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第二話 『海老』



戸口に立った時に、予感がする。

何故なのか、彼女が訪れている時は大抵、扉を開けて入ってみるまでもなく。

そしてドアノブに触れると、しびれる冷たさが、確かめるように体中に伝わる。

「お帰りなさい」

振り向かない。それも一つの信頼。或いは確信。

彼女は、持ってきたグレイの前掛けエプロンをして、台所に立っていた。

「忙しいんじゃなかったのか」

「珍しく早かったから、ごちそう作ってあげようと思って来たのよ」

「それはどうも」

「この間キャンセルしちゃったこと、申し訳ないと思ってるんだから」

彼女の左に立ち、そっと、肩までの髪を指ですくうと、やっと彼女はこちらを見た。

曇り無い、奥深く透き通り、何をも凝視する瞳が。

「まだ怒ってるの?」

「怒ってなんかないさ。初めから。――何だ?」

また彼女は向き直り、

「ブイヤベース。作ってみたかったんだけど、独りの時じゃね……」

「実験台にされるわけか」

「大丈夫よ。あなた、魚介好きでしょう?」

「心配だから、手伝おう」

「いやぁね。いいから、あっちで何かしててよ。できたら呼ぶから」

「……じゃあ、見ていよう。それくらい、良いだろう?」

「どうして?」

「見ていたい」

背後のテーブルの椅子をクルリと回し、背もたれに肘を載せて落ち着くと、

彼女は口元を少し上げた顔で、肩をすくめた。お好きになさい、というように。

「手が、冷たいんじゃないか」

「大丈夫」

少しうつむくと、まな板に向かう彼女のうなじが、白く面映ゆい。

そんな白さにすら一瞬の寒気を覚えるのに。

まして今、水道の水は凍るような冷たさに違いない。

水音が、背後からじっくりと針で刺されるような鈍い痛みになって、脳髄に響く。

「何か、変わったことは」

「別に。あなたは? ……相変わらず、か」

何が可笑しいのか分からぬままに、視線を交わすこともなく、

二人とも溜息のような笑いをこぼしていた。

彼女は前掛けで手をぬぐうと冷蔵庫を開け、ビニールに入ったパックを取り出した。

「お、海老か。豪勢だな」

「一点豪華主義でございます。あとは大したもの、入っていないの」

彼女はビニールからパックを出すと、それを手に振り返った。

「どう」

「立派立派。なに食ったか知らないが、ブリブリ太って旨そうだ」

彼女はふっと笑うと、向き直った。

ラップをはがし、海老がボウルに放り込まれる音がした。

そして先刻より少し、声の調子を上げて。

「大正時代の話なんだけどね」

「大正海老の話?」

「違うわ。大正時代の、作家の話」

蛇口をひねると、勢い良い水音がほとばしる。

「異常なくらいの、もの凄い潔癖性。お湯は煮沸したものじゃなきゃ飲めない。

 犬はゴミをあさるから汚れている、蝿は憎らしい。

 火が通っていないものは絶対に食べられないから、お刺身もダメ」

「気の毒な奴だな」

「それでね、火が通っていようと、決して口にしなかったものがあるの。それが、海老」

「どうして」

丁度、鍋の湯が沸騰した。彼女はサッと蓋をずらすと、火を弱めた。

それから、蛇口を閉める。あふれた水の流れ落ちる音が、数秒間続いた。

「海老は、海底で屍体(したい)を食べて生きているからですって」

ピシャッ……と、水滴の水面に落ちる音が、頬を打つ。



――暗い、冥い、冷たい海の底。断末魔の叫びが、聞こえた気がした。

だが、その認識は間違っている。

「……ばかばかしい。ケダモノみたいに、食い殺すわけでもないのに」

「そうよね。食物連鎖の原理だもの。 屍体を食べる生物がいなかったら、

 地上は屍体だらけになっちゃう」

彼女は、軽く笑い飛ばした。少し、ずれた感覚で。




決して、獣のように殺しはしない。死んだものを、静かに貪(むさぼ)っていくだけ。

そこには断末魔の叫びも、荒々しい牙もない。

水底に沈む、冷たい肉体。

暗い海底で、音もなく、わずかずつ蝕まれてゆく感触は、果たしてどんなものなのだろう。

どんな苦痛……どんな苦悶なのか。


食卓の上に残された海老を見つめながら、僕自身の冷え切った思考の中を、

そんな思いが、静かに巡っていった。









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