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「私と春奈と……どちらが先に秋平と出会ったか。そんなことに意味はない。私は、自分は
 秋平がいなくても生きられる……そう感じたから、彼から身を引いた」
野枝は千夏と二人、ダイニングテーブルに。ルイと木元は、ソファーへと離れて座らせられた。
野枝は椅子の背によりかかり、腕を組んだまま、淡々と語る。
「私が秋平と付き合っていたことを言わなかったのは、千夏が変に気に病まないためにも、
 別に言うまでのことじゃないと思ったから。ただそれだけだった。勿論、今でも春奈を愛して
 いるのは、本当だよ。幼なじみで……心から愛しく思っている。何もかも」
「……父さんのことは」
その言葉に、野枝は瞼を伏せた。目の前に見えすぎるものから、しばし、視界を閉ざすように。
「……理性で愛した、初めての人間だと思った。心から惹かれた。春奈とは違った、けれど
 くらべようのない思いで」
千夏は、その不自然なまでの穏やかさに、不安定な現実の気配を感じ取っていたのか、
微かに震えはじめていた。
「どうして、そんなことを許せたの? そんなに大切に思っていた親友……それ以上に
 大事に思っていたお母さんに、恋人を盗られるなんてこと……」
「それは違う。……『恋人』なんかじゃない。私は、自分すら誤魔化して、ハッキリと答えを
 出さずに、曖昧な関係でいたから……春奈が秋平を好きだと言っても、関係あるとも
 ないとも言えないような私に止める術もないし、何も知らない無邪気な春奈の悲しむ顔を
 見たくなかった。ただ、私がこのままでいれば、それで良いと思った」
「じゃあ、それはお父さんがだらしないんじゃない……!」
「だらしなかったのは私だよ」
野枝は溜息をついた。
「それで良い……そう思ったくせに、心が“嫌だ”と感じるようになった時には、もう口に
 出せなかった。自分はそんな感情から自由なふりをして、彼に問われても迷いを隠して。
 ためらいが現実に……もつれた糸みたいに、どうしたら良いか分からないような状態に
 はまり込んでた。春奈を愛しく思うことも、秋平を思うことも、私の中では矛盾しないものの
 はずだった。……私が一方的に愛していた時にはね。けど、自分の変化に気付いてしまった。
 春奈からは何も求めなかったのに、秋平からは、何かが欲しくなった。言葉や……感覚や、
 存在を確認させてくれるようなものが」
「まだ未練残る我が父上は、それにホイホイ引っかかるような男だったわけね」
「……違う」
「何が違うの? やっぱり野枝さんも、父さんが好きだったんでしょう? 愛してたんでしょう?」
厳しくなる千夏の視線に無防備なまま、野枝は呟いた。
「――結婚と恋愛は違うとか別問題だとか、よく言うけれど。それは何も、生きていく上での
 打算だけを言っているんじゃあない。自分が『求める』人間と、自分にとって『必要』な人間は、
 必ずしも一致しない。そんなことが、ごく当然のこととして、あり得るからだよ。秋平のことは、
 『欲しい』と思った。側にいてほしい、彼の心が春奈に傾きかけていると知って尚更に……
 そう思った。けれど、彼がどれだけ自分に必要なのかは、確信が持てなかった。そして、
 私は求めた人間なしに、ここまで生きてこられた。彼が真に私に『必要』な人間だったか
 どうかは、それだけの時間が教えてくれた」
「でも、生きられたからって、必要じゃなかったなんて、そんな簡単な答えなの? もしその時に、」
「未来は一つしか選べなかった。やり直しは効かない。私は選んで、そして生きた。だから、
 もう過去の選択のことを考えたって、仕方がない。正しかろうが間違っていようが、今の私には、
 もう……どうしようもない」
野枝は腕を組んだまま、拳を、きゅっと堅く握った。
「――嘘つき。野枝さん、何でも分かってて、もう知ってたことみたいに納得してるけど、
 自分を騙してるだけじゃない。傷つかないように、逃げてるだけだよ」
千夏は、飲み込めぬ理屈を拒否するように、顔を背けた。それに野枝は、視線を上げて、
「春奈には彼が『必要』だったんだ。私よりずっと繊細で、か弱くて、一途で……支えを必要と
 していた。比べるまでもない、私は気まぐれかもしれない恋は捨てると決めた。その代償に
 春奈を失うなんて、考えられなかったから……。それで、ふっきれた」
「過ちは精算したってわけ」
千夏の一言に、これ以上冷え切ることはないと思われた場が、凍り付くように静止した。
それでも野枝は静かに、
「……そうだよ」
「それが代償……幸せのため……? 要らない、そんな欺瞞に護られた幸せなんか!
