術文明は大きな過ちを犯してきたのである。審議会のまとめにもあるように、「環境を大切にする心を育成するとともに、環境の保全やよりよい環境の創造のために主体的に行動する実践的な態度や資質、能力を育成すること」が重要である。美術教育も大きな反省の上に立ち、「地球に美しい造形、自然にやさしい教育」を考えながら、今後人類が生存していくために環境に対する考え方、美の視点を変えていくこと
が急務なのである。人間を人間たらしめ、秩序ある自然界をつくるロゴス(理性)が今一番求められているのである。1997,11
○この論文は、教育審議会「中間まとめ」をうけ、1997,11,23に発信しました。作成にあたり参考にした、1995年10月に葛飾図工部で実施したアンケート
『あなたは、子どもの成長にとって美術教育はどういう役割があると思いますか?
』に答えてくださった23人の先生方に厚い感謝の意を贈ります。<ページ最後に全文を掲載しました。>
1 上手いことは似ていることではありません。
表現として見た場合、物の外側(表面)の形を写すことはあまり意味あることではありません。もちろん、そっくり=写真のような傾向に価値を置き、そのような作品に満足する児童生徒や父母・先生を責める気持ちはありません。また、美術教師としては自分の好きなアート傾向を優先するより、写実的な傾向の作品も認めるべきだと考えています。なぜなら、そのような視覚的タイプの児童生徒が教室にはいるからです。そのような写実力も「生きる力」として、ある職業においては今でも必要だからです。
2 生まれつき上手い(写実力)子はいません。
逆に言えば、望めば、誰でも似ているようにかけます。苦手意識を持っている子も、練習し鍛えれば、誰でもある程度はそのような描写力はつくのです。例えて言えば、キャラクターやマンガをかく子は知らず知らずに写してかく描写力はついてきているのです。だから、そっくり描きたい子に、「下手でもいいんだよ」も言う必要はありません。「努力!」たくさんかけばいいのです。
「そっくりだね」「コピーかと思った」で誉めてあげれば、その子は自信がつき図工・美術は好きになります。少なくても「私は絵が下手だ」という絵に対する一般的な劣等感を一生持たないですみます。そして、この見えるようにかく訓練は例えばアニメ業界、建築やファッション、工業デザインなどの世界でも レンダリングrendering(まだ現実に製品化されてないものを、できるだけ本物らしくかくこと)・ラフスケッチなどとして実は必要な力なのです。
一方では、このような評価の体制から一見大人のような再現的な絵を子供に描かせている会もあります。3原色のK方式はかく順番を指定し、使う色まで指示します。法則化のS式は「人間らしい鼻はどっち」と一つ一つ外形で選ばされていきます。心も頭もいりません、指導者のプログラム通りに手が進んでいきます。でもそれは実はトレーニングなのです。結果の作品で喜んではいけません。表現とは心と頭も大切なのです。デカルトの「我思う、故に我在り」 が主体の確立であり生きてる証なのです。それは、シュタイナーで言う3H「ヘッド・ハート・ハンド」の一致と同じなのです。
3.自分を表すことも上手いのです。
表現とは、EXPRESSION−自分を認識し外に表す文化なのです。その子の感じ方、表し方が自然に出ている方が価値があると思います。作品とはその子の世界を見るものなのです。まさに、芸術とは自己表現の一つの形式といえるのです。(Art
is a form of self-expression.) それが主体的で創造的な人間を育成している美術教育の行動の目標でもあります。そして指導者は、写実的だけではなくいろいろな絵があること、作者の世界や心まで表すことができることを鑑賞教育として教えていくことをしないと、クラスの価値観が固定して、あるタイプの作品しか認められなくなってしまいます。ですから、正に表現と鑑賞は一体なのです。これは意欲を高めるために、見本作品をめざしながら授業をするという鑑賞(干渉)ではなく、価値観を広めるという国際交流にもつながる文化の大切な視点だと思います。
4 美術教育も上手さをめざしています。
書写は上手いと言います。音楽も笛や歌が上手いと誉められます。体育もボールの扱いや泳ぎなど、上手さを求めて、児童生徒は目標(意欲)を持ってがんばる姿が見られます。なぜ、この教科だけ上手いがタブーなのでしょう?
