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10


結局、野枝はほどなく入院した。過労でぶっ倒れたからだった。本人は帰ると言ったが、
周りが数日ぶち込ませることに決めた。
「ねぇ野枝ちゃん。もし、アタシがあの家からいなくなったら……寂しい?」
「そうだな。千夏も寂しいだろう」
野枝はベッドを起こし、ルイは椅子に腰掛けていた。
「心優しいシェルターがないと、千夏が可哀相だし」
「もう、そんなに子供じゃないわよ、ちなちゃんは。そして――野枝ちゃんも」
何だそれは、と訝(いぶか)る野枝に、ルイはクスッと笑って、
「それにね、もう、あんまりお節介は良くないと思うわ。ちなちゃんだけが生き甲斐、なんて
 いうんじゃ、ちなちゃんだって息が詰まっちゃうもの」
「……そんなもんかな」
「アタシだって、ちなちゃんは可愛いし、野枝ちゃんも大好きだけど、それとは全然別に、
 愛するダーリンがいるもの。要は、偏愛は良くないということ」
「あっそ。ソチラは巧くいってるワケかいね」
幸せにはかなわない。野枝は溜息。
「野枝ちゃんも、もっと自分の人生、エンジョイしなくっちゃ。攻めまくってるようで、その実、
 すんごい守りの戦術なんだから。ちなちゃんだって、就職とかしたら何処に行くか分からない。
 結婚したって、何処に行っちゃうか分からないし。そんな遠い話じゃないわよ?」
「うーん、ルイもダーリンとハニーな生活をするために、出て行ってしまうとなると、寂しい
 老後か」
「一応、考えてだけはおいた方が良いみたいね」
そうだなーと、ついマジメに相槌を打ってしまう。
「寂しい老後が何だって?」
ノックもせずに、制服姿の千夏が飛び込んできた。
「千夏……もう学校ハネたのか?」
「すぐ側だものー」
息を切らせて、少女は頬を紅に染めていた。
「野枝さん、明日退院でしょう? だから、今日の内に、真理君とデートするの」
「鬼の居ぬ間に? 何で私が」
「違うよ、明日はちゃんと家にいるってコト」
千夏はベッドに乗り上げると、
「ねぇ、真理君たら、すんごい少女趣味のレターセットで手紙くれたの。ぎょえ〜っ、何!?
 と思って、コワゴワ訊いたらお姉さんが、カノジョにならこれ使いなさいって、自分が子供の頃
 から大事にとっておいたのを、わざわざくれたんだって」
「……変わった姉さんだな」
「それをそのまま、有り難うって使っちゃう真理君も真理君だと思わない? 一昔前の、
 少女漫画のヒロインの気分になったよー。でも、そういうボケも、可愛くて好きー。
 お姉さんにも、今度会ってみたいな。長いお付き合いになるかもしれないんだし」
ルイに続くおノロケ攻勢に、病持ちの野枝はゲンナリ。
「ご馳走様。ババァのマークに気を付けて、とことんエンジョイしてきてください、ハッピィな
 お二人さん」
「ほ〜んと、とんだハッピィ、分けてあげたい! 早く元気になって、娑婆に戻って来てよね、
 野枝さん」
「……私ゃムショ務めか」
「野枝さんが辛いと、私も辛いの。いっくら真理君とシアワセでもね。じゃ、また明日ね〜」
千夏は野枝の頬に口付けると、お調子良く立ち上がり、マーブル・ボールのように、また
飛び出していった。
「……ナンか腹立つなー」
憮然として、野枝は呟いた。
「ちなちゃんに?」
「いや、まり坊の方」
「あらあら……理不尽な。父親の心境? それはね、野枝ちゃん。『欲求不満』よ。
 アタシみたいに満たされてれば、他のハッピーなお二人さんのコトなんて、どーでも
 良いもの」
「『欲求不満』っ」
そう、とルイはニッコリ。
「田原が聞いたら、大喜びして飛びかかってきそうだな。幸い、今は海外のはずだが」
「野枝ちゃんにお熱の女優さんもいたわねー?」
「ゴシップのネタにさばかれる趣味はないよ」
溜息をつく野枝に、くすくす笑うルイ。そんなルイを、野枝はフンッと見て、
「無理に休養取らせたつもりかしらんが、結局後でしわ寄せが来るんだからな」
「良いじゃないの、心機一転! 大事なのはリフレーッシュ。『心の余裕』よ。あら……
 『お医者様』じゃあない?」
そこに、コンコン、とノック。
「そのカオ、やめろよ」
ウンザリしたように野枝が言うのにも構わず、ルイはいそいそと席を立つ。
「木元センセ、ようこそ! じゃ、野枝ちゃん、明日はちゃんと迎えに来るから、今日は失礼
 させていただくわ。センセイのおっしゃることは、よく聞いてね?」
「ルイー、まだ根に持ってるな!? 身の下相談に乗らなかったこと!」
ルイは、白衣の騎士を招き入れると、自分はそそくさと出て行ってしまった。
「……やぁ。体は、どう?」
「仕事中に、こんなところほっつき歩いてても良いのかよ」
「良いんだよ、仕事だから」
自分の持ち場のせいか、心なしか強気な木元は、さっきまでルイが座っていた場所に落ち着く。
「おまえだな? 泰彦。カルテねつ造して入院なんかさせて」
「言いがかりだよ。少しばかり、因縁はあるけどね」
「……退院の時間になったら、大股で出て行ってやる」
「それくらいの元気があれば、僕も安心できるよ。でも野枝君、きみ、ひどい低血圧だね。
 上が八十六なんて、普通の人の下位だよ。その上貧血。運動不足なんじゃないか?」
「物書きだから、運動不足と痔は宿命なんだよ」
「え、野枝君、痔が?」
すかさず殴られ、木元は目を回した。
「ものの例えだよ!」
「あ……ああ、そう。いや、びっくりした」
「たく……医者のくせに、そのトシで独身なワケだよな」
らしくもないステロ丸出しで、呆れたように野枝が呟くと、木元は居を正し、
「結婚……するチャンスは、あったんだ。周りの世話で、見合いも何度かしたし、けど……」
「――婚約までこぎ着けた相手は、実は不倫してて、おまえのことは単に『医者』と結婚
 したかっただけだった」
「え、どうして知ってるんだ!?」
嫌みがシャレになってなかったらしく、野枝は目を覆った。
「……何てお約束通りのキャラクターだ」
気分は三流脚本家。もう、溜息しか出ない。そして、少しばかりの憐れみと。
「おまえも……結構苦労したんだな、泰彦」
「――僕は、君やひとが思うより、きっと頑丈だよ。君と逆だね」
そんな風に笑って、彼はものともしない。
「まぁ……怪我の功名というのかは分からないけど、それ以来、とにかく何でも良いから
 結婚しろって、急かす人もいなくなったから。ここしばらくは、平穏に暮らしてたよ」
木元には、屈託というものがない。まるで、今は今という瞬間だけで、何もかもへっちゃら、
というように。その底抜けた明るさが、無表情だった空間を塗り替える。
「平穏……ね」
ふぅ、と息をつき、野枝は首を傾げた。ふと気付くと、そんな野枝から何か言葉を待っている
ような木元が、横でウズウズしている。わざと焦らしたいような魔が差して、そのまま、じっと
黙ってみる。一歩踏みだそうとして踏み出せない、前傾姿勢にすらなっているような木元に、
やがて野枝は、クスッと笑った。
「――泰彦、一緒にレバ刺しでも食いに行くか」
「え……僕、レバーはちょっと……」
「医者のくせに。人間のはヘーキなんだろ?」
「人間ったって、食ってるわけじゃないし、第一、僕は内科だよ」
「じゃ、私の貧血も低血圧も治らないな。いや、それはいかんから……別なヤツと行くか」
「えっ、え、そんな、野枝君、何で僕が……」
困った顔の木元に、今度は野枝が、屈託のない笑顔で。……何だか、彼の『平穏』を壊して
みたくなって。そんな悪戯心も、ちょっとした『心の余裕』の表れかもしれない。


