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第一話  通り魔 ・ 1


「――行ってくるからな、美澪(みお)
そう言って戸に手を掛け振り返ったのは、二十歳(はたち)になるやならずの、しかし何処か
落ち着いた様子の青年。しかし、男というにはあまりにも美しいようで、少年というには、
いささか妖しすぎる。女と見まごう美貌だが、それもまた、女と言うには冷たすぎ、
(けん)のあるものだった。
「お兄様……早く帰っていらしてね」
奥からは、女の声。いや、少女か。おそらくは男の妹。見送る寂しさも忍びないものなのか、
姿を見せようとはしない。細く、美しく、涼やかな声は、春雪より湧き出でた清水の流れを思わせる。
「夜更けになるやもしれんが……お前の為に早く帰ろう」
「……待っています」
「それよりも美澪」
思い出したように、青年は付け加えた。
「いつも言っていることだが――人が近付いても、関わり合いになるな。ろくなことにはならん。
 お前は特に」
「……分かっています。美澪も……お兄様以外の方とは、恐ろしくて……近付けません」
「――お前は俺の大事な、たった一人の妹だ。……もう、悲しい思いはさせたくない。
 辛い思いも」
奥の方は、薄暗くて様子も分からないが、外から見た限り、かなりひどい山家(やまが)だ。
とても、年若い兄妹が棲まっているとは思えぬ風体で、たとえ何者かが通りかかって人影を
見たとしても、狐狸(こり)の類と決めてかかるであろうという程だった。

その寂しい孤家(ひとつや)に妹を残した青年は、軽装のまま、道険しい山を下り始めた。
山中は、昼夜も分からぬような鬱蒼とした樹木に覆われ、足元すら危うい。
そんな「道なき道」を、彼は独り、ひたすら歩いた。

半刻もした頃か、不意に人影が彼の目に映った。向こうが彼を見付けたのは、それより
少し先のことであったが。年の頃は三十路とまではいかず、精悍な男だった。
山暮らしが慣れた様相で、岩の如き頑丈さを思わせる。その山男も、ようやく上方からの
人影に気付いたか、この陰暗とした山中には、どう見ても相応しくない美しさの若者の姿に、
しばし立ち尽くした。
「……狐じゃあねぇだろうなぁ」
その呟きは、言われた当人の耳にも届いた。
「狐とは俺のことか」
「あぁ、やっぱり人か。いや失敬――あんまりあんたが山中に不似合いな程美しかったんで
 ……バカされたかと思った。あ、おい!」
無言で通り過ぎようとする男の肩を、山男が引き留める。
「旅の者だ。この上には何があるんだ? そろそろ、当てもなく歩くのもやめようと思うんだが、
 なにぶん、ここいらでは勝手が分からん」
「――何も無い。行っても獣が棲むばかりだ。それこそ、化かされるどころか、喰われるぞ」
無表情にそれだけを言うと、山男の手を振り切って、山を下りる道を急いだ。
「きっれーな顔して、愛想のカケラもねーや。……だが」
山男は、ふいっと、あの美しい男が降りてきた方角を見やった。
「あんたは……あそこから来た」
見通しも効かぬ、不気味に深い緑に埋もれた道をも恐れぬのか、不敵な笑みが、口元に
浮かんだ。

