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《三つのジムノペディ 3 : ――ゆっくりと 荘重に》


ジムノペディ三曲が終わる頃、彼女も落ち着いた。
「その声は……音楽のように聞こえる気もするの」
半ば恍惚としながら、彼女は呟いた。
「私の、記憶の糸に触れようと……音を出そうとする。私は、その旋律を知っている気がする。
 けれど何だか、分かるのが恐ろしい……。でも、その反面、それはとても懐かしくて……
 うっとりと、心が安らいでしまう旋律なの」
「記憶の……旋律?」
「だから、聴きたくなる。開放感を夢見ながら……そっと、耳を傾けてしまいそうになる。
 でも、やっぱり恐ろしいのよ……もしかしたら、これは罠かもしれないから。私があなたの
 側を離れることがないから……何とか誘い出そうとしているのかもしれないもの」
「考えなくても良いよ。……考えるんじゃない」
「でもね……そのメロディー――何だか、これに似ている気もするの」
「……サティ?」
「同じじゃないわ。でも何だか……危険なものを感じる。美しいものは、みなきっと、そうなのね。
 だからこそ、たまらなく心惹かれて……その旋律に、身を委ねたくなる」
和音は無言で、彼女を抱いていた。

* * * *

天気の良い日に、彼女を連れて外出した。箱入りネコの彼女は、たまに外に出ると、初めて
光を見た子供のように、はしゃぎ回った。
「和音、和音、分かる? 私の心臓、こんなにドキドキしてるのよ」
息を切らせ、公園の中を駆け回る彼女は、やっと立ち止まると、和音の手を取った。
「大丈夫かい?」
「……ダメかも!」
彼女は、和音の首筋に抱きついた。ガクッと力が抜け、彼女の重みが、ぐっと彼の上にかかり、
彼は、しっかりそれを受け止めた。
「ハル……大丈夫か?」
しばらく彼女が動かなかったので、彼は尋ねた。
「見えるわ……」
「え?」
「あそこに、私と和音がいる。……先刻(さっき)の残像だわ」
まさか――と思うより先に、振り返っていた。
「……消えちゃった。とっても素敵だったのに……見えた?」
彼女の瞳が、無邪気に笑う。――真実か、虚実か。もう、それはどうでも良いことになっていた。
確かめようがないのだし。彼女を見つめると、笑顔が返ってきた。

――花を買って、公園を出た。本当は、両手一杯の花束にしたかったのだけれど、彼女の
片手は、和音と繋がれていた。それで、「片手一杯の花束(ブーケ)」になった。
赤・黄・白・ピンク・紫……様々な彩り。すべての季節を、その腕に抱いているようだった。
街を歩けば、道行く人が振り返る。二人の空間だけが、まるでお伽の国から抜け出したような色。
「和音、見て見て! ここにも、あっちにも、そこにも映ってる!」
彼女は、ショウウインドウを、次々に指さした。
「あぁ……本当だ」
彼がうなずくと、彼女はクスッと笑い、彼の腕を離れた。
「ハル……?」
彼女は、右手に有ったショウウインドウに向かい、自分の姿を映した。そして、バックに透ける、
フォーマル・ドレスのマネキンに向かって、スカートをつまみ、うやうやしく礼をした。
――それは、とても美しい光景だった。だから、彼の口元も、ほころんだ。
彼女が、彼を見上げる。……交わされる笑み。

ふと、彼女は硬直した。ショウウインドウの中に、何かを見付けたように。ガラスをも突き通す
ような、凝然と見開かれた眼。
「……どうかしたかい?」
彼女は答えず、後を振り返った。おそらく、ウインドウに映った影を、確かめるためだったろう。
和音も振り返ってみた。――すると、少し離れた街路樹の横に、中年の、胡散臭い風体の男が
立っていた。どう見ても、普通のサラリーマンとうい出で立ちではない。無精髭の小柄な男は、
確かにこちら……いや、彼女を見ていた。鋭い視線で。
彼女は、花束を地に落とした。恐怖に見開かれた瞳……少し開いた唇が、わなないた。
「……ハル!」
唐突に、彼女が駆け出した。そして男も。和音も、すぐさま彼女を追った。そして彼女に
追い付くと、逆に彼が手を引いて走った。
「……もう、追ってこないよ」
密接した体に、彼女の鼓動が伝わる。彼女の震えが伝わってくる。強く、強く抱き締めても、
止まらない。――ビルの狭間という街の死角で、二人は身じろぎもせず、時の過ぎるのに
任せた。
「誰だったのかは分からない……でも怖かった……とても怖かった……!!」