○芸術だから−訳がわからない? ピカソがめざしたものは絵そのものに対する疑問でした。新聞紙を貼ったり、前と横の顔を組み合わせたり、それは造形的な冒険でした。この改革の精神を「生きる力」として鑑賞授業で話しています。ピカソの作品を「でたらめ」でも「いいかげん」でもないことは伝えるべきでしょう。技を高めるだけでなく、基本を学びながらも今の常識を懐疑し、このように新しい方法・別の手段をを考えることも上手いのです。(create
someting new)
○用具は上手いという−でも、この教科は新しさや創造性だけを養っているのではありません。釘を打って大工さん。粘土をつくってパンやさん。刃物を使って板前さん。へらを使って外科医。―など腕一本で生きるたくさんの人たちの技能の基礎を支えています。学校の知識や偏差値だけでは実際に役に立ちません。腕を磨く体験も図画工作科なのです。
これからの世界を支えていく一つはコンピュータ技術社会と言われています。です、これはOSにおいてアメリカに完全に独占されて、新しいWINDOWSで=技術者はピカソ的に工夫してがんばらないと下請け産業になりそうです。むしろコンピュータにはできない生産術で自立することが日本産業の「生きる力」のような気がしてます。そうです、美術教育はマウス操作も含めて手先の技術を育てているのです。ですから、上手いほうがいいのです。もちろん、料理は愛情−頭と連動した心をこめた手作りです。手とはまさに文化の発生なのです。カルチャーとは「耕す」ことなのですから。そしてこの体験は、是非学校教育で継続すべきなのです。
5 問題解決することは上手いのです。
主に、絵画について述べてきましたが。デザインや工作とは機能と美の組み合わが作品になったものです。児童生徒は丈夫さや素材の生かしかたなどを考えながら、試行錯誤して作品としてまとめていきます。条件のなかで創造的によい作品を作り上げる子は上手いのです。これは、技術だけではなくクリエーターとしての総合的な能力です。そして、それが自分の人生をつくり、世界平和を築き、地球環境を保全できるような実際的な対応力になると思います。これが下手なこととは…、まさに地球が滅亡することも考えられるのです。
今まで述べてきたように、上手いとは写実力や技術力のみではありません。まさに、上手に美しく生きるような、「美に向かう行動の指針」なのです。これを美術教育は実践的に学習していきます。それは、これからの人間の生き方・まさに地球の歩き方の問題なのです。1997,11
始めに
7月21日のNHKのテレビ番組「ドクター・クイーン」を感動しながら見た。インディアンの子どもに本を知識として教えようとする白人に対して、インディアンの知恵者は本では話す人の「精神が伝わらない」と嘆く。これから、白人社会に生きるための「未来のための準備」と言い返す先生に対して、「白人社会に未来はない」と言い去って行った。
これからのマルチメディア社会が人類にとって幸福かどうかは誰にも断言できない。しかし、誰もこの時代からは逃れられないだろう。なぜなら、それはデジタル革命として放射能のように地球規模で全世界を包んでしまうネットワークだからだ。そして、歴史の繰り返し―核軍縮のように、8月1日にドイツではマルチメディア法が施行されるという。悪質情報を発信した場合にはプロバイダーや接続業者まで処罰の対象になる厳しい法律のようだ。表現の自由ということで、自分勝手教育と混同した日本では高校生がメールで励まされながら(ラジオ談)ワイセツ情報を流していて、捕まるまでの数ヶ月に15万件ものアクセスがあったようだ。−マルチメディア社会は人々のマルチな欲望の渦で予測出来ないように発展していくであろう。その方向を制御できるのは、法律と教育だけかも知れない。
1 時代がマルチメディア(単純な推進・反対を超えて)
1925モホリ=ナギの著作『絵画・写真・映画』が刊行された。(バウハウス叢書)そこには、光、空間、動力学といった概念を通してすでに造形の非物質的メディアへの変革が予見されている。−世界デザイン史(美術出版社)より
