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第一話 『朝(あした)帰り』



「……どうしようかな」

彼女はグラスを置いて呟いた。

琥珀色が、水晶のようなロックアイスと溶け合いながら、ためらいがちに滲んでゆく。

街中で偶然に再会し、その支配のままに飲み始めて、よもやま話。

ただキリがなく、いつまでも話はこぼれ出す、ヴェールを掛けたような空間の居心地好さ。

あまり表情は読み取れない、ジャズの気怠さそのままのライティングの下で、

まるで背中合わせのように、互いの反応を気にせずに話し続けた。

そんな、数時間が過ぎた頃。


「どうしよう、って」

「どうせ彼、きっとまた朝帰りだから。私が帰っている必要、ないじゃない?」

ちょっと顔を背けて呟いた後には、 こちらを向いて、思わせぶりな微笑を作る。

――終電まで、あと僅かな時間しか残されていない。


彼女があいつと暮らし始めて、もう二年になる。

この数時間の中で、そのことが話題にならない方が、却って不自然だろう。

うまくやってるのかと、それ以外に訊き方も知らないマヌケに、彼女は静かに答えた。

「ずっと忙しいみたいで、昼夜逆転した生活してるわ。だから、すれ違いなの」

「仕事、毎日遅いのか?」

「仕事なのか……よく分からないけれど。午前様の回数が、段々増えて」

「ふーん……。ま、あいつも色々、大変なんだろうな」

それとなくやり過ごそうとするような言葉に対し、彼女は両肘をつき、じっとこちらを見つめた。

「毎回、言い訳するのよ。朝帰りの度に。それも、絶対に『嘘』だって分かるような」

何気なくそこから離れることは許さないような、そんな瞳。

かと思うと、その緊迫を、今度は自ら打ち消し、穏やかな笑みに変えた。

「でも、ちっとも喧嘩にならないの、私達。だから尚更、すれ違い。

 けど私も、それが『嘘』だと分かっても、それ以上追求したりしないし」

「……どうして」

彼女は、ふっと笑って、

「だって、気付いてるんだもの。彼は、私が『嘘』に気付いていることも知っていて、

 それでもまだ繰り返すの。あの人がそんな無意味なことを続けるなんて……

 私への、せめてもの優しさのような気がする。――もう、それしか残されていない。

 後は醒めた心と、不安に揺らぐ思いだけ。でも、その優しさが有ると思うと、

 私はその『嘘』を聞きたいのよ。何度でも繰り返し、聞かせてほしいの」



 “優しさ”

その言葉の持つ、ありふれたようでいて奇妙な響き。

だがその意味について、問いただすことはできない。

所詮自分は、他人の物語の中では、筋に絡まぬ端役にすぎないのだから。

……そして今、彼女は踏み出そうとしている。

おそらくは、つかれた嘘の数だけ、彼女自身も繰り返した迷いの中から。

何を信じ、何に未来を託するかを決めかねた、判然としない感情の深淵より。




灰皿から、ゆったりと煙草の煙が立ち上がり、何処へと無く消えていった。

「――やっぱり、帰るわ」

ふと肘を外し顔を上げると、彼女は腰を伸ばして言った。

引き留めるつもりはない。請われもしなかったし、問われたわけでもないのだから。

「有り難う。色々話を聞いてくれて。本当に楽しかった」

「こちらこそ。いつでも連絡してくれよ。また一緒に飲もうぜ。二人でも、他の奴と一緒でも」

月並みな社交辞令的な言葉にも、彼女はニッコリと笑い、「じゃ…」と立ち上がった。

何故なのか、送ってゆくことはしなかったし、そんな気持ちも起こらなかった。




結局、彼女は踏み出さなかった。そして独りで、夜の街へと帰路を取った。

あの、ギラギラとした薄闇の中を、自分自身の決意で。


やはり彼女は、あいつの『嘘』を、聞かずにはいられないのだろう。

いつ訪れるかも分からぬ、不確かな未来を待ちわびる不幸な子供のように、信じている。

『嘘』がある限り、朝(あした)が来ることを。

今日も明日も、『嘘』を聞かせてくれる間は、彼は自分の元へと帰ってくるのだと、

信じていられる。それが冷たい欺きであるかもしれないなどということは、決して認めずに。


そんな彼女を「一途」とでもいうのだろうか。

裏切りと紙一重の偽りに身を置き、それでも尚、離れられない。

思い切りぶつかって、壊れても良いから、真実を掴もうとする。

それも、できやしない。――そんな、いたいけな彼女を。


少なくとも彼女は、「不幸(ふしあわせ)」ではないのだろう。

自分のために自分自身で、信じることを選べる分だけ。

どうとでも多岐に解釈できる回答群から、自己の意志で、最も都合の良い、

最も自分の望むものを選び、それを信じられる。

様々な色彩あふれる万華鏡から、自分が一番美しいと思う色だけを見つめるように。

たとえその色が、他の誰が選ぶものと異なっていても、それはそれで良い。

その選択を「欺瞞」と呼べるほど、僕自身は「幸福(しあわせ)」ではないだろう。









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