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「――だから、それで何が知りたいんだい?」
久しぶりに会ったというのに、何だか重苦しいムード。
「何って……何で野枝さんが父さんとのことを口にしないのか、何故隠し続けているのか、
 気になるのよ」
ぐじぐじとストローでアイスをかき回す千夏に、真理は少し考え込んで、ふと視線を上げると、
「僕は、君が何をしたいと思っているのか、分からない」
「何をするって?」
「少なくとも、なっちゃんがそれを追求した結果、どうなるかを考えていない今は……考えて
 いても、やめてほしいし、そんなことしてほしくない。今の平穏が、どんなに希有で大切な
 存在なのか……それを壊すような、」
「じゃあ、野枝さんが隠していることは、これまでのすべてをひっくり返してしまうようなことなのね」
「そうじゃなくて……」
何と言えば良いのか困りながらも真理は、
「でもそれを言えば、野枝さんは、きっと傷つくと思う」
「あの人を傷つけるものなんて、この世に存在するとは、到底思えない」
「お父さんのことも、何があったのかは分からない。でも、もしかして、それを無理に言わせるのは、
 精神的に危険なことかもしれない。そういうこと、もっと冷静に考えて見たら……」
必死に諭そうとする真理に、千夏は次第に、不機嫌をむき出しにしてきた。
「何で私がそこまで、大の大人の野枝さんに気を回さなきゃいけないのよ」
「大人だからって、触れられたくないこともあれば、言われて傷つくことだって当然あるよ。
 ……大人って言ったって、やっぱり変わらずに人間なんだし。ただ、負った傷については、
 自分に責任を持たなきゃならないってだけの違いで、傷つくことがなくなるなんてことじゃ
 ないと思うよ。今ならただ『痛い』って言えることが、言えなくなる。ただそれだけなんだと思う。
 だから、」
「疚しさのある方が悪いんだわ。何で私が、そんなことまで考え巡らせなきゃいけないの。
 私、あの人と一緒に暮らしてるのよ? それが……このまま、こんなモヤモヤを抱えたままで、
 あの家にいたくなんかない」
「じゃあ、何処に行くっていうんだ、何処に行ける? 覚悟があって言ってるの? 今まで培って
 きたものすべてを、それだけのことで投げ捨ててしまう。そんなの、野枝さんや、ルイさんの
 気持ちはどうなるんだよ……!」
「――私の気持ちは!? 真理君、私のことはどうでも良いの?」
「そんなこと言ってない、ただ、なっちゃんは自分の辛さしか目に入っていないみたいだから、
 野枝さんの事も……野枝さんに仕返ししようなんて、そんなつもりなら、絶対にやめなきゃ
 いけない。その程度のことのために犯すリスクとしては大きすぎるし、何よりも大変なことに
 なるかもしれない、野枝さんも……」
千夏は、膝の上の拳を、ぎゅっと握った。
「――野枝さん野枝さんって……真理君、ホンットに年上の女に弱いのね。一回しか会った
 ことないくせに」
また始まった……と、真理は溜息。こうなると悪循環で、何処からも手が付けられない。
「大体、私みたいな子供より、お姉さんとかお母さんとか、オバサンとかの方が好きなんだものね。
 ……よく分かった」
言葉も握りつぶすように呟くと、真理に言葉も継がせず、立ち上がる。
「しばらく独りで考えるから……当分、連絡しないことにするわ。『お勉強』、頑張ってね。
 私のために割く時間も、どうぞ存分に使って下さい」


――早速、翌日から電話攻勢。千夏は出なかった。
「本人曰く、『私はここにはいないの』ということらしいです。悪いね……ま、そのうち機嫌も
 直るだろうから」
わざとらしく、千夏に聞こえるように野枝が応対するが、千夏は知らんふり。
「今日は速達も届いていたじゃないか。健気だねぇ、彼は」
「だったら野枝さんが真理君と付き合えば」
「何ほざいてんだ千夏は」
いつもよりトゲのあるスネ方に、野枝は首を傾げる。千夏は雑誌を読んでいる素振りだが、
ちっともそうとは見えず、ただページをパッパと繰(く)っていた。
「何があったか知らないが、幾ら真理君が優しいからって、あんまり我が儘ばっかり言ってると、
 本当に嫌われるぞ」
「良いの。真理君、私のことキライなんだから」
「嫌いだったら、こんなに手間かけてくれるかよ」
「……ほっといてよ、あの人、結局マザコンでシスコンで年上趣味なんだから」
「いい加減にしなさい。……そんな風に言うもんじゃない」
野枝はソファーの後ろに立ち、
「おまえは、自分がヘソを曲げるのは自分の勝手だと思ってるだろうけど、そのことで確実に
 他人の生活にも影響を与えていることに、気付いたらどうだ。付き合うってのは、お互いの
 時間を分け合うことだから、影響がないわけないだろう。少しは真理君の気持ちも考えて
 あげなさい」
「真理君は私の気持ちなんてどうでも良いの。だったら私が真理君のことを考えてあげる
 必要なんてないわ」
千夏は雑誌を、バシッとテーブルに叩きつけた。
「どうせ真理君、私のことは二の次なのよ……お母さんやお姉さんにクギ刺されたら、きっと
 電話だってしなくなる」
「真理君はそんな男じゃないだろう」
「野枝さんに、何が分かるの!?」
立ち上がると、一気に臨戦態勢の千夏。野枝も、疲れが色濃い表情の中にも、ブチ切れそうな
気配を滲ませた。
「千夏は、真理君のガワばっか見てきたんだろうが、あの子は優しげでいて、なかなかの
 男気のある子だよ」
