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「お帰り、ルイさん。ご飯まだでしょ? 一緒に食べよ」
「えっ……ちなちゃん、まだ食べてないの?」
千夏は、夜十一時頃帰ってきたルイを、玄関で迎えた。
「何だか独りでご飯食べるの、イヤだったから」
戸惑う表情のルイに、にっこり笑って、千夏は「用意できてるよ」と、ダイニングの扉を開けた。
「――本当にごめんなさいね、ちなちゃん。今日は野枝ちゃんも、何時になるか分からない
 ものね……」
申し訳なさそうなルイの言葉にも、千夏は大して関心なさそう。
「お友達が集まって、映画を作ろうっていう決起会で。野枝ちゃん、久々にビジネス感覚抜きで、
 すんごく張り切って出掛けてってわ」
「出掛ける前に会ったの?」
「あたしが野枝ちゃんのヘアとメイクしたから。そーう、綺麗だったわよぉ? 黒のレース地の
 ドレスで、シンプルなんだけど、野枝ちゃんらしい色気があって」
「え、女装してったの」
女装……というのも奇妙な言い方だが、千夏はもっぱら、野枝の『ホスト姿』しか見たことがない。
「今夜はエスコートしてくれる男性がいたから」
またまた驚きで、米粒が喉につかえそうになる。
「お、オトコ!? 女優さんとかじゃなくて、オトコ?」
「久しぶりよねぇ、野枝ちゃんが男の人とデートって」
久しぶりどころか、千夏の知るところでは初めてだった。そうか、ホントに男とも付き合えるのか……
と、千夏の頭の中で新事実が巡り、そしてふと、「ある事」が過ぎった。
「ルイさん……木元先生っていう男の人、知ってる? 大学のお医者さんで、うちの高校に
 来てくれてるんだけど」
「木元?」
ルイは首を傾げ、千夏は早々に話題を切り上げる。
「じゃ、良いの。――それより、今日、野枝さんと一緒の男の人って、誰? どんな人?」
「田原(たばる)芳雄さん。知ってるはずよ、もの凄く個性的な役の多い俳優さん。ほら、この間、
 シンガポールで謎のブローカーやってた」
「あっ……アレ! 『アレ』とか言っちゃったよ。名前と顔、一致しなかった」
若手の二枚目俳優ならともかく、オッサンでは、なかなかピンと来ない。初めは首をひねったが、
途端に飛び出すように思い出した。しかし、変質的犯罪者とか、極悪成金オヤジとか、『超コワイ』
役どころのイメージばかりで、あんまり『会いたい』とは思えないタイプ。
「やーっ、何かコワイ人。ま、野枝さんとはお似合いか」
「面白い人よー? いつまでたっても悪ガキみたいな感じが抜けない、不良中年ってとこかな」
想像もできない……と、前頭葉辺りを疼かせている千夏のためであったかどうかは分からないが、
その夜、深夜一時も過ぎた頃、野枝は田原氏を連れて帰ってきた。
「田原、これからまた仕事だってさ。酔いと眠気覚ましに、コーヒー入れてやってくれるか?」
「ルイちゃん、久しー。お邪魔しまっせ」
ちょっとかすれた、陽気で野太い声に、千夏の好奇心が疼いた。どうしようかとためらいつつも、
やっぱり気になり、思い切ると、そろりとリヴィングを覗きに行った。
「野枝ちゃん、もう髪崩れちゃったわね」
「あ、それさっき、オレが押し倒そうとしたからだ」
「芳雄さんたら、またそんな……」
ルイが苦笑すると野枝が、
「ホントだよ。こいつ酔っぱらって、運転してやってるっていうのに絡んでくるから、目ぇ覚ませ
 ボケ! って、ぶん殴ってやった」
「いやー、千冬があんまり超絶に色っぽかったもんで、ついムラムラと」
覗いていたつもりが、カチャッとドアが開いてしまい、ソファーの一同が振り返る。仕方なく、
千夏は背筋を伸ばしたが、乱れ髪も艶めかしい野枝と、その隣の不良中年オヤジの田原氏と
目が合い、ちょっとビビッた。
「あら、ちなちゃん。コーヒー入ったから、一緒にどう?」
恐る恐るルイの隣の独り掛けに腰を降ろす、コチコチになっている千夏に、田原氏は立ち上がり、
「ども、今晩は。田原です。千冬には、ムスコが世話にな……ぁでっ!」
スパコーン!
野枝がスリッパで田原の頭を殴った。
「座ってろオマエは」
頭痛そうに言う野枝をよそに、ルイが首を傾げ、
「そういえば芳雄さんて、娘さん一人じゃなかった?」
「そだよ。この子と同じくらいの。いやも、手に負えん! 流石は俺の娘というか、度肝抜か
 れるね。『お父さんお父さん』っていうから、何だって聞いたら、『十日くらい前なんだけど、
 車ん中にあったゴムに針で穴空けといたの。もう使っちゃった?』だとよ。もぉーっ、たまげた!
 『おまえ、そんなに弟が欲しいのか!?』って怒鳴りつけたんだが、どうもソレが本気らしくて、
 『ユキヒロ君が良い』とか名前まで決めてやがる。――てことで千冬、できなかったか?」
スパコパズバコーン!!
……と、連打。
「娘の前で、ロクでもないことばっか喋るな!」
珍しくマジで怒っている野枝と、それにちっとも悪びれない田原氏に、千夏はクスッと笑った。
「――ホント、無茶苦茶ヘンで可笑しい人だね」
一時間ほどで席を立った田原氏を玄関まで見送った後、千夏はルイに言った。
野枝は外まで、彼を送りに出た。
「ああ見えて、よく気を遣う人なのよ? 野枝ちゃんも、絶対的信頼を置いている人だし。
 ……そうね、彼となら、野枝ちゃんも結婚するかもしれないって、思ったもの。実際、プロポーズ
 されたことはあるみたいだし」
「田原さんって、結婚してるんじゃないの?」
「バツイチ。過激な娘さんが一人」
……何故、野枝は結婚しなかったのだろう。結婚とまでは行かなくとも、ルイとのように、一緒に
暮らすこともせず。