* * * *


「真理君、ちゃんと将来のこと考えてる?」
おもむろに、自身がそういうことを言われそうな千夏が、改まって問いかけたので、真理は
不意をつかれた。彩り深くなってきた並木道を歩きながら、それでもすぐに、
「大学、商学部に入って勉強して、国家試験受けて、会計士になりたいって思ってるけど。
 大学の間も、おじさんの事務所の手伝いとか、させてもらえそうだし」
「あとは?」
「あとって……」
ちょっと悩む真理に、千夏は首を振って、
「スケールが小さいわよ、真理君。私なんて、十九歳のシルバーリングから、結婚十周年の
 スウィート・テン・ダイヤモンドまで、ばーっちし計画立ててるんだから」
「……」
その調子なら、結婚六十周年のダイヤモンド婚の計画までたどり着くのに、そう時間は
かからなそうだ。
「なっちゃんは、そのまま上に上がるの?」
気を取り直して真理が会話を続けると、千夏は、
「うーん……。文学科にも家政科にも、あんまり興味ないなー。どうせなら、心理学とかやりたい。
 人を愛するという感情のメカニズムを解明したいわ」
「……それなら、今から受験勉強始めないと大変だよ?」
「当たり前じゃない! やだなー真理君、私が何も考えないでそういうこと言ってると思って
 るんでしょ」
心配そうに進言してくれた真理に、千夏は大口叩いた。
「あ、そうすると校内推薦ってテがあるのか」
「でも校内推薦って、高校入ったその日から狙ってる人もいるから、校内での競争が厳しいんだろ?」
「分かってるわよ、んもぉ……公立にいる真理君よかね、私の方が、そういうことは、よぉーく
 知ってるの。そうだ……真理君とこの学校の人と付き合ってるのがバレて、校内推薦
 取り消された先輩がいたんだって」
「……ふーん」
千夏は、がしっと彼の腕を取ると、
「だからさ、真理君。今後、女装してデートすることにしない? お姉さんの服借りてさ」
真理は、ビクッと背を伸ばして、
「やだよ、もうそんなトシじゃないし……!」
「もう……って」
千夏に顔をのぞき込まれ、慌てて目を逸らす真理君。
「さては、お母さんとお姉さんに遊ばれたことあるんだなー? でもって、着せ替え人形に
 された時の写真なんか残ってるんでしょ。あ、図星ー。真理君、ホンットに可愛かった 
 だろうからなぁー。今でも睫バサバサだもんね」
「……そんなものないよ」
「今度、お母さんとお姉さんにお会いしたら、訊くもんね。きっと、喜んで見せてくれると思う」
「だからそんなもの、ないんだって!」
「ぜーったいあるもんね、まりちゃ〜ん!」
ぱっと腕を放すと、千夏はスキップで彼の先を行った。靴の下で、サクッと枯れ葉が音を
立てる感触を楽しみながら。
ぱっと立ち止まると、また足踏みをして。そしてちょっと困り顔の彼を振り返り、にっこり笑って
言った。
「真理君。――手、つなご!」
すっと、彼女から手を差し伸べて。










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