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第一話  通り魔 ・ 2


「あの……」
その重圧に耐えかねてか、今度は美澪が沈黙を破った。
「冬悟さんは……諸国を旅していらしたのでしょう? 私は、久しく俗世から離れております。
 お願いするのも厚かましいかもしれませんが……何か、面白いお話が有りましたら、私の
 退屈の慰めにしてはくださいませんか?」
「茶代を出すのも失礼か。ならば、心ばかりの礼のつもりで、つまらぬ話をいたしましょう」
苦し紛れの言葉とはいえ、退屈は本当だったのか、男の快い返事に、美澪の瞳は輝いた。
怯えてばかりいたような女が、初めて見せた笑みだった。何処か、身をひそめた者の
孤愁に満ちた面影も、本来の美しさを取り戻し、光に開く花のように咲いた。
冬悟は、少し俯(うつむ)いたまま微笑し、話し始めた。
「流れの旅で聞き伝えた話だが。……もう、随分と昔のことなのかもしれない。 
 都を徘徊した魔物の話だ。――どうかしましたか? 美澪さん」
美澪が、正座した膝の上で、拳をきゅっと握ったのを見て、冬悟が、薄い笑みを浮かべた唇で
尋ねた。
「そんな恐ろしい話は……嫌です。魔物なんて、恐ろしい」
「大丈夫。何と言うことはない話ですよ。あなたは怖がりですか、美澪さん」
「えぇ……怖いです、恐ろしいことは嫌い……」
「何も怖がることはありません。ただの話ですよ……ただの。――まぁ、ずっと昔には、
 本当に有った話なのかもしれませんけどね」
男は、ふっと息をつくと、既に俯き加減の美澪を横目に、話し続けた。女の白い喉元が
微かに震えるのが、男の目にも艶(なま)めく。
「“通り魔”の話ですよ。あの、人の命を喰らうという。鎌鼬(かまいたち)のように、いつ何処に
 現れるかも分からない、恐ろしい……しかし、それよりもずっと恐ろしい魔物。いや、私自身は、
 それに遭ったことは無いから、通り魔がどんなものなのかは知らない。――美澪さん」
震える美澪の手に、男は手を伸ばした。冷たい肌は、感触までが、雪と同じだった。
「もう……結構です、お願い……」
「怖いんですか?――あなたは怖がりですね、まだ何も話してはいないのに」
男は、彼女の手を、そっと握った。男の手は、微かに生暖かい湿り気を帯びていたが、
美澪は、そんなことには気が回らぬようだった。
「通り魔か……。――通るはずのないもの。異界から迷い出……永遠に現世を彷徨(さまよ)う。
 その生命の糧として、人間の生気を喰らう。屍肉を喰らうものもあれば、生き血を啜(すす)
 ものもある……」
「やめてください冬悟さん、お願いですから……」
美澪は、泣きそうになりながら、耳をふさごうとするが、いつの間に上がっていた男が、
彼女の手を取っていた。
「どんな姿をしている……? 異形のものか――人によっては、一目見ただけで、その命を
 吸い取られるという。だから、振り返ってはいけないんだそうだ。……いるはずのないものを、
 それを、見てはいけない。――見たこともない通り魔だが……俺は、きっと、それは大層
 美しい姿をしていると思う。だからこそ、人は不吉な予感にも抗えずに、見てしまうんだ。
 そうに違いない……そう、きっと……あんたのように、震えを……渇きを覚えさせる程に
 美しい魔物なんだ……!」
男は美澪の両肩を抱き締めると、その白い喉元に吸い付いた。
「何を……!」
美澪が悲鳴を上げる。男は美澪の首筋、喉元と、所構わず接吻した。
「あんたの……あんたの命を……!」
男の、獣のように荒い息に、美澪は、髄まで痺れるような痛みを感じた。悦(よろこ)びとも、
恐怖ともつかぬ衝動が、血管にうなる。
「やめっ……やめて、お願い……」
嘆願が耳に聞き届けられるのを儚い願いに託し、美澪は、その麗しい声を絞った。
が、男は彼女の襟元を開き、そこにも口づけようとした。
「やめて……!」



雨は、長くの間、降り続いていた。やんだのは、夜半も越した頃。
ぬかるんだ道に、やはり幾らかの時を余分に費やされたか、男の美しい横顔にも、疲労の
陰が差し、それが一層、凄艶な美しさを際立たせていた。
彼が山家に着いた頃には、雨も完全に上がり、空には月さえ見えた。
見事な月は、恐ろしい程の美しさで、昼日中よりも、この一角を明るく照らすかのようだった。
――きっと、そうなのだろう。ここは、陽の光の射してはならぬ場所。夜の片隅にのみ、
密やかに生きることを許された一族の者達の棲家(すみか)
朽ちかけた山家から、女の啜(すす)り泣きが聞こえる。男は眉をひそめると、戸に手を掛けた。
「美澪……?」
戸を開け、戸口に重い荷物を下ろすと、闇に広がる奥に、目を凝らした。その暗さの中にも、
女のうなじが白く浮かび上がる。闇とはいえ、彼の目にとっては、関わりのないことだったが。
妹の、悲嘆にくれる後ろ姿が、ぼうっと映る。泣き崩れる寸前のような、頼りなげな姿が。
「……美澪」
男は、妹の元へと歩み寄った。
「お……兄様……」
両手をつき、体を支えるようにしていた女が、ゆっくりと顔を上げた。着物は乱れ……
その胸元が、唇が……ぐっしょりと濡れていた。清らかな瞳は、余すところ無く涙に濡れ、
その唇……舌の根までは、ぬめぬめと妖しく光る血に溢(あふ)れていた。
その傍(かたわ)らには……男が一人。
「……お兄様!」
美澪は、兄に抱きついた。傍らに転がった男は――喉を噛みきられていた。
「我慢……できなかったの……したのよ、やめてって言ったの! 殺したくなんて
 なかったから……」
ぐっと唇を拭うと、手の甲まで、紅く染まった。
「やめてって……言ったのよ……」
崩れ落ちそうな妹の背を、細いながら力強い腕が抱き留めた。
「――馬鹿な男だ」
そう呟いた男の視線は、無惨な姿を晒す男に向けられた。侮蔑の瞳は、そこに長く留まる
ことを好まぬように、すいっと滑り、妹の美しい襟足へと移った。
「……美澪に咎(とが)はない。お前は――淫らな欲を起こした汚らわしい人間を、一人
 裁いただけだ」
「でも……また、ここにはいられなくなってしまった……?」
「――旅に出れば良いさ、また……。長い昔、都から旅に出たように。……二人で行くさ」

長い、長い旅。いつの時より始まり、いつ終わるのかも分からぬ程の。
人の口から口へと囁かれる度に、その名も姿も歪(ゆが)められ、誰もその真の姿を追うことは
出来ない。永遠の風のように、川の流れのように、気の遠くなる程の時間を歩み続ける。


――ふと、誰かが背後にいるような気がしたからとて……うかつに振り向いてはいけない。
きっと、世にも美しい、恐ろしい魔物を見ることになるだろう。一目見たならば、並の人間は、
まず抗えぬ。心を奪われ、精の根まで吸い取られれば、数日の内に、その命も尽き果てる。
その影……しかとは掴めぬその影を、いつしか人は、呼ぶようになった。
“通り魔”――と。










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