現在、町へ出れば、ポケベル・携帯電話の氾濫が見られる。私たちもカードを持ち歩かなければ生活できない時代を迎えている。否定しても−すべての機械や道具の中にあるコンピュータを使わなければ生活ができない状況が既に来ている。そして、我々人類は常に説明書に悩まされ、新製品を追い求め続けて(テクノストレス)後戻りはできない時代を生きている。
2 現在の読み書きそろばん論
こらからの子ども達が、生活し、社会に出て困らないためには@主体的にデジタル情報を読み取り、Aキーボードで自分の思いを打ち込み・発信し、B流動する世界情勢を計算できる子どもを育てることも、教育の任務であろう。この、ニューメディアの活用とともに、一方では人間として機械にないもの、機械ではつくれないものを見つめ<エンジョイ・マイセルフ> 豊かに生きる道を探ることも大切な使命だと考える。それが、真の「未来に生きる力」をつくっていくだろう。この2つの道を、造形教育は指向している。
3 一つの体験論=全人的な力をめざして
クリフォード・ストール氏「機械との交流より人と人との交流を進めるのが有益だろう」1997,2,24(読売新聞)。これには教育者は誰も異論はないのである。誕生以来、子どもは心と愛情で育てられていくべきなのである。やさしい心とは、知識や機械からではなく、フェイスtoフェイス(顔から顔へ)などの、人からやさしくされた(体験=心)でのみ育てられていくのであろう。まして、人情を機械で教えることはできない。そして、これが稀薄になっていることは家族などのとの触れあい時間を増やすことが有効でしょう。そして、同じようにコンピューターリテラシー(使いこなし能力)のマウス操作やキーボードは実際に機械にさわらなければ覚えない=これも事実なのです。導入が進められている学校カリキュラムの中で、二者択一の論議ではなく、中央教育審議会の言う、「生きる力」として、人間としての総合的なバランスのとれた資質や能力を養い、「全人的な力」「総合学力」とも称されるものを求めていくことがこれからの教育では必要である。
言うまでもなく、学校では教科書や過去の知識だけを教えている訳ではない。人や自然・社会との交流を体験させることにより、人間を全的に成長させようとしている。ここに、教科を超えてコンピュータやマルチメディアの体験が始まっている。しかし、時間のない教師にとってハードデスクは、疲れて目も悪くなるハードなデスクなのである。
4 行動の、グッドデザインを!
しかし、クリホード氏の言うように、現在の勉強室「コンピュータ室」が出来て、日本も美術室・音楽室が消える状況が現れるかもしれない。 一般的には、今の社会では、美術教育は芸術教育・才能教育としか見られていない。中央教育審議会審議のまとめ(その2)には、「このうち、芸術やスポーツの分野については、学校教育の学校教育の果たす役割はもとより重要であるが、学校教育の場以外においても、才能を伸ばし、活躍する場があり、…」と述べてある。この、教科削減との布石とも思える記述を読むと、第1章の、教育とは、「自分さがしの旅」を扶ける営みと言える。−略−個性を見出し、自らにふさわしい生き方を選択していく。という理念がまるで無視されているような印象を感じる。答申は教科が叫んできた図画工作科の目標そのものなのに― 「すべての造形活動の最終目標は建築である!」〈バウハウス創立宣言〉−という主張も過去にあった。しかし、学校での美術教育は心の痛んだ子どもの内面の発散や偏差値の中で自分を取り戻す確認だけではない。まして、ただのモノづくりを進めているのではない。人間形成としては「学校教育のすべての造形活動の目標は、環境を
含めた人間美の創造である。」と考えている。付録ではなく、人間としてもっともエッセンシャル(基礎的)な学習となるものである。 あの、心の病んだ神戸のA中学生は主体的に現在のマスメディアを利用し、道具(金槌・のこぎり)を用いて犯罪を犯している。今までのように、「個性」として、変わった自分があればいいという訳ではない。「造形遊び」といって、ゴミを出しながら夢中で活動すればいいというのではない。人間として一番大切なことは、美に向かっての行動をつくる力をつけることである。この美的に「生きる力」がないと、マルチメディア工作もA少年の顔をインターネットで発信するような『刃物』に変貌していく。