 お父さんもお母さんも偽善者……野枝さんだって、身を引いたなんて綺麗事言ったって、
 ただのエゴじゃない……できちゃったら、怖くなったんでしょう? そんなの、どうやったって
 正当化なんてできないわよ!」
「千夏ちゃん……!」
口を出すなと言われていた木元が、見かねて立ち上がった。黙ったままの野枝を、チラリと
気に掛けながら、
「春奈さんも秋平も……知らなかったんだ、野枝君は……言わなかったんだよ。もう、春奈さんの
 ことがあって、自分は身を引くと決めた頃、皮肉なことにそんなことになって……けれど、
 それを秋平にも言わずに、僕に――……絶対に言えない、二人には、ほんっとうに心から
 奇跡のような愛情を感じている……こんな、自分の一時のエゴで、それを永遠に失うなんて
 できない、たとえそれが偽善であっても、自己欺瞞だとしても、それもできない、耐えられない
 ……嘘なら嘘で、最後までそれを貫いてみせるから……そう言って。だからこそ僕は、彼女を
 止められなかった。春奈さんのために秋平を叱責する彼女を見て、僕も彼女のために力に
 なろうとした。それだけ、彼女の決意が堅かったから。……それは、偽善だったかもしれない。
 欺瞞と言われても、仕方のない行為なのかもしれない。だけど、野枝君自身が誰よりも、
 そんな自分の弱さを知っていて、許せなかった、そして今も許せずに自分を罰し続けている
 ということを……」
「――泰彦」
野枝が立ち上がり、木元に歩み寄り、一同、息を詰めた。彼が何かを言うかと思う時に、野枝は
思い切り彼を殴った。木元が反動で倒れるとまた、馬乗りになって、胸ぐら掴んでビシッとやって、
「何故、私にも耐えられなかったようなことを千夏に言った、なぜっ……!」
「のっ、野枝君、ごめっ……」
「野枝ちゃん!」
ルイが声を上げた途端、火がついたように、野枝が泣き出した。怒っているのか泣いているのかも
分からぬように。
「どうして……長い間、私が思い出す勇気もなかったことを、言っちまって、泰彦!」
やっと殴られなくなったと思った頃、木元が野枝の肩を抱いて、火事場の勢いの如く、
「野枝君、もう二十年近く遅くなったけど、今でも気持ちは変わらない、結婚してくれっ!」
「こんな時によくそんなことが言えるなこのデリカシー皆無オトコ!」
木元は再び張り倒され、後はもう何も言わず、泣きじゃくる野枝に、胸だけを貸した。
呆気にとられたように立ち尽くしている千夏に、ルイが視線を向けると、千夏は金魚のように
口をパクパクさせた。
「え……何?」
「野枝さんを……泣かせちゃった」
まるで信じられない出来事。どんな言葉を突き刺そうと決して動じず、毅然とした態度を
崩すことはないと思っていた野枝が、叱られた子供のように泣いている。

「――野枝君、大丈夫かい?」
体力を使い果たしたのか、木元に乗っかったまま、野枝はへばっていた。ルイや千夏の視線を
感じた木元は赤面して、野枝に呼びかける。
「野枝君、あの……」
やがて野枝は、ムックリと手をついて、木元の横にゴロンと転がると、仰向けになり、大きな
溜息をついた。
「……千夏の言う通りだよ。逃げてきたんだ。……自分が犯した過ちから。愛だの恋だのに
 かこつけて……」
木元は、野枝をそのままにして起き上がり、床の上に正座した。
「私は……一度だけ、女として一番浅ましい……卑怯なつけ込み方をした。秋平に対して、
 女であることを否定し続けていながら、どうしても分からなかった時……自分が迷った時、
 彼にすがった。……そんなに欲しかったのか? 彼の優しさにつけ込んでまで……。
 今でも分からない、だけど……すぐに後悔したけれど、取り返しの付かないことになって
 ……何とかするために、泰彦に片棒を担がせた。……私は、すべてのものを欺いてしまった。
 愛するものを、自分さえも! あの時以来、私は二度と『女』にはなるまいと決めた。二度と
 魔の差すことのないように……償えるものがないから、それしかなかった。二度と恋はしない、
 そう決めて」
野枝はそのまま目を覆い、まだ余波のように喉を締め付ける嗚咽を抑え、深く、深く息を吸った。
時折、自虐的な笑いを、咳き込むようにして。そして、ハァと息をつくと、片手をついて、
ゆっくりと体を起こした。それを木元に支えられ、野枝はしばし、そこに体を預けた。
「春奈のことは……無条件に愛していたよ。何も必要としないほどに完璧に、あの無邪気さ、
