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放課後の医務室で、この相手なら、まずロマンスが生まれることは永遠にないと確信した
相手の青年医師と向かい合い、現実的視点を確保した女子高生・千夏は、思わぬ過去と
遭遇したらしいことに気付いた。
「先生、野枝さんのこともご存じなんですね?」
「あ、いや、あの……僕は、秋平と同年で、春奈さんも野枝君も、同じ大学の後輩として、
 親しくしていたから」
という割には、音信はまったく途絶えていたらしい。千夏の両親は、駆け落ちしたようなもの
だったらしいから無理はないが、野枝は……? そういえばルイから聞いたのには、野枝は
随分長いこと、フリーターのように職を転々としていたという。
「じゃあ、野枝さんは、父とも親しかったんですか?」
当然に浮上した疑問。野枝が、千夏の母親のことを、こよなく愛していたとういことは、ずっと
聞いてきた。が、野枝の口から、父親の秋平のことを聞くことは、一度もなかった。
「まぁ、何ていうか……いつも四人で過ごしていた仲間だったよ。『伊藤』コンビの女の子に、
 秋平も苗字が『伊藤』で……僕は混ぜてもらった感じだったのかな」
どこかハッキリしない口調が重たく、気にかかる。
「五年前か……悪いこと聞いてしまったね。僕もその頃は日本にいなかったから。こんな風に、
 君と偶然出会うこともなければ、このまま知らないままだったのかと思うと……ショックを通り
 越して、自分が情けないよ」
信じられない。そうとしか言い様がないという面持ちで、しばし木元はうつむき、額に手を当て、
何か感情の高ぶりを振り払おうとするように、首を振った。自分が動揺しては、せっかくもう
立ち直っているように見える千夏に、要らぬことを思い出させてしまうと思ったのだろう。
「――それより、野枝君は……元気ですか?」
話題の停滞を吹き飛ばそうとするサワヤカスマイルだが、覇気に足りない。
「元気です。昔から、あんなに口が悪い人でしたか?」
先週末にやり込められた記憶が蘇り、腹立ちが再燃した。すると彼は、ホロッと緊張が崩れたように
微笑んだ。
「ご両親には、せめてもう一度会いたかった。少しも知らずにいて、本当に不義理をしました」
「野枝さんには? 宜しかったら、うちにいらして下さい」
「彼女……今は……」
言いかけて、その言葉を思い直してか、青年医師・木元は、一度視線を落とし、再び顔を上げた。
「君は今、野枝君と二人で?」
「あと、男の人が一人です。あ、いえ、ただの友達で、男の人といってもオカマさんなんです」
こんな少女の口から出る言葉とも思えなかったのか、木元は絶句して、しばし氷結していた。
千夏は、それにも特に気は留めず、
「野枝さんは独身で、今は特に恋人もいないみたいですよ?」
「いや……別に良いんだよ、それは」
ザラザラしてきた顎の辺りを手でこする、困ったような仕草の彼に、千夏は眉をひそめた。
「どうかしましたか?」
どうも、言いたいことがあるような、ないような。いい大人のくせに、女の子と話すのに慣れて
いない男子生徒のような焦れったさを感じる。このままではラチがあかないので、とりあえず
千夏は立った。
「じゃあ私、今日は失礼いたします。また今度、ゆっくりお話しをうかがいますから」
木元医師は、はっと顔を上げると、
「……あぁ。じゃ、尿検査、忘れずにお願いしますね」

――だからそれはもう、えーっちゅーんじゃい!!

いくら顔が良くても、こういうデリカシー欠損タイプはイヤだと、千夏は拳を握った。
それもあるけれど、どうもモヤモヤすることは、木元が漏らした、自分の両親と野枝の関係
についてだった。もし野枝が言うように、本当に千夏の母親・春奈を心から愛していたとすれば、
父親の秋平とは恋敵? それもまた、奇妙な図式だが……。