1781年、世界で最初の鉄の橋がセバーン川に開通した。新しい材料や技術にふさわしい近代的形態を求める一方、機械文明や大量生産に対する異議申し立てにアーツ・アンド・クラフト」運動があった。19世紀末には自然と装飾曲線を強調するアール・ヌーボの流行もあった。機械化の肯定と機械化への抵抗という拮抗の中で造形美術は歴史をつくってきた。それは、ある意味では問題となっているモノや心とテクノロジー、自然とテクノロジーをテーマにして予見してきたと言えるだろう。
●この、マルチメディア工作は造形教育の側から現代社会に「生きる」という課題に自覚的に立ち向かった総合学習である。他教科と連携したり、工房から離れて掃除のない授業の中でも、コンピュータで作品を生み出すのが目的ではない。それを使用しない、排除することを含めて、これからのコンピュータ社会で幸せになる方法、美的に生きる方法をコンピュータでなく自分で考えていく能力を養いたいと願っている。
5 発表もマルチメディアから
コンピュータ画面をプロジェクターで拡大映写して、発表文・写真・作品が電動紙芝居的に自動的に変わっていきます。もちろん、スライド助手はいません。雰囲気づくりでバッハと音楽も途中で挿入しました。途中で停電したり、機械の故障の時は私のつまらないお話をお聞き下さい。これが、マルチメディア時代の恐ろしさなのです。
6 情報もマルチメディアから
(1)ネット上の1600校といわれている学校ホームページの紹介ページ(2)インターネットによる題材研究の紹介7 発表プログラム(1)本校のコンピュータ室(2)3年生の初期的CG(3)4年生の空想の生き物CG(4)5年生のイラストCG(5)5年生のグラデーションCG(6)6年生の抽象画CG(7)委員会の作品(8)6年生キューブプロジェクタを使っての作品〔アニメ・音声・CD音楽を挿入してのマルチメディア工作〕(9)図画工作科、本校ホームページの紹介 〔社会への美術教育の発信〕
8 資料 《事前にお配りした本日の研究要項より》
1.多彩な情報表現をめざして
「マルチ」Multiとは、複数の、多数のという意味である。「メディア」Mediaとは情報を伝える手段としての情報媒体である。従来の造形領域の絵画や工作のように絞らず、―音声・文字・静止画・動画の4つのメディア(情報)を同時に扱うものをマルチメディアという[96年現代用語の基礎知識より]。そのデジタル技術をベースとした発表・鑑賞を含めた双方向性(対話型)の創作をマルチメディア工作という。[97年私の現代用語]
2.情報もマルチメディアから インターネットによる検索/YOHOO!JAPANのコンピュータとインターネットのカテゴリには、5月10日現在553件「マルチメディア」で登録されている。こねっと・ワールド推進協議会の会長NTT池田茂常務は、その挨拶の中で「21世紀の日本を担う子どもたちに、国際的な感覚と豊かな想像力を併せ持った大人になってほしい、そのために“こねっとプラン”を始めた。」と述べている。また、小杉隆文部大臣は「全国の学校にマルチメディア環境が整備されるよう文部省として支援していく。」と述べている。今、ネット上にこどもメディア研究会が生まれている。
3.マルチメディア社会と美術教育
「マルチメディアを知らんで明日を語ったらあかんよ!」竹村健一(PHP研究所)によると、アメリカの情報スーパーハイウェイ構想(NII=全米情報基盤)では2000年までに、すべての教室、図書館、病院をNIIで結ぶことを目標としている。日本でもNTTのISDN(総合デジタル通信網)の計画では、2015年までに光ファイバーによるネットワークを家庭までに敷設し、マルチメディア通信を実現する計画である。今の子どももタマゴッチを育て、ポケベル・携帯電話・プリクラといったメディアをコミニュケーションとして活用している。これからのマルチメディア時代でも造形遊び・美術教育は多くの材料や、情報に囲まれても―それに溺れず、主体的に生きる力(センス)を培っていくはずだ。 葛飾図工部ではそれを「図工のデジアナ」12/5都図研城東大会と名付け、造形教育センターでは環境を含め「デザインする子どもたち」8/4〜8/5夏の研究大会と呼んでいる。
4.実践発表
