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第二話  一九九二年の夏休み ・ 2


いつしか、彼女は気を失っていた。風……風が、彼女に触れたような気がした。
柔らかに彼女を揺らし、その眠りから覚ますように。Nは、それが人間の手だと分かり、
ハッと身を起こした。目の前にいたのは――あの少年。
「……また私、幻を見ているの」
地に倒れていた彼女は、まだ意識朦朧としながらも、その目に映った少年の姿に消えられない
ようにと、精魂を込めて目を開いていた。
「幻? ……違うよ。僕はさっきも、君を、見た」
少年はクスッと笑うと、Nを起こしてやった。もう、かなり時間も経ったのか、西日の強い光が
射していた。
「大丈夫かい?」
その瞳……今まで、誰一人として「彼女」を見はしなかった眼――今は、彼が見ている。
「自分」を……!
何と美しいのだろう。Nは、心底から思った。本当に……「何か」を見つめる目には、
心がある。命が見える。「人間」が感じられる……。その美しさに、初めて気付いた気がした。
「……どうしたの?」
Nの目から涙が滑り落ちたので、少年は心配そうに眉をひそめた。Nは、きゅっと目を瞑ると、
はぁっと息をついた。「やっと……逢えた……」と、心からの安堵に呟き、その涙が、はらはらと
落ちたのだった。
「あなた……私を、見付けてくれた……」
奇妙な言葉だったに違いない。しかし少年は、その意味を理解していた。

「……あぁ。僕は、君を見付けたよ」
「男子部の人でしょう? それがどうしてここに……」
「――君のような人を探しに」
そして彼は、ここは場所が良くないから、誰もいないであろう湖の方へ行こうと、彼女の手を
引いてくれた。手を……そのまま、そう、その場から連れ出すように。
「――僕はM。君は?」
「……N。でも、本当は……もう自分が何なのか、分からなくなりかけているの」
「――気付いたんだね。あれに」
Mと名乗った少年は、立ったまま、静かに波立つ湖面を見つめた。
「あれって……何?」
「『無関心』だよ。――恐ろしい毒霧のように、そこここに漂っている。まるで疫病のように、
 人々に取り憑き、蝕んでいる」
「……病気、なの?」
「さぁ。だが、まっとうなものじゃあ、ないね。君は、いつ気付いた?」
「ほんのさっきよ。それまでは……何も、何もおかしいなんて思わなかったのに」
ギラギラと光る陽の下でも、何だか寒いような気がして、彼女は膝を抱き寄せ、小さくなった。
「今、どうして自分がここにいるのか、思い出せるかい?」
「えぇ。……今は、夏休み。この広い学園にも、一学年一クラス分位の人しかいない。
 首都の大学校に進学する為の……特別講習期間の……はず」
首都の大学――約束された未来。ヒエラルキーの頂点に立つ、砂漠の砂の一粒のような
人間達の世界への扉の鍵。この超エリート学園からも、入学が叶うのは、精々一パーセント。
「あなたも?」
「そうだよ。そのはずだった。が、ここはもう、今までの学園じゃない。……何かが変わって
 しまった。いつからなのかは、僕にも分からない」
彼は、ふと屈んで小石を拾うと、水面(みなも)へと投げた。
「逃げましょうよ、ここから……!」
おもむろに、Nが言った。
「一人じゃ、どうしようもないと思ったけれど、二人なら……ねぇ、出来るわ!」
「――何処へ?」
Mは、笑った。
「君は……ここが何処かも忘れたのかい?」
その一言に、Nは愕然とした。……そうだ。彼女も知っていたはず。「ここ」が一体、どういう
所であるのか。
「それに……何処に当てがあるわけでなし。ここよりマシな所があるのかも、疑わしいよ」
意地悪などではない。真実の言葉だった。しかし、それを最後の希望とも思い、すがった
彼の口から言われたショックは、彼女にとって甚大なものだった。魂を抜き取られたように、
全身から力が落ちた。
「でも……ここから出たいわ……! 誰も……誰一人として、私の知っている人はいない。
 そんなはずないのに……。このままここにいたら、絶対に気が狂っちゃう!」
彼女は、Mを見つめた。
「怖いの、ここにいたくない……!」
Mは、怯える少女を、労る瞳で見た。
「……確かに。ここには、僕等の味方は一人もいない。……一人もね。そればかりか、
 こうしているのが見つかれば……」
「誰に……?」
「……或る意味において、全く存在しない――しかしまた或る意味においては確実に
 存在し、僕達を監視している奴等。僕等が『心』を持っていることに気付かれれば……
 きっと、狩られる」
その言葉に、Nは戦慄した。意味はよく分からない。けれど、“殺される”という言葉と、
同義に感じられた。Nは、ぎゅっと両肩を抱くと、大きく頭を振って、立ち上がった。
「ねぇ……逃げようよ、何処だって良い、ここじゃなきゃ……あなたがいてくれれば良いわ、
 私、独りじゃない……!」
彼の腕を取り、嘆願した。
「このままここにいて狩られるより、じたばたしてでも逃げようよ、じっとしてなんかいられない!」
Mは彼女を見たまま、何も言わない。
「私達、人間よ……? 私はあなたを見付けた。……あなたは私を見付けてくれたわ、
 紛れもなく『私』を! このままじゃ私達、あの『無関心』に殺されてしまう、心を吸い取られて
 ……ただの人形みたいにされるんだわ、機械仕掛けの……心なんか、感情なんか何処にも
 無い。そうなったら私は、私でなくなる、人間でもなくなる……そんなの嫌、嫌……」
また彼女は、Mの腕を取ったまま、座り込んでしまった。肩が小さく震えた。背後から闇に
追いかけられ、逃げ続け……疲れ、これ以上、もう走れない。そんな、哀れな子供のようだった。

Mが、そと彼女の肩に触れた。
「……分かった。一緒に逃げよう」
彼の言葉に、Nは、ゆっくりと目を上げた。
「本当……?」
もう、涙が滑り落ちるのは止められなかったが、まだ糸一筋の望みは繋ぎ止められたという
思いに、何とか言葉が紡がれた。
「じゃあ……逃げて、今すぐ、ね……」
両手で彼の腕を掴み、立ち膝のまま、Nは誰よりも、自分自身に言い聞かせるような、
不安に揺らめく言葉を取り返した。
「……すぐとはいかないよ。何の策も無しに行くのは、危険すぎる」
「そんなの、どうでも良いよ……!」
「――落ち着いて。……辺りも暗くなってきただろう? どうせなら、すっかり陽が暮れるのを
 待とう。その方が安全だ」
彼に宥(なだ)められ、Nは少し落ち着いた。
「本当に……逃げてくれるのね……?」
「あぁ。約束する」
「本当よ、約束……本当ね?」
うなずくMに、Nは深い溜息をついた。――出て行ける。この恐ろしい場所から。
この周囲を包みつつある夕闇よりも、もっと恐ろしく、歪んだ空間から。



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