何かが近付いたいる――そんな気がした。

サティのピアノ曲で彼女を寝かしつけると、和音は、その傍らで思索した。――あの男は、
何者なのか。そんなことは、どうでも良かった。彼にとって大切なのは、彼女の精神の平穏
のみだった。今更、彼女の素性や、その過去について、あえて詮索する気もない。
ただし、今の彼女を護るためだけにのみ、その追求は為されることになろう。既に、彼が
何一つを問わなくても、事態が転がり始めてしまった以上は。

確かに、彼女の中には、何か封印された記憶があるように思われる。それを解く鍵は……
旋律? 今までの、彼女の断片的な話から、何かの旋律が、彼女の精神の調和を乱すのでは
ないかという推測はあった。――だとしたら、何としても、それから彼女を護らなければならない。

眠る彼女の寝顔を見つめていると、ふと、母親の記憶が蘇った。和音の母親は、クラッシックを
聴きながら死んだ。自らの喉を切り裂いて。……死へと誘うような、魔性の旋律に魅入られた
のだろう。それは彼女にとって、地の底までへも持って行きたかった、記憶の旋律だった。
父ではない男――昔、一緒になることを許されなかった男との、思い出の曲だったのだという。
何とはなしに、それを思い出していた。


その日から、ハルモニアの影が、薄くなっていくように見えた。そして彼女の混乱も、日に日に
ひどくなっていった。ベッドに寝付くようなことは無かったが、一日中、ボーっとしたまま、音楽に
聴き耽っているような日々が続いた。それは、彼女なりの自己保身だったのかもしれない。
外界から遮断された空間の中で、更に情報を遮蔽するように。そしてその様はさながら、
幼気(いたいけ)な子供へと還っていくようだった。

「ハル、出掛けてくるよ」
和音が言うと、彼女の後ろ姿が、ビクッと震えた。言葉はない――ただ、彼に縋(すが)り付く。
嫌……と。
「……大丈夫。すぐ戻ってくる。仕事なんだ、どうしても行ってこないと」
安心させるように微笑んで、額に口付けた。それでも泣きそうな瞳。――心が痛んだが、
いい加減片づけなければならない用事が有るのでは、仕方がなかった。
「本当に、すぐ戻ってくるから。ハル……」
彼女は、なかなか彼を離そうとはしなかった。その手を、優しく解き外す。後ろ髪を引かれる
思いで、彼は、“現実圏”へと出掛けねばならなかった。この世で一番、愛おしい者を、
置き去りにして。

手早く用事を済ますと、帰る前にちょっと、彼女への土産をと考えた。そして、サティの別な
CDと、香りの良いラ・フランスを買った。いざ彼女の元へ、家路を急がん……とする彼の目前に、
すっと人影が現れた。
「――やぁ、白石さん」
和音の全身に、鋭い緊張が走った。以前の男……相変わらず風采の上がらぬ体(てい)だが、
目だけは異様に鋭い。
「白石和音さんですね? フリーライターの」
「……そうですが。あなたは?」
「それが、ちょっと今は、申し上げられない事情が有りましてね。それより……先日、あなたと
 ご一緒だった女性について、お伺いしたいことが」
「多分、何もお答えできることは有りませんよ。大体、名乗らぬ人間の問いに答える義務はない」
「ごもっとも。しかし、何ですかな。つまり……心当たりが、お有りで?」
「何のことだか、分かりませんが」
「いや私は……彼女と、よく似た女を探していましてね」
「人違いでしょう」
「では何故……彼女は逃げたんですか?」
「彼女は、とてもセンシティヴでね。本当に、子供のような程。……あなたの目が怖かったと、
 泣いていました」
「……こりゃどうも失敬」
面目無さそうに、ちょいっと頭を下げた男を尻目に、和音はスッと、その横を、「失礼します」と
通り抜けた。
「――あの女には、気を付けた方が良いですよ」
男の言葉に、一瞬立ち止まった。が、決して振り返らなかった。……油断のならない相手だと
分かった。あの男も――危険だ。彼女の中に眠る、記憶の旋律を、呼び覚ましてしまうかも
しれない。