「200年後の世界」「動く抽象画」など 平成8年度のキューブプロジェクター使用した6年生の作品です。文部省のコンピュータ小学校22台、中学校42台構想も進んでいます。マルチメディアに接触できる、積極的な子どもの育成をめざしています。アナログ表現科として、コンピュータと技術提携をすべきです。マルチメディアとの対応が造形教育の21世紀を決する予感がします。 1997,7,30
教 科 ア ン ケ ー ト の 集 計 1995,10,25 |
☆あなたは子どもの成長にとって、美術教育はどういう役割があると思いますか。
◆ 葛飾区図画工作研究会教科理論部実施
◇他の教科と同じように普遍的な知識や技能、方法を子どもたちに伝える使命をもっている。
◇西洋に追いつけ追い越せでやってきた日本の政策のとりこぼした部分を埋める重要な教科だと思うのだが、今の教育の方向がそうなっていないことにとても危惧を感じる。何でもはやければよいのか、たくさん詰め込めばいいのか?そういうことだけに価値を認めてきたことを反省する時期にきているような気がします。
◇他の教科にない(足りない)創造、表現の自由性があり、それが子どもの図工大好きにつながっていると思います。
◇想像力(イメージ)・夢を育てる。 ・心象風景を色や形に表現することの楽しさを体験する授業、そういう時間があることは、子どもにとって大切なことです。
◇子ども性 ・型にとらわれない自由な発想、子どもらしさを伸ばすのにとても有意義だと思います。
◇技能・手先を器用にする。手先を使う作業や物を作りあげることによって、日常生活に欠かせない種々の技や感覚を身につけさせていくことができる大切な教科だと考えている。ただ学級担任が指導していくには、技術的な面、専門的な知識に欠け有効な授業ができていない場合が多いように思う。・技能面(指先、手、を使った道具の操作。色づくりなど)の育成・手先の器用さ(日本人独特の)が脳の働きと関連すると信じる。・学年を追って高度になっていく“技”に誇りを持ち、家庭や学校生活の中で活かすことができる。・小学校期に手を働かせて作り出す活動は他の心身の発達にも深く関わるものであり大切と考える。・子どもに「自分自身のやりたいことを実現できる技術」を獲得させる。ー教師は「やりたいことを見抜き、共感をもって造形上の助言(材料・技術)を与える」大人の助言者でありたいと思う。・ポスター、看板など生活、仕事の場で基礎的技能を生かす。
◇感性(感覚)・美的感覚を育てる。・美的感覚をみがく(均整・調和)・子どもの心の柔軟さを養う・人間の内面の豊かさの必要性が見直されている現在、重要な役割をになっていると思います。・真、善、美の感性を磨くことにつながる。それらの感性は有機的に連鎖しているものであり、その感覚を研ぎすまさないと、時代をのりこえられない。略教育は、つきつめれば上記の三つの訓練である。・子どもたちの「感性」を触発し、その子なりの新鮮な物の見方や考え方を培い、自分らしさを見つけさせることが大きな課題だと思う。「感性」に正しい、間違いの別はない。又、教師のそれが子どものそれより勝るということもない。・自分の感性をひき出してうちこめる教科である。外国に行くと色彩感覚、都市設計、建築物など文化的施設も加えて素晴らしいのだが、日本のそれはまだまだ貧弱であり国の基準などあるのだろうかと思う。
◇内面の解放 ・言語や体で表現できない感覚や主張、感情などを表出させ内面を解放させる役割があると思う。・内面の表出・子どもは、「大人に守られ理解され愛されること」を本当に必要としているので、ありのままの自己を表出しようとする衝動や表現をなそうとする衝動を、大人が大切にうけ入れうけとめてみせるのは大切なことと思う。子どもの心のなかにも、大人に劣らない喜び・悲しみ・悩みが大きく深く生きており、それを自分にわかる方法で表現し理解し解放することは生きる為の欲求であり、人の成長に大きな影響を及ぼすものだと、私は個人的に確信している。・現在の子どもは、自分の心を表出するチャンスをたくさんもっているだろうか?自分や友達の表現を顧みるに値するものと、うけとめているだろうか?そもそも、マニュアルを学び受け入れるだけでなく「どんなに稚拙でも自分自身の真のもの」を大切に育て展開するよう扱われたことがあるだろうか?
