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「――どうぞー」
ノックの音に、木元医師は振り返らずに応えた。そして、カチャッと研究室のドアが開くと
振り返り……目を丸くしたまま、動けなくなった。
「久しぶりだな、泰彦」
木元は、アワアワと口を動かすが、突然の再会に言葉もなく、声が出ない。野枝は、そのまま
歩み寄り、手前の客人用らしき椅子を自分で引き寄せ、座った。
「野枝君、どうしてここが……」
「ちょっと頭使えばな。――千夏に会ったらしいな」
今にも崩れそうな、隅々に積み上げられた本を見やり、
「……変わってないな。見たところ」
「君は元気……でもないみたいだね」
野枝の顔色を見て、木元は言葉を撤回した。
「ちょっと仕事が立て込んでてね」
「君は今まで……」
「千夏のことできた。一応、クギを刺す意味で」
問いを早々に封じるつれなさで、彼もそれには逆らえない。
「何も……話してはいないよ。約束はやぶっていない」
「なら良い」
「――あの二人がもういないなんて……今も信じられない。とても顔を合わせられないと、
 避けるようにしている内に何年も疎遠にしてしまって」
「信じたくはなくても、今、私に残されているのは千夏だけだ。現実だよ」
「……分かってる。何も話はしないよ」
「そうか。じゃあな」
席を立とうとする野枝に、木元は思わず立ち上がり、
「待ってくれ! やっと会えたのに……」
「語り合えるような思い出なんかない」
野枝の言葉に、木元はグッと顎を引いた。眉が、悲壮な色にひそまる。
「酷いな君は……僕が、今日までどんな思いでいたのか……」
「取り返しがつかない。……泰彦、私の思いも」
今度こそ、野枝はゆっくりと立ち上がった。
「取り返し……つかないから、どうだって言うんだ、ただ忘れろと? これ以上、そんなことが
 できるのか、君に……千夏ちゃんと暮らしてる君が、秋平とのことを忘れるなんて!」
野枝に真っ直ぐに見つめられ、木元はビクッとした。
「……努力している」
静かな言葉。とりつく島もない野枝に、木元は肩を落とし、椅子に座り込んだ。
「つまりそれは……もう、僕自身も、君に忘れられなければならない存在だということなのか?
 ……野枝君」
野枝は、うなずかなかった。けれど、それも意味は持たない。
「あの時……僕に、ほんの少しの勇気があったなら、何かが違っていたのかな。もっと別に、
 君の力になれたはずだった、たとえそれが君の意志だったにせよ、君が傷つくことを、
 僕は何故……」
「――もう、終わりにすることだよ、泰彦。そんなこと……私にも分からない。あの時、どうする
 ことが一番だったのか……そんなことは。どうすれば償えるのかすら」
やり場のない思いを胸の奥に沈めたまま、野枝は背を向けた。すべての過去、そして現実から。
「償いなんて求めない……終わりにできないでいるのは、君の方じゃないか……! 
 君は、自分が消してしまった命の重さに耐えられるか分からない、けれど選んだからには
 何をしても貫く、そう言った。言ったね……? けれど、もし、君が……今も罪を感じている
 のなら……僕は、その共犯者だ。……同じ罪を背負っている」
カチャッ、とドアを開ける音。顔を上げたところで、木元は絶句した。それは、野枝も同じこと
だった。――ドアの外には、学校帰りらしい千夏が、うつむいたまま立ち尽くしていた。
いつからそこにいたのかは、分からない。野枝は、異常なほどの冷静さで、
「……泰彦に、何か話があるのか?」
「良い。もう……きっと、何も話してもらえないから」
野枝は、無言のまま数秒いたが、そっと千夏の背を押した。木元は、緊張の面持ちで
その場を傍観していたが、意外にも千夏は、おとなしく野枝について、帰っていった。


「――ちなちゃん、ご飯要らないなんて。まだカレと仲直りできないで、落ち込んじゃってる
 のかしら」
片づけをしながら、ルイが呟いた。
「それだけじゃない。野枝ちゃんも、何だか元気がないし。……何かあったの?」
野枝は、何をするわけでもなく、ダイニングテーブルに肘をついたまま、先刻からずっと、
無言のままだった。
「野枝ちゃん……お願いだから、胸に詰め込み過ぎないでちょうだいね? 言いたくない
 ようなこと、訊いたりしないけど、アタシは野枝ちゃんが、何度も入院しかかってるの知ってる
 から、心配なのよ……」
「……わかってる」
そこはかとない弱々しさが、声にも滲む。
「ちなちゃんも難しい年頃だし……子供扱いして、曖昧にあしらうようなことはしないよう、
 気を付けなきゃね」
「……そうだな。――ルイ」
「なぁに?」
片づけの済んだルイは、野枝の正面の椅子に腰を降ろした。野枝は視線を落としたまま、
小さく呟いた。
「千夏の父親と付き合っていたのは……最初は春奈ではなくて、私だったんだ。付き合ってる
 というには、あまりに稚拙な関係だったけれど」
一瞬、ルイは目を細めたが、すぐにそれを、そっと伏せた。
「……そうだったの」
それからしばしの間、ルイは口をつぐんだ。
「私自身、彼が自分にとってどんな存在なのか、彼が春奈に惹かれはじめたと気付くまで、
 考えはしなかった。触れたくなかったのは、予感があったからなのかもしれない。いつか……
 選ばなければならない時がやってくることを」
「彼と……春奈さんの、どちらかを?」
違う――というように野枝が首を振ると、チャイムが鳴った。ふと目を上げた野枝を、ルイは
立たせなかった。
「はい、どちら様でしょうか?」
インターフォンで用件を聞くと、ルイはしばし沈黙し、そして送話器を手で押さえ、
「野枝ちゃん、木元さんって人」
野枝は、ついていた肘を外した。


「どうしても気になって……千夏ちゃんの高校の名簿で調べてしまったんだけれど……」
「――おまえ、白衣脱ぐとタダのオヤジだな」
遠慮がちに玄関に立った木元を見て、野枝は呟いた。
「野枝ちゃん、上がっていただいたら?」
「いや。……泰彦、話があるなら出よう。ルイ、ちょっと出掛けてくるから……」
「――どうして出なくちゃいけないの?」
その声に、踏み出た野枝の足が止まった。ゆっくりと振り返ると、醒めた眼差しを注ぐように、
千夏が階段のところに立っていた。
「私に関係のあるお話なんでしょう? 父さんと母さんと……野枝さんの間にあった、『何か』
 についての。――私、もう事実を知っても良い年頃だと思う。事実についての判断も、
 自分でできる。……自分でする」
「……そうなのかもしれない」
野枝は、踏み出しかけた足を、元に戻した。



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