「丁度良いわ、ホント。真理君、野枝さんは素敵な人だって言ってたし、私のことより好き
 みたいだから」
「はぐらかさないで聞かないか、千夏」
「聞きたくない、もう良い、嫌! 分かったんだもの…私なんか、親戚に捨てられたし、きっと
 真理君のお母さんに気に入ってもらえない……私、お母さんの言いつけで捨てられるわ、
 真理君、私より野枝さんの肩持つくらいだもの……」
「――何で一気にそこまで話が飛べるんだ」
野枝は、「支離滅裂だな」と、溜息をついたが、千夏のボルテージは下がらない。
「野枝さんには分かんないよ、こんな気持ち……! ホントに、ずっと怖かった……だから
 私のことだけ考えてほしくて、いつでも私が一番だって思わないと不安で……」
「そんなの、おまえ一人のこっちゃないよ。人間、結局は孤独な存在なんだ。けど、その現実の
 上にこそ、信頼や労りがあって、それが美しいんだろう?」
「それが裏切られたら、どうなっちゃうの……そんなの、イヤなの、だからやめるの……
 捨てられた惨(みじ)めだもの!」
「だったら初めから、誰にも愛されようなんて思うな! 自分は『弱い』からと、ただ座って
 待つ……『誰も何もしてくれない』と傲慢な弱さを振りかざしながら、運命のすべてを
 他の責任に押しつけて……そうして、いつまで待ち続けるんだ? 自分からは手を
 差し伸べることすら知らずに……。愛されたかったら、もっと強くならなきゃ愛せない、
 愛さなきゃ愛されることもできないんだ」
千夏は、きゅっと唇を噛んで、卑屈な嗤いを含ませた。
「……もっともらしいご演説ね、強者の論理らしいわ」
野枝は、一度は荒立てた声を、再び押さえ付けるように下げ、深く息をするように、
静かに、しかし、しっかりとした語気で呟いた。
「初めっから強いヤツなんていない。いたら、そいつはまだ、くじけるような現実に出会って
 ないだけだ。弱さを持たない人間もいない。けれど、護りたい存在のために、愛するものの
 ために、強くなりたいと努力して……それをただ、自分でその弱さと闘おうとするかしないかで、
 強い、弱いを語っているに過ぎないんだよ」
「誰のため……? みんな偽善者よ、誰だって自分が一番大事。分かってるから不安なんだもの。
 お父さんだって、家の反対押し切ったって言うけど、お母さんを選ぶかどうかは、紙一重
 だったんでしょ? 私がここにいるのは、別にお父さんが立派だったからじゃない、ただの
 偶然だもの!」
「おまえの父親はそんな男じゃなかったぞ!」
ハッ……と、千夏が我に返った瞬間。野枝は口を押さえた。思わず飛び出した言葉を、
閉じこめるように。だが、それは既に、千夏の耳の中に飛び込んでいた。
「野枝さん……父さんのこと、知ってるのね」
ぐっと、息を呑むのが分かる。思いがけない事態に野枝が青ざめるのに、千夏は嗤って、
「やっぱり。変だと思ってた。……どうして今まで隠してたの?」
息苦しそうに後ずさる野枝に、千夏は容赦なく踏み込む。
「そんな隠し事されたままここにいるの……私、嫌よ」
野枝は背を向けると、テーブルの椅子に手をついた。
「私、酷いこと言ってる? でも当然でしょ、この家に来てから、ずっと聞かないで過ごしてきた
 ことの方が、間違ってた。それとも……言えないようなことが、あったの?」
小刻みに震えていたと思った野枝が、突然膝を折った。千夏は、その時初めて、椅子の背に
かけたままの野枝の手が、紙のように白くなっていくのに気付き、息を呑んだ。
「……野枝さん?」
何が起こっているのかが分からず、触れることも怖くて、そのまま立ち尽くしてしまった。
椅子の背にかかっていた手からも力が抜けたのか、野枝はパタリと床に伏してしまった。
「――野枝ちゃん!」
その時、丁度ルイが帰ってきた。一目で状況を把握したルイは、野枝に駆け寄ると、
その体を抱き締め、
「大丈夫、落ち着いて……ちゃんと息するのよ、ゆっくりで良いから……ね……」
硬直したまま震える野枝の手の指、一本一本を開いてやるが、すぐに戻ってしまう。
千夏はそれが伝染したように動けなかった。しかし、ルイが何度かそうする内に、野枝の
硬直は取れてきた。
「ちなちゃん、お水くれる?」
野枝の背をさすってやっているルイに言われ、千夏は慌ててグラスを探した。水を汲んで
ルイに手渡すと、ルイが野枝の手に介添えをしてやりながら飲ませた。あの、白ロウのよう
だった顔色が、少し元に戻ってくる。息苦しさも、わずかずつ和らいできたようだった。
しかし、その眼が、どれ程見えているのか、何を見ているのかは、傍目ではよく分からなかった。
「しばらくなかったのに……疲れがたまると出ちゃうのね」
野枝を休ませてから戻ってきたルイが、動悸は止まっても、まだ痺れるように胸が痛んでいる
千夏に言った。
「野枝さん……病気だったの?」
「そうじゃないんだけど……。昔、ひどく体を壊したことがあったから、その古傷ね。極度の疲労や
 ストレスが、ああいう形で出ちゃうの」
ルイは溜息をつくと、ポットのお湯を、急須に注いだ。
「もともと、ひどく神経症な方だし。なかなか完全には治らないのかもしれないけど。心配よね……」
「私のせいなの」
千夏の呟きに、ルイが「え?」と眉をひそめる。
「私が……嫌なことを訊いたから、野枝さん……。――でも、あんな風に逃げられるのは、
 ずるい……!」
そのまま席を立つと、千夏は自分の部屋に閉じこもった。突然に襲った、あの瞬間の恐怖も
閉ざすように。



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