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《三つのジムノペディ 1 : ――ゆっくりと 悩める如く》


――彼女は、眠っていた。柔らかな羽布団に、埋(うず)もれるように。……唇が、微かに動く。
しかし、何を呟いたのかは、聞き取れない。どちらにせよ、もう彼女が夢とうつつの境まで
来ていることは、分かっていた。
彼女の手が、何かを求めていた。何かを探していた。彼は、その手を、包むように取った。
彼女の手は応え、きゅっ……と握り返す。静かな吐息が、真っ白なピアノの音に呼応する。
確かに、記憶の底に響く音色。瞼(まぶた)が、目覚めることを畏(おそ)れるように、震えた。
光へと飛び込む瞳――
「……あなた、だぁれ?」
星をも映すと思われるような瞳が、ベッドの横で椅子に腰掛け、彼女の手を握っている男に、
問いかける。彼は、時の流れにすら無感動、無関心であるように見えたが、決して冷たさは
感じさせない。彼女の問いにも、驚嘆の色は見せず、ただ穏やかな声で答えた。
「――白石和音(かずね)
彼の言葉に、彼女はしばし沈黙。そして、次の問いかけ。
「私は……誰なの?」
彼は、その問いにも、驚かなかった。
「……ハルモニア」
「それが、私の名前……?」
「分からない。だが二ヶ月前、君は僕に、そう名乗った。君は、本当の名前は、まだ僕には
 言っていない」
そう言うと彼は、握っていた彼女の手を、すっ……と上げた。手首から、するっと滑る、
ブレスレット。銀色のプレートには、刻印――"HARMONIA"
「覚えていないのかい?」
彼女は、答えなかった。戸惑うわけでもなく、ボンヤリと彼を見つめた。彼にも、失望は
見受けられない。視線だけは、二人とも繋がっていた。その糸をたぐり寄せるように、
彼の瞳が、彼女に近付く。
何一つ、驚かせるような唐突さは、無かった。ごく自然に、瞳と瞳、唇と唇が重なり合う。
今度は、異なる夢の世界へと連れ立つように。刹那と永遠とが、交互にひらめき合う。
終わりの無い旋律の、リフレイン。
「――和音……」
彼女の唇が、彼の名を呟いた。そして、瞳は繋がったまま。
「……思い出したわ」

――彼女の、二ヶ月で既に四度目の失踪事件は、こうしてまた、無事に終結した。

少なくとも、彼は、この女神との出会いは、運命的な導きによるものであると、感じていた。
雨に濡れた仔猫を拾って、連れて帰ったというだけのこととは違う。
彼女はただ一言――“ハルモニア”と名乗った。その、たった一つの言葉が、二人の運命を
結びつけた。他には何一つ、彼女から聞くべきことはなく、また二人には、それで充分だった。
素性はおろか、本名や年令すら分からぬ彼女を、和音は連れて帰った。それが、二ヶ月前。
そして彼女は、時折、失踪する。大抵、一日二日で和音が見付けるか、連絡を受けて、
迎えに行った。奇妙なのは、彼女が失踪の度に、記憶に混乱を来(きた)すということ。
そして彼女は、何故自分が失踪したかを、全く覚えていないということだった。それもまた、
和音にとっては、取るに足らぬことだったが。彼にとって重要なのは、彼女が彼の側にいて
くれること――それだけだった。二人が二人いてこそ完成される、空間、そして精神の調和。
そこには言葉すら必要とされず、介在する音楽という人工の調和に、寄り添うように二人、
その生活を構成(コンポーズ)していた。俗世とは隔絶された、そこは完璧な世界。もう、他の
何物も必要とされない、却って邪魔になる程の理想郷、侵されざる聖域――

* * * *

「――久しぶりね、和音」
来訪者は、しかし少しも懐かしそうな表情はしなかった。迎える方も同じだったから、
おあいこかもしれない。
「千尋(ちひろ)……」
快活なショートヘアの彼女は、スッと中に入ると、自分でドアを閉めた。体が、まだ間取りを
忘れてはいない。
「欧州(ヨーロッパ)では、大成功だったそうだね。おめでとう」
「おかげさまで」
素っ気なく、彼女は答えた。
「……僕と別れてからの方が、君は素敵になった」
「そうね。女としてもピアニストとしても。……あなたと別れて、本当に良かった」
和音は、何も言わなかった。そんな彼に、彼女は苦笑。
「あなた、相変わらずね。無表情で、無感動で。……何考えてんだか、分かりゃしない」
「……君は、とても綺麗だ。感情に息づき、生気に輝いている。君のそんなところが、
 とても好きだった」
「でもあなたは、少しも私を愛してくれなかった。……私が強引に押しかけてきた時も、
 あなたはどうでも良かったから、私の好きにさせて……。でも、一緒に暮らしてたって、
 私達の間に、美しいハーモニーは生まれなかった。――あなた、それを初めから
 分かっていたくせに、どうして私を追い出さなかったの?」
「……不快なことは、何一つ無かったから」
彼の言葉に、千尋は深い溜息をついた。
「――冷たいひとね……そうは見えないのに。だから酷(ひど)いんだわ、あなた」
結局、出て行ったのは、彼女の意志。それを思うと、もうくだらないと思ったのか、彼女は
話題を打ち切った。
「……上がっていかないか」
「結構よ。噂を聞いたから……懐かしくなって、確かめついでに、来てみただけ。――あなたが、
 自分から女を引っ張り込んだっていうから」
和音は、黙っていた。
「本当なの? それも、素性も知れない女だそうじゃない」
「彼女は、記憶喪失なんだ」
「……本当に?」
「分からない」
千尋は、呆れたように、肩をすくめた。
「……分からない人ね、本当に、あなたって」
「僕は、君の期待したような男ではなかった」
「――彼女を、愛してるの?」
「……きっと」
その言葉に、千尋は、美しい眉をひそめた。
「私達……お互いのこと、よく知っていたはずなのに。……そんな子に負けるなんて」
「下手に知らない方が、良かったのかもしれない」
彼女は思いきり、和音の頬をひっぱたいてから帰った。

