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第三話 『遠い黄昏(たそがれ)



初めは、鳥の声かと思った。夢の中で、赤い鳥の声を聞いた気がした。

遥か水平線の彼方へとはばたく、沈みゆく夕陽のような、あの。




それが電話のコールだと認識するより以前、一応、手は伸びていた。

「……はい」

薄目を開けると、闇の中に、電話のボタンだけが、明滅していた。

遠い日の、夏の宵のような錯覚。

「もしもし……?」

いたずら電話かと、がっくり顔を枕に埋めそうになった頃。

ふっ……という溜息。

「随分と、眠そうな声だこと」

―― 一瞬、懐かしい薫りが、薄衣のように、無防備な意識を包んだ。

「……君か」

空いた方の手で、ライトをつける。時計を見ると、午前5時を、もうすぐ回る。

「眠そうもなにも……今、何時だと思ってるんだ」

「あら、何時?」

罪なき声は、さえずるが如し。まだ覚めやらぬ、夢の名残の声のように。

「……何処から掛けてる」

ふと思い当たり、問いかける。すると彼女は、やはり。

「今、海に陽が沈むところよ」

「……こちらは、まだ夜も明けない」

「まぁ、ごめんなさい。時差を忘れていたわ」

「――相変わらず嘘つきだな、君は」

やっと思考がハッキリしてきても、呆れる気にもならない。

お互い、そんな相手のことを、よく知っている。それを、楽しんだこともあった。

「懲りるには、まだ足りなかったようね」

海の向こうの、遠い異国からの電話。それにしては、あまりに他愛ない会話。

けれど、「用件は?」などと不粋なことを訊かないのは、彼女への最上級の敬意。

今でも彼女は尊敬に値する女性であるし、一度はそれ以上に大切にした。

「そこは、だいぶ遠いようだね」

「えぇ」

「何もかも、忘れる程に」

それならば、こんな電話は有りはしない。

分かっていて訊くのは、幾ばくかのシニシズムには違いない。

けれど、それは同時に、この瞬間の二人の近さを表そうとしていた。

どんなに遠く離れた場所にいても、海を隔てられても尚、この瞬間だけは。

「……忘れなくても、穏やかに暮らせるように。ここまで来たの」

思いがけない程の素直な言葉は、何かが二人を隔てたことを、確認するようにこぼれる。

そこには、暮れゆく陽の陰りが感じられた。



彼女は変わった。それは間違いのないことだ。けれど、彼女だけが変わったのでもない。

ある程度の『自由』は、『孤独』と引き替えに、容易に手に出来たはず。

それを望んだはずの、彼女からの電話。そこには、何の意味があるのだろう。

「燃えているようよ……言葉を忘れてしまった誰かの心が、叫んでいるみたい」

彼女は、また夕陽のことを語り始めた。

「あぁ……見えるようだよ」

「でもきっと、あなたには別なものが見えているわ」

――彼女の言葉は、決して冷たくはなかった。

ありのままを静かに語るのは、今も以前も変わらない。

けれどやはり、いつか忘れていた痛みが、触れられない距離の向こうで、

寄せる波のように、優しく漂う。

「……そうだね。でも、見えるようだ。デッキチェアーにもたれながら、

 胸が詰まる程の思いで、その黄昏を見つめている君の姿が」

だから、電話をしてきたに違いないと思った。

独りの胸の内に収めるには、あまりに美しいその眺望に、

責め立てられるような、いたたまれなさで。

彼女は、しばし沈黙した。

「……こちらは、やっと明けてきたらしい」

水の中に揺れる、光の裳裾のような朝日が、カーテンから差し込み始めていた。

未明から、確実に夜明けへと移行するのが、網膜に感じ取られる。

「――あなたは夜明けを見つめ、私は黄昏を見つめている。

 どちらも同じものを見ているようだけれど、一方は始まり、一方は終わってゆく。

 あなたと私の違いは、丁度それと同じ。……それだけなのよ」

ようやく納得がいったように、彼女はつぶやいた。

それぞれに見えているものは違う、ということは理解していると思っていた。

それでいてあの頃、彼女に見えているものを見よう、と努めることは、しなかった。

それは結局、理解でも何でもなかったのだろう。

けれどあの頃よりも深く、感じられるものもある。彼女に対する労(いたわ)りと、深い感謝と。

何故そんな自分が、“始まり”である「夜明け」を見つめているのか、不思議ですらある程に。




白いドレスまで、陽の色に染まって。時折ひらめく水平線に目を細める、懐かしい横顔。

――受話器を置いた後にも、僕にはあの、遠い黄昏が見えるようだった。









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