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第二話  一九九二年の夏休み ・ 1


破滅の匂いのする夏――

真っ……白。
脳裏まで。白という色すら、焼き尽くされたようだが、たとえるとすれば、それが一番近い
色だろう。太陽は、赤でも黄色でもない。白い炎の中心地。
光・光・光……記憶の陰画を焼き付ける。

彼女は、照りつける日差しに、ハッと目を覚ました。
一瞬、何も見えず、何も聞こえない。灼けそうな網膜……蘇る音声。あぁ……そうだ、と
思い出す。今は確か、授業を受けていたはず。そこまで分かると、その音声も、ちゃんと
教師の説明として理解され、耳に入るようになるから不思議だ。

――嫌だ、いつ眠っちゃったんだろう。

Nは、「しまった」と冷や汗をかいた。が、辺りを見回した限り、誰一人として、窓際の彼女を
気に掛ける様子はない。教壇に立つ教師すら、叱るどころか、彼女の居眠りにすら気付いた
様子もなく、黙々と、テープレコーダーのように喋り続ける。そしてその「音声」を、生徒達は、
自動書記のようにノートに取っている。あんな大胆に机に頭を落として眠っていたものが、
誰の目にも留まらないというのは、奇妙なことかと思われるものだが、その時の彼女は、
ただ、「ラッキー!」と胸で呟き、喜ぶだけだった。

「――ね、私、さっき派手に居眠りこいちゃったんだけど、気付かなかった? 先生……
 見てなかったのかなぁ」
休み時間に、クラスメイトを捕まえて、Nは聞いてみた。彼女は、ボブに切り揃えられた髪を、
ふわりと振り向きざまに靡(なび)かせ、笑って言った。昼下がりの、まやかしのように。
「さぁ……気付かなかった」
それだけ言うと、またスルリとNの手から離れていった。何か……変だとは思った。
ずっと以前からの友人のはずのその笑顔が、妙に虚ろなものに映った。何だろう……何か、
おかしい。しかし、それが何なのか、何が違うのかは分からなかった。

また、授業が始まる。やはり、おかしい。教師は、何も語ってはいなかった。いや……何かを
喋ってはいるのだが、その目は何をも見てはおらず、語りは目標を持ってはいない。
生徒達も、話を理解するという様子はカケラも無く、ただ発せられた信号を、機械的に
受け止める受信機(レセプター)の如き状態に見えた。――これは何だろう。見知らぬ人間、
存在に囲まれたことに、突然気付いた時のような不安が、Nの胸にわき起こった。
砂時計から砂がこぼれ落ちるように、次第に募る不安。「何だか怖い」――理屈はなく、
本能的な、漠然とした恐怖への前奏曲とでもいう予感のみで、そう感じていた。
何故……何一つ、昨日や、それまでと寸分違う所が有る今日だとも思えないのに。
一体、どうしてしまったのだろうか。……周囲が? それとも……自分が。
Nは、誰一人として、自分を「見る」者がいないことに気付いていた。こちらを向いてはいても、
その実、その目は彼女を見てはいない。かといって、その場には無い、別な「何か」を
見ているわけでもなく、本当に「何も見ていない」のだ。――それは、言われようのない
恐ろしさを、彼女に味わわせていた。まるで真っ白い紙の一点から徐々に炎が広がり、
そこに恐ろしい闇を築いてゆくような恐怖だった。彼女に「関心」を持つ人間がいない。
それが、こんなにも恐ろしいことであるとは、Nも先刻まで気付かなかった。しかし今――
知っていたはずの人間が、皆全て異邦人となり、知っていたはずの場所すらも、心もとない
足元に発たされているようなぐらつきを覚えさせるばかり。知らないはずはないのに……!
不確かな、しかし存在自体はあきらかな異変に対し、Nは何をしようと思うわけではなかった。
まだ、理性的な判断は出来ない。この、インクの染みのように、小さくとも次第に広がり行く
ような狂気の浸食を、まともに考えるのは、確かに恐ろしい。考えるだけでも忌まわしいこと
だろう。それよりは、一切の情報をシャット・アウトし、保身に回るのが、まず常人の取る
行動だろう。

――でも、やっぱり違う、何かヘン!