「和音……!」
彼が扉を開けると、待ちかねた彼女が抱きついてきた。
「あぁ、帰ってきたよ、ハル。急いだんだけどね、遅かったかい?」
初めて出会った日から、少女のようなあどけなさを感じさせる女性だった。しかし今に至っては、
正に少女に戻ってしまったとしか、思えない。純真で無垢な、まだ汚(けが)れることを知りもしない
聖少女の、清らかな美しさを備えた彼女は、彼の他は、この世のことを何一つ知らぬように見えた。
この空間――彼との生活だけが、彼女にとっての「世界」だった。彼と、彼女と……そして音楽。

土産のラ・フランスの袋とCDを見せると、彼女の瞳が、深い色に澄んだ。彼女は、片手に一つ
果実を取ると、その香りに溜息を洩らした。そして、新春の陽光に溶ける、雪のような笑みを。
「……良い匂い。――今、切るね」
二人は背を向け、それぞれの作業へと着いた。和音はディスクをセットすると、部屋に甘い
香りが広がるのに気付いた。――瑞々しい果実。その肉が、今、切り裂かれているのだろう。
……流れ出したのは、夜想曲(ノクチュルヌ)第一番。

立ち上がり、振り返ったところで、彼はビクッとした。いつの間にか、気配もなく、そこに彼女が
立っていたからだった。
「……どうした?」
虚ろな眼――和音は、彼女の全身を見た。だらりと下げられたナイフ。指の先から、ポタリ、
ポタリと、滴(しずく)が落ちている。果実の汁……だけでは無かった。
「手を切ったのか?」
彼が手を取ろうとすると、ピクッと指がはねた。そして、静かに、瞳に灯り始める色。
彼女の手が、すっ……と、彼の首筋に伸びた。ぬるりとした感触が、うなじに悪寒を走らせる。
「ハル……?」
口元の笑みは、妖女のものだった。それが彼の目を捉え、逃さない。凄艶な唇が、血を求める
ように彼の首筋を這い、冷ややかな刃物が、その裏側に貼り付く……。
命まで、吸い取られるかもしれないと思った。が、脳髄が痺れる程の甘美な接吻は、その代償
としての命など、幾らでもくれてやって構わないと思える程の恍惚で、恐怖の片鱗も喚起させ
なかった。……このまま、二人で地獄に堕ちるのだろうか。それなら、それでも構いはしない……。

――その突如、彼女の体が激しく痙攣し、和音から、自分の体を突き放した。よろめくように、
後ろに下がる。
「――和音……!」
彼女は絶望的な悲鳴を上げると、見開かれた目で、自分の赤く染まった手と、刃物を見た。
そして再び、彼を見上げた。――もう、妖女の顔は、消え去っていた。正視できぬ恐怖が、
彼女を底知れぬ闇に突き落とす。
「私……わ・た・し……思い出した……!」
悲愴な言葉は、もう逆らえぬ運命への諦念が露(あら)わだった。
「ハル……よせっ!!
彼女は、自らの喉に白刃を突き立てると、力の限り、自分の左へと切り裂いた。


* * * *

――虚実か、真実か。……今更そんなものを求めたところで、何になろう。

今も彼は、あの甘い香りと、白い音楽に満ち足りていた最後の瞬間を、夢に見る。
それは、破局への前奏曲。
永遠に狂おしく愛おしい恋物語を、今では神話のように思う。


《三つのノクチュルヌ 1 : ――やさしく、しずかに》

彼女を狂わせた旋律は、何度聴いたところで、彼には、あくまで美しい旋律にしか聞こえない。










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