◇情操(心情) ・心が豊かになる・情操教育・情操教育を高め小学校時代に豊かな感性が育まれる。・心に潤いを持つ・子どもたちの情操を養い、豊かな人間性を培うために大変重要だと思います。・自分の思いや願いが作品に表すことができる力は図工の時間で培われるものと考えている。それが豊かな心情を育てることにつながると思う。
◇表現力の育成、喜び・国語、音楽と共に表現力を高める、また、豊かな心情を育てるために、なくてはならぬ教科だと思っている。・口や文字で考えを表現するのが苦手でも、絵や形でという子もたくさんいます。・表現、創作するよろこびを知る・全員が同じ答えをだすのでなく百人百様の表現が許される唯一の教科です。個性個性といわれ続ける現代(特に日本人の考え方が画一的)の大事な要素になっていると思う・美術教育は、造形的な表現のよろこびを体験として心に残すこと自体が目的であり、その役割と言えるだろう。・目的を持たない造形活動というものを、美術教育の主流にしてはけないのではないかと思う。・対象をていねいに観察する。対象に同化する。思いを表現する。製作する喜びを味わう。素材を理解し、自然に対する思いを深める。工夫する喜びを知る。・作品完成や造形的行為の課程において、試行錯誤しながらも完逐しようとする粘り強さや根気、やりとげたときの成就感の体験など、生きる意欲と情熱の基礎を培う。
◇体験学習・知識だけでなく、感情や想像力・材料・用具などを使い、行動として自分を導き、具体的に作品として自分をつくることが目標である。造形的自立から人間的自立へ導く役割がある。・教師の用意した題材や材料や環境という枠というか、まな板の上で、生き生きと発想を広げ、試み、発見しながら自分なりの表現をしていく。そしてその過程で知らぬ間に道具に慣れ、技術を高めていく。・子どもに「さまざまな材料体験」を与える。
◇個性の自覚、伸長・表現とは“自分”というものを探すことともいえるのではないか・製作や活動を通して“自分らしさを発見し”“思う”こと。・自分の個性を見つける・自己形成、自分の個性に自ら気づき、自己を尊重していくとともに自分にないもの、一人一人の違った個性や良さに気づき、自他共に大切にしていこうとする、人間として大切な精神を養うことに貢献できる。
◇創造力の育成 ・未来に育っていく若者達に、コンピューターではない自分だけのものを手で作り創造して欲しい。ワンンパターンの文化をレベルの低い文化を壊し、大人もそれを教えていかなければならない。・物事を一方的な考え方だけでなくいろいろ多面性から考えられる人間を育てていくためや、他を認めていくなどにも通じることのように思います。・情報化社会、コンピューター導入の社会では、人間の独自性、独創性、マニュアルに頼らない、場に応じた適切な判断力、行動力が求められる。教科の中で独自性、独創性、創造性を指導の中心とする美術教育の存在意義はより大きくなると思われる。・美に向かう行動と作品をつくるのが造形教育(真のデザイン教育)・思考力を高め(考えなしでは作れない描けない)
◇主体性の育成 ・個別作業を通して・「子どもたちが主体的に生きていく力を培う」という新しい教育観で図工という教科を考えると、どの教科にも増して一番その力を育てるのに適しているのではないかと思う。・自分の個性を知り、認め、自信を持つことができれば、主体的に生きていく力は大きく育つように思う。・子どもに欠けがちな物事に積極的に(前向きに)取り組める大切な教科だと思います・子どもに「なにを創るか・なにを描くか・表す事の自由」を保証する。