ソファーでは、ハルモニアが夢を見ていた。それは、湖上で微睡(まどろ)む、白い鳥のような
姿だった。和音は、床に膝をつき、そっと彼女の紙を撫ぜた。閉じられたままの瞼から、
滑り落ちる雫(しずく)――
「……和音」
「ここにいるよ」
「和音……和音……!」
彼女は目を開くと、彼に手を伸ばした。
「……ここにいる」
彼は、彼女の細い肩を抱き寄せた。小鳥のように震える体が落ち着くまで、じっと抱いていた。

こんなことが、しばしば有る。どうしたのかは、訊かない。おそらく彼女自身、分からないので
あろうから。そしてきっと、分からない方が良い。お互いのためにも。

「――和音は、何も訊かないのね」
彼女は、彼の胸に顔を埋めるようにして、呟いた。彼のセーターの袖口を、はぐれるのを
恐れる子供のように、しっかりと掴んで。
「訊いてほしいのかい?」
「……ここにいたい」
――愛しさのあまり、壊してしまいそうな衝動が走る。だが幸いにも、そんな衝動は、彼には
そぐわぬ現実だった。彼女を包んだのは、柔らかな抱擁。
「……なら、ここにいてくれれば良い。僕の側に、いてほしい」
響き合い、満たし合う精神。五線紙の上に優雅なフォルムを描く、旋律の綴れ織り(タペストリー)
織りなすメロディーは、ハーモニーを生成し、豊かな情緒と共に、たゆとう空間に、物語を
与える。――触れる肩、寄せる肩を重ね合い、夜は時を忘れる。最もプリミティヴな……
だからこそ純粋な、愛の形態。取りあえず今は、人が型に押し込める理屈よりも、奔放で
柔らかな、彼女との触れ合いの方が、大切に思えた。いつまでも、こんな穏やかさに二人、
漂っていられたなら。――ただそこに、彼女がいてくれたなら。……今は、それ以上の
何物も望まなかった。それもまた、贅沢すぎる望みだったのかもしれないが。




《三つのジムノペディ 2 : ――ゆっくりと 悲しげに》


彼女は、ピアノ曲を好んだ。そして、交響曲は好まなかった。「沢山音が有りすぎて、
どの音を聴いたら良いのか分からなくなって、頭がこんがらがってしまう」からだという。
“白い音楽”と称される、エリック・サティのピアノ曲が特に気に入りで、よく眠る前に聴いた。
沈静な旋律に、心の波を埋め込むように。何処か懐かしく、安寧を誓う。欠けてしまいがちな
精神の調和を、補うように。そうした意味で、この二人の存在は、互いに対して、音楽だった。
それぞれが、出会って初めて、求めていたものに気付いた。それは正に、奇跡的な巡り逢い。
そして、奇跡に理屈を求めたところで、何になろう。

「時々……怖くなるの」
コーヒーをドリップしていた和音は、ソファーの肘掛けに凭れている彼女を、振り返った。
――“猫のようだ”と、彼は思った。柔らかで、しなやかな美しさ。高貴でいて、自由であり、
また謎めく。そして、すべてを予見していながら、それが自分にとって何を意味しているのか
までは理解していない、その眼。
「……何が?」
また彼は、自分の方に、向き直った。
「ふと……ね、今、こうして和音の側にいられることが……現実なのかと思って」
「夢じゃ、嫌かい?」
「――夢でも良いわ」
彼女の言葉に、迷いはなかった。
「ただ、自分の中に……誰かがいるのを、感じるの。私には、それが誰なのか分からない。
 でも向こうは、私を知っているのよ。そして、いつも私の行く先々を見張っている。
 ……それが、とても怖い。私のこと、妬(ねた)んでいるのか……それとも、私が向こうのことを
 思い出さないから怒っているのか、だけど私、今は何も分からない……!――忘れて
 しまっているだけなのか、本当に初めから何も知らないのか……でも私、怖い、今の現実を
 壊してやろうって、囁く声が聞こえる……耳元、ううん、もっと側、頭の中……!」
和音は、カップをテーブルに置き、強迫観念に追い立てられそうな彼女の背を抱いた。
「……聞かなければ良い。そんな声は」
彼女は、何を予見しているのだろう。彼の目には映らぬ何かを、彼女は絶えず、見ている
のだろうか。



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