このように薄暗く、陽もろくろく射さぬような場所に、当初山家を建てたのは、何者であったのか。
人目を忍び、陽の目からも逃れるような棲まいは、生気の在処(ありか)をも、うち隠す。
山男は、朽ちかけたような戸に、手を掛けた。ガタッと音はしたが、思いの外簡単に開いたのは、
やはり日々使われている証(あかし)であろう。
「お兄様? どうなさったの? お忘れ物?」
その音を聞きつけて、奥から女が、急いでやってきた。だが彼女は、戸口に立つ見知らぬ
男の姿に、愕然とした。
「……誰?」
女は、柱の陰に身を隠すように立ったが、それは、さして意味のない行為であった。
女が未知の男に怯(おび)えていたとすれば、男は未知の女に、戦慄していた。
――美しい。美しすぎる……。
このような山中の孤家に棲まう身分とは到底思えぬ。戦で落ち延びた高貴の姫の末裔かと
思うのも無理はない。身に纏う着物こそ粗末なものであったが、雪と氷とが溶けあう肌の色には、
それも忘れさせられる。折れそうな程に華奢な体には、身の丈に余る黒髪が艶やかに絡み、
消え入るような溜息に揺れ惑う。
「一見したところ……人の棲まう気配も感じられず、無礼をいたしました。いや失敬、
 旅が長いと、どうも礼儀と疎遠になっていけない」
この妖しいまでに美しい、儚いまでに清楚な女は、異形の者を見るような目で、恐る恐る
男を見ていた。よく見ると、先程の男と似ていることから、その妹ではないかということは、
すぐに察しが付く。ということは、二人でここに棲んでいるということも、察せられる。
「あなた独りで、ここに棲んでおられるのですか」
「いえ……兄が一緒におります」
「それならば、無礼ついでの申し出も、聞き届けていただけるでしょうか。実は長旅の途中。
 いささか疲れ切っていましてね。――一夜、夜露をしのがせてはいただけないものだろうか。
 明日にはまた、旅に発つ身。野宿には慣れているとはいえ、体が……」
「こんな荒れ果てた宿よりも、野住まいの方が情趣のあるだけ、ましというものでしょう、
 旅の御方……」
婉曲した拒絶に、男はちょっと残念そうに、
「そうですか。……いや、旅の男など、素性も怪しまれて当然。厚かましい申し出については、
 ご寛恕下さい」
「いえ、いいえ、そんなことでは……」
女は心根が優しいのか、咎(とが)められたことを苦にした子供のように、美しい眉をひそめた。
「いやいや、無理を言いました。だが……折角こうした縁でたどり着いた山家。その名残に、
 茶の一つも、旅休めにいただけましょうか」
「えぇ、それは勿論……」
男が、意外にあっさり引き下がったのに、胸をなで下ろしたか、少し柱からずり落ちたように、
女はトンと足を踏んだ。

男は、上がり框(かまち)に腰を下ろし、一息ついた。
「しかし……あなたのように美しい女人が、この山中に棲まわれているとは驚いた。
 ここは、長いのですか?」
「……いいえ」
女は、そっと茶を差し出した。
「なかなか慣れません。何かと不便な毎日で……今日も、兄が用を足しに出掛けました」
「その人なら、先刻すれ違った。あなたとよく似た美しい人だったから、きっとそうだろう。
 ……二人でねぇ。何処からか、旅をなさったか」
女は口を噤(つぐ)んだ。語りたくない事情でも有るのだろう。それならば、強いて聞くこともない。
「私は、当てもない旅を続ける身。得るものといえば、諸国での色々な噂話程度で、
 何の実になることもない。因果ですなぁ……」
どうもこの女は、自分からはなかなか口をきいてはくれない。その声すらも美しく澄むというのに、
容易なことでは、耳にすることもできないらしい。確かに、あんな兄と二人だけで暮らしている
のであれば、山男のような未知の男が、恐ろしくて仕様のないことだろう。かといって、男は
遠慮するようでもなかったが。
「……おや」
しばらく沈黙が続いた後、ぱらぱらと、木の葉が落ちるような音が、屋根の上から聞こえた。
それは次第に増え、やがて滝の流れのような音へと変わった。
「雨……」
女が、不安そうに、壁の遥か向こうを見つめた。
「これは酷(ひど)い……山肌を削るような勢いだ」
男は、女が兄のことを案じているのだと、すぐに分かった。だが、それにも気付かぬ素振りで、
ただ大きな溜息をついた。
「やれやれ……これでは雨が上がるまで、歩けもしないだろう。茶もいただいてしまったが、
 もう少し……お邪魔させてはいただけないか、娘さん」
女は、「えっ……」と身を震わせたが、流石に頑(かたく)なな拒絶はできないのか、小さく頷いた。
――この雨では、女の兄も、すぐに帰っては来れないだろう。
「そうだ……まだ名乗ってもいなかった。私は冬悟(とうご)ですが、あなたは?」
急に名を尋ねられたからか、女はまた、びくっと身を震わせた。その度に体が縮み、着物から
細い肩がすり抜けるような錯覚を見せる。彼女は小さくわななく唇を、そっと開いた。
「美澪と……申します」
「みおさんか。良い名だ」
疲れの為か、縁が赤く染まった目で、男は美澪を、じっと見つめた。美澪にとっては、快くは
思われない目だった。着物の内の隅々まで見られているような、落ち着けない視線――



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