◇国際性の育成・国際化社会では、自己をどう伝えるかという自己表現力、自己のアイディンティティを持った人間が求められる。自己のアイディンティティ追求力養成に貢献し、言葉の壁を越えて交流できる美術の役割は再認識されるべきだ。
◇根気強さの育成 ・作品作りを通して
◇人間性の育成、経験・美術教育には、自他の表現をとうして「すぐれたもの」を見抜く目、直感し理解する力、実現する技術をもった手など、子どもの成長に大切なものが沢山含まれている。中でも自分自身を大切に扱い、現実生活を実感をもって生き、創造的にものとかかわるという「子どもが子どもである自分を好きになる」ことを含む教科として、大切だと思う・これからは、自分の力で考え行動できる、「生きる」ということの価値を自らとらえることのできる子どもたちを育てていける教育が求められるのではないでしょうか・ものを創る過程で、無意識のうちにでも自分と向き合う、という経験ができる。中には「図工は苦手!」と思う子も多いだろうが、広く芸術的な活動の中で、自分と向き合うことの良さのようなものを子どもが感じてくれればいいなぁ、と思う。・子どもの成長の時点で、その場ではすぐには効果が見えなくても、後になって少しづづそれとはわからない形で現れてくるのが美術教育なのではないでしょうか。・知育偏重になりがちな価値観になることなく、芸術・文化を愛好することは生きていく上で、自分自身を豊かにしていくといったバランスのとれた価値感を形成
するためにも、教育の中で美術教育は大切だと思う。・他人を理解する・子どもは様々な体験を積み重ねながら、各個人の人格を形成していく。・工作については、イメージを持ちながら素材に働きかけ、物を作り出し、それで遊ぶなどの過程を通して、人間本来の労働の過程を体験させる意味があると思う。これは私たちが現代の人間阻害の社会に生きながらも、常に人間らしさを取り戻そうとする回復力を形成することに連がるのではあるまいか。・美術教育は、子どもを励ますものであるように、教師として努力していきたい。・人格の形成にとって創造活動は大切なものであり、美術教育が児童の想像力、構想力を育成し、創造活動の基礎的な能力を育てていると考える。・作品や自然に接して深い感動を覚え、豊かな人間性を育てる。又、他の人間性を理解する。
◇環境教育 ・地球(OnlyOneEarth)と一つしかない自我を守り、また、その調和を図ることが大切であると思う。=行動と地球をデザインする造形教育・生活環境を使いやすくし、見た目にも心地よく、デザインしたり色合いの調和を考えるなどの基礎を養う。また社会全体の環境を主体的により良くしていこうとする態度を培う。・実生活で日常的に使うもの一つ一つの選択に美的センスを生かしたり、リサイクルを工夫して地球資源を大切にしていくなど、物に対する認識を深める。
◇鑑賞の態度・自分と他人の良さを知る ・良い(?)作品にふれるのは、子どもの内面を伸ばすと思います。発想の転換をさせてくれたり、違った見方を与えてくれたりしてくれます。・何事につけ、良い物、本物に触れるということはとても大切だと思うので、鑑賞という側面で大きな役割を果たしてくれるのでは…。・人類が創りだしてきた文化(美術)に参加し、また享受する。
◇生涯学習・制作、鑑賞活動など、余暇の趣味を充実させ心豊かに生きる。特に美術はスポーツよりも高齢になっても楽しめるので、高齢化社会ではさらにスポットが当てられるだろうと思う。
◎アンケート回収 学級担任・図工専科 計23名 (原文を掲載し、分類は理論部で行った)
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Monday, 18 January 2021