 時に無知な愚かしさも、どんなことも、その存在のすべてを、彼女のものとして愛せた。
 たとえ彼女が何をしてくれるわけでなくても、私のことを理解すらできなかったとしても
 構わなかった。彼女は私を愛してくれた。私も彼女を……それだけで、奇跡的な存在だった。
 ――秋平のことは、まるで一つひとつ、事実を積み重ねるように、彼が私を理解し、私が
 彼を理解しながら惹かれていった。だから……遅かったんだ。私自身が、それを把握するのが。
 与える愛と、奪いたくなる恋に揺らいで……どちらも得難い愛だと揺るぎなく思った時は、
 もう過ちを犯してしまった後。あの理解の意味が何であったのか、愛していたからなのか、
 恋していたからなのか……もう、それを知ることはできない。私は自分の愛を裏切った、
 それを感じた時は……」
野枝はまた、くっと息を詰めた。傷口を絞られるような、悲痛な嘆きを、押し込めるように。
「罰せられた思いだった――……後はもう、私が巡り会えた、この奇跡のような二人のことは、
 何に代えても護ること、それだけ。そんな資格が、自分にあるのかは分からなかったけれど、
 それすら失ったら……もう、どうにかなってしまうと思った」
開かれた野枝の目の幼気さが、千夏と出会う。
「そう……嘘ではなくても、完璧な真実でもない。……逃げたんだ、本当に愛していたのなら、
 私は自分の過ちと向かい合えたはず、そうしなければならなかった。けれど私は、自分が
 壊れることを恐れ、あの二人を護るという信念のためには壊れるわけにはいかないんだと、
 自分の恋を、その耐え難い罪と共に封殺しようとした。自分独りの胸に沈めてしまえば……
 そう思って。だけど、独りじゃなかった……」
木元の肩に額を押しつけ、野枝はかすれかかった声で、
「私が引き込んでしまった……そして長い間、引きずり続けてしまったのに……自分のことしか
 見えてなかったんだ、結局、自分だけを護って……。でも泰彦、もう戻れない、過去になされた
 選択は、もう終わってしまったことは、取り返しが付かないよ……! 完璧なものなどない、
 分かっていた、分かってる、それでも……あの二人を失いたくなかった、その手段は
 間違っていたかもしれない、でも……もう……」
やりきれなさが、地に注ぐ驟雨のように染みる。まるで昨日の痛みのように、尚鮮烈に巡る
痛みに、木元は、そっと呟いた。
「……もう、終わりにしようよ。野枝君」
野枝は、うなずきはしなかったが、自分を落ち着かせるように、幾度目かの深い息をつき、
そしてまた視線を上げた。
「振り返ってみた時に後悔して、いつか後悔して……二人のことを、少しでも憎むようなことに
 なったら……それが怖かった、何より……。取り返しが付かないからこそ、ずっと愛して
 いたかった、欺瞞だと言われたって、それ以外に言葉なんて無い、千夏……」
野枝の差し伸べる手に、千夏はゆっくりと踏み出し、その手を取ると、ヘタリと座り込んだ。
「私は、過去に触れないことで、ずっとあの二人を愛おしんでいたかった……『愛してる、
 愛してる!』……それが本当の気持ちなのかを確かめることすら怖くて――わだかまりが
 全くないと言えば嘘になる、でも、そんなちっぽけなねじれた感情より、二人を労り続け、
 愛し続けることの方が、私にはずっとずっと大切だった! 信じて、自分は愛せると、
 愛していると信じて……それなしには、きっと……」
千夏の膝に崩れるように、野枝はすがった。少し、重い。そう感じた。大人が、子供の膝の上で
泣いている。……おかしなこと。少し重いけれど、腕は届く。そっと背を抱くことはできる。
寒さに凍える小動物のように震える野枝を、千夏は、ぎゅっと抱いた。暖かな温もりを、
思い出したように、懐かしく。
あぁ……そうだ、と千夏は溜息をついた。いつか、こんなことがあった。まだ彼女が野枝の
元に来たばかりの、何故かも分からないけれど涙が止まらなくて、苦しくて不安で寂しくて、
やりきれなかった夜に、野枝がずっと抱いていてくれた。そんな夜が、幾晩もあった気がする。
もう、まるでずっと昔のことのように、忘れていたけれど。……今、そんな野枝に、胸が痛い。
あの頃、野枝はやはり、こんな風に、千夏に胸を痛めていたのだろうか、と。



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