「何かゲンキ無いんじゃないの、千冬」
「そっかね。楽しかったから、気分良いよ、今」
田原に言われ、野枝は階段を降りながら、ふふっと笑った。最後の段を下りたところで、
彼が背中から抱き締めた。
「あの子のことでか。ん? 千夏ちゃんの。おまえさんの弱みの」
「……パパはどうなんだよ。年頃の娘と一緒に住んで、モメたりすることも、しょっちゅうあるだろうに」
「まぁなー。でも、俺は千冬みたく、同性じゃないから、お互い感性に違ったところがあっても、
 結構それが当たり前だって、許容できてるんじゃないかね。なんだかんだ言って、やっぱり
 同性は難しいよ。娘も、別れたニョーボには、随分厳しいからな。同じ女だっていう分だけ、
 理解できる部分も、我慢できない部分も多いんだろ」
「母親……ねぇ。結局、私は自分の股ぐらからあの子を産んでやったわけじゃないから」
「俺だってタネ植えただけだから同じさ。ヘソの緒が繋がった自信ってのは、その子を産んだ
 女だけに与えられる特権的栄誉だ」
「ホント……そうだよなー」
野枝が溜息をつくと、田原は横から顔を覗かせて、
「あんまり気負うなよ。自己管理もようせんかった千冬が、自分の体調に責任持つようになった
 だけでも、大したもんだと思ったよ、俺は」
「そんな、当たり前のことができるようになったくらいで満足してられるかよ。情けない……」
「いや、当たり前のことができるようになるってのは、偉いこったよ。千冬、偉い、偉い」
「ばーか……おだてるなよ。調子こいちまうだろ」
「しかし俺は、小心者のくせに、ハッタリかましまくって生きてる千冬の危なっかしさが好き
 なんだよ」
「……それ、てめえのこと言ってんじゃないのか、田原?」


野枝が戻ってくると、千夏はおもむろに言った。
「好みの男に会えば付き合うって、本当だったんだ」
野枝は、チラリと目を上げると、
「……悪かったな、平日なのに、夜更かしさせて」
「良いの。――田原さんと、結婚しないの?」
突然の言葉に、ドレスの裾をつまんだまま、野枝は凝固した。千夏は、少し頬を強ばらせ、
「私のせい、じゃないよね」
「違うよ。今のままで良いんだ、私達は」
「今でも母さんを愛してるから?」
「それも違う」
さっさと奥に行こうとする野枝に、千夏の最後の一声。
「父さんのことは、嫌いだった?」
振り返る……その表情を確かめようとはせず、千夏は背を向けた。鎮まらぬ心に、言葉だけは
「お休み」と残し。
「――野枝ちゃんも、早く休まないと。最近、体力的にかなりムリしてるんだから」
食器を下げているルイに言われ、ダイニングの椅子に腰掛けた野枝は、煙草を一本つけ、
溜息のように息を吐く。
「千夏……今日、何かあったか?」
「どうして? 別に、何もなかったみたいだけど」
いや……と、しかし、ちょっと気にかかるという素振りで肘をついた野枝に、ルイは「あぁ」と
思い出したように。
「木元先生ていうお医者さんを知らないかって……」
野枝は、瞬きを忘れた瞳のまま、ぎゅっと灰皿に煙草を押しつけた。



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