尿検査の容器一個で、ピチピチの若さが五、六歳分も削がれたような気分になって帰宅すると、
リビングから談笑が聞こえ、それも思いがけない声が混じっていたので、千夏は「まさか……」と、
リビングに駆け込んだ。
「おう、遅かったな。やっと帰ってきたか」
こちらを向いている野枝よりも、後ろ姿の真理が、彼が振り向くより前に、網膜にあぶり出し。
「あ……済みません、僕もう、おいとまします、こんな長居するつもりじゃ……」
真理は慌てて時間に気付いたように立ち上がった。
「何も、千夏に会いに来たんだ。一緒に夕飯でも食べていきなよ、真理君」
「でも、うちに何も言わずに来ましたから」
何で自分ヌキで、野枝と真理の間でこんなにも話がスムーズに運ばれるのかが分からず、
驚くよりも癪(シャク)に障るものがあって、千夏はムッツリ立ち尽くした。
「無理強いはしないが。……じゃあ今度、改めて来ると良いよ。な、千夏。せめて送って
 あげなさい。彼、わざわざおまえに会いに来てくれたのに、帰ってこないから」
千夏が仕切るスキもない。背中を押され、いつのまに真理と二人、玄関から送り出されていた。
「――ごめんね、なっちゃん……勝手に上がり込んで。どうしても、直接言いたいことがあって、
 それを一言と思っていたのに、野枝さんの好意に預かっちゃって」
「良いわよ。それで、何?」
邪険な千夏にも、真理は優しい口調を変えず、
「この間は、突然すぎて悪かった。ごめん。でも、やっぱり忙しくなるし、それで疎遠になっていく
 よりは、ちゃんと自分でケジメをつけて、なっちゃんと会うことを支えに頑張れるようになりたいと
 思って……。そういうこと言うより先に、紋切り型の口上になっちゃって、本当にごめん」
千夏は、少し視線を上げた。夕暮れだから、ちろっと見る程度にしか映らない位と計算して。
「その分、これから手紙書くよ。会えない分」
「てぇーがみぃ〜?」
何を陳腐な、と小馬鹿にした表情は、オーバーなくらい、露骨にして。『手を握ろう』以来の、
爆笑少女趣味、笑ってやるぜ! と思いつつも、内心は結構嬉しい。
「いつも、会えて当然と思って、本当になっちゃんと話したいこととか、吟味することなんて、
 あまり無かったから。そういうのも、大事かなと思って」
「……良いわ、もう。勘弁してあげる」
急に大人になったように、物わかりが良くなる。その気まぐれな豹変ぶりにも寛容に、真理君は
「有り難う」と胸をなで下ろす。まだ心の中では、ぶつぶつ文句を言ってはいたものの、彼の
様子に満足な千夏は、もうすっかり機嫌は直っていた。
「――それより、今日は思いがけず、随分野枝さんと話せて……本当に良かったよ」
不意に声のトーンがちょっと変わって、千夏は、あれっと彼の表情を見る。
「厳しくて、型破りだけど大きくて、何ていうか……泰然としていて。本当に、自分の価値観を
 信じて生きてるって感じがした」
はにかむような、思い出してはくすぐったいような様子。彼のこんな表情は、見たことがなかった。
「憧れるって言うと変だけど。素敵なひとだね……」
自分の知らないところで、野枝と急接近したらしい真理に、千夏は何か、イヤ〜な感じ。
木元医師との出会いが投げかけた疑問も相まって、彼女の中に、『何処か』に何かをぶつけたい
重いが、理由を探し始めていた。『何処か』――何をぶつけようと、決して揺るぐことのない、
と彼女が感じる場所。


「良い男じゃないか、彼。なかなか見どころがある」
千夏が戻ってくると、流しで茶器を片づけながら、野枝が言った。千夏は、ぷいっとして、
そのままソファーに。
「……いやらしい。なに二人で密談してたのよ」
「これくらいを『いやらしい』なんて言ってたら、続かないぞ」
「何よそれ。どういうこと?」
自分からふっておいて、千夏は振り返り、野枝に問いただした。
「千夏は、真理君のスネ毛を見たことあるか?」
「なっ……」
突然、何を言い出すのかと、千夏は目を丸くした。野枝はといえば、下がっているタオルで、
きゅっと手を拭くと、ダイニングチェアーを引いて座った。
「三年後の彼の顔も、好きだと言えるか? 男の子は、これからまだ顔が伸びるから、大抵の
 美少年は、ただの編みすぎたワラジになる。美青年への転換というのは、そう簡単じゃない
 んだよ。ゴツゴツしてきて、ひげザラザラ、毛モジャになって」
「やめてよ、そんなこと言うの!」
「もしそうなったら、嫌いになるのか? 自分で、彼の何処が好きなのか、分かってるか?」
「真理君のこと、ひどく言わないで」
「違うよ。彼の良さがよく分かったから言うんだ。千夏にね」
「は……」
「今は感じてないかもしれないが、自分の女としての生理を彼に理解してもらおうというなら、
 彼の男としての生理にも、理解を払わなければならないよ」
「……どういうこと」
千夏はソファーの上に正座して、体も野枝の方に向けた。野枝は、落ち着いた声で、
ゆっくりと話した。
「真理君だって、スネ毛もあればワキ毛もある。それだけじゃない、エロ本見ればチンチン硬く
 なったりする男だ。それが当たり前。それをおまえは、汚いとか、いやらしいとか言って、
 それだけで彼を嫌いになるか?」
「なっ、何てこと言うのよ野枝さん、もう信っじらんない!」
先刻から、もう何を言ってんだかサッパリ分からないのと、考えたくもないようなことを言われて
パニックの千夏は、湯沸かしヤカンのように湯気を吹いた。そんな彼女を見て、やはり自分でも
よう分からんことを引き合いに出してしまったかと思ったのか、野枝は溜息をつき、ちょっと考える
ように、首を傾げた。
「何を言おうとしているのか、分からないか。……つまり、真理君を、夢の中の王子様に仕立て
 上げるのは、彼に対して『現実』というものを許さない、非情な行為になるということだ」
「……そんなこと、考えたくない」
「確かに――考えなくても良いのかもしれない。今は」
じっと、野枝と千夏の視線が出会い、しばしそこで留まった。その時、何だか野枝の様子が
奇妙で、千夏は何となく目が離せなかった。
「……悪かった。変なことで口出しして」
その言葉の唐突さにも、また面食らってしまった。野枝が謝るなんて……
「だったら……何でそういうこと言ったりするのよ、もう……もっと他にも言い様ってもんが
 あるでしょう?」
「いや、本当に彼が気に入ったから。あんまり、どうでもいいことで喧嘩したり、我が儘を
 言うのは、よした方が良いよと思っただけなんだ」
「そんなプライベートなこと、干渉されたくないわ。第一、一回会った位で、真理君のこと
 何でも分かったように言わないで。不愉快よ」
千夏は立ち上がると、リビングを出て行った。
「……不愉快、か。もっともなことだ」
野枝は溜息をつくと、立ち上がり、換気扇のスイッチを入れると、煙草を取り出して火をつけた。



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