Nは貧血を起こしそうになり、新鮮な空気を求め、窓の方へと向いた。どうせ教師も、
見ていやしないのだから、気にすることはない。今はただ、胸の苦しさから救われたかった。

――誰か、誰か、この真っ白な闇……何かが狂った空間から、私を連れ出して!
   でも……誰が? ……何処へ? 

その当てもないのに。Nは、苦しみながら自嘲した。何を馬鹿なことを……と。
これは夢? それとも現実。誰一人として自分を「見ない」。いや、何も「見ない」、異常な次元。
その中においては、自己同一性(アイデンティティー)など、意味を為さない。
 “意味がない”
第三者なくして「自己」など存在し得ない。つまりはN自身も、否応なく、その虚ろな集団へと
引きずり込まれ、それが彼女自身の「自我(EGO)」に成り代わってしまうのだろうか。
何よりも恐ろしいのは、その得体の知れない狂気の中に堕ちてゆくような予感。

――誰か 誰か 誰か…… あたしを 見て……!

見付けてほしい。「自分」という、唯一の存在。他の誰かとは絶対に違うはずの……
そのはずの……!


一人の少年がいた。授業中……であるのに、Nが視線を逃した校舎の隅……学園裏の林を、
歩く少年が。先刻とは変わり、日差しの強さの他にも、柔らかに凪ぐ風があり、さわさわと
木立をそよがせていた。白いシャツ、制服の少年。男子部の生徒。不意に彼が視線を上げた
ので、Nはビクッとした。――……彼は、見ていた。
突然のことに、Nは息も止まった。彼は……二階にいる彼女を、Nを、見た。「向いている」
のではなく、確かに。
一瞬の永遠――それから、ハッと目覚めたように体が震えた。見知らぬ少年だった。
だが今、彼女にとって彼は、やっと巡り会えた友人のような気がしてならず、今すぐ彼の元へと
駆けていきたいような衝動に駆られた。その反面、体は凍り付いたように強ばり、動けなかったが。
けれど……あぁ、会いたい、話したい、声が聞きたい――今すぐにでも、ここから逃げ出して
しまいたい! 彼と共に……。
行ってしまわないだろうか、彼は。このまま、また何処かへ行ってしまうのではないだろうか。
その前に一言……それだけで良い、口をきいてほしい、応えてほしい。
永遠に繰り返される疑問――“これは現実なの?” 
ねじれた空間の狭間(はざま)で藻掻く自分の手を引いてほしい。
ふっ……と気が遠くなり、一瞬、机に顔を伏せた。そして、次の瞬間に目を上げると――

――……いない。

あれは幻? 彼女の、静かなる狂気の入り口だったのか。そんなはずは……。
だが、少年の姿は、もう何処にも見当たらなかった。Nは愕然とし、きゅっと目を瞑ると、
両手で顔を覆った。やっと昇った丘の上から、谷底へと突き落とされたような絶望……
そして悲嘆。

――このままでは、私もおかしくなってしまう……!

Nは、必死に抗った。自己を失いたくない。そんなことになれば、自分は最早人間では
なくなる。それに勝る恐怖は、今の彼女には無かった。

――助けて 助けて 助けた 助けて……!

何度も何度も、エンドレス・モードで叫んでいた。ここは人形の家。意志を持たない自動人形が
踊り続ける。狂った機械のように、くるくると終わり無く回る……。

――違う 違う ここは私の知っている世界じゃない……


授業が終わると、彼女は校舎の外へと駆け出した。風の中を走った。あの林……確かに見た
はずの少年。けれど……誰もいない。Nは、今度こそ絶望して、大声で叫びそうになった。
しかしその前に、木にしがみついたまま、ずっ……と滑り落ち、座り込んでしまった。
「何処なのよ……ここは。何なのよ、一体……!」
体が粉々になってしまいたい程の悪寒に襲われた彼女は、木肌を拳で叩いた。
痛い、痛い、痛い! そう感じられるだけ、まだ自分が正気で……「自分」でいられる
のだという木がした。だから、もっと叩いた。それが地面を叩き始め、無茶苦茶に草を
引きちぎるようになり、彼女から次第に、感覚というものが失われていった。



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