「ママは何でも知っている 5」へ          NOVELSへ           TOPへ






「なっちゃんの、お母さん……ですか」
そこに、確たる肯定はなかった。だが、野枝はそのまま否定をもせずに、
「親を亡くしているから、あの子の我が儘を許してほしいと言うんじゃあない。ただ千夏は、
 そうとは気付いていないけれど……この世でたった独りぽっちにされる不安に、子供ながら
 直面させられたからね。本能的に、護ってくれる存在を、確かめずにはいられないんだよ。
 だから、理屈でなく、あの子が安心できる日が来るまで、もう少しだけ、待っていてあげて
 ほしい。……若さには、その『少し』も、随分と辛抱の要る時間だろうけど」
野枝の言葉に、真理は神妙にうなずいた。
「ちょっとゴメン」
そして野枝は席を立つと、一服するのにベランダを開けた。
落ちかけた夕陽が灯ったような煙草の火が、深い息に合わせて、宵の明星になる。
真理の視線が、その灯の軌跡を追いかけていた。
「私は、千夏の母親代わりになろうなんて大それたことは、考えもしなかった。まして父親でも
 ない。親や兄弟のような、血の繋がりは持たない私が、まことしやかに親ぶってみせたって、
 反感を覚えるさ。血は繋がってないんだ。私は、千夏の親にはなれない。けれど、保護者には
 なれる。『家族』になれる。あんたは私の何なのさと言われても、私は親でも親戚でもない、
 けれど『家族』なんだと。『家族』として愛していると……それだけ。実際、それしかない
 んだよね、私には。逆に言えば、血の繋がりがあるからという安易な逃避ができない代わりに、
 所詮血は繋がっていないのだからという本末転倒の逃避もしないと決めている。そんな覚悟も
 なしに、本当に千夏を護ることはできないからね」
じっと黙っている真理を、ちろっと見ると、野枝はまた肩をすくめた。決まり悪くなったのか、
ちょっと沈黙。
「――喋りすぎたな。悪い、初めてのお客さんなのに」
苦笑すると、ちょっと精神を落ち着けるように、もう一服してから席に戻り、灰皿に煙草を押し
つけた。真理も、おもむろに背筋を正して、
「いいえ……何だか、とても初めてお会いしたとは思えない気分です。いつも、なっちゃんから
 話で聞いていたせいかな……。話では、一体どんな人だろうと、想像も付かなかったのに、
 今それが、綺麗な色に結晶したみたいに、ハッキリと分かった気がします」
ははっ、と何故か焦って、紅茶で喉を潤す。
「なっちゃん、いつも家族の人のことを話します。野枝さんのこと……ルイさんのこと。
 生き生きとした情景があふれるみたいに。まるで、友達で、兄弟で、親御さんのような感じで。
 それが、僕には不思議で、新鮮でした」
「私についての文句も、随分と聞かされただろう。口が悪いからな、私は。自覚はしてるんだが、
 いっつも千夏が、優しい心遣いがないと言っては怒る」
「そんな! なっちゃんは、ただ……」
深刻な表情になる真理に、野枝は明るく笑って、
「いーのさ。その分、ルイが千夏の愚痴を聞いてやってくれる。乙女心はオカマにお任せ、
 ってね。――千夏が私みたいになったら、あの子の両親に申し訳が立たんよ」
「なっちゃんは……野枝さんに、甘えてるだけですよ」
「それは君に対しても同じことだろう。聞いてると、可笑しくってね。ねんねぇのくせに、年頃に
 マセて、自分達がフツウかどうかが気になって仕方がない。悪いけど、あの『手を握ろう』
 事件には、大笑いさせられたよ」
「あ、あの……」
真理は、バツ悪そうに縮こまった。事件、というのは、付き合って半年にもなるのに、キスも
していないという現状を指摘した千夏に、真理が、「なっちゃんが大好きだよっていう時に、
手をぎゅっと握るから」と、代替措置を申し出たというものだった。真理は赤くなって、
「……少女趣味だって、散々なっちゃんに貶(けな)されました」
「そうかい? 私には、千夏が惚気(のろけ)てるようにしか聞こえなかったよ」
含みなく笑う野枝に、少し気が軽くなったのか、真理は自分でもハハッと笑って、
「僕は、やっぱり姉さんっ子だし、どちらかといえば母さんっ子で。小さい頃は、女の子とばかり
 遊んでいたような環境だったし。だから、女の人と接するのは自然で、特に違和感もない
 んですけど……逆に、『女の子』、みたいに扱えって言われたら、戸惑っちゃうみたいです。
 何だか気恥ずかしくて。だから、付き合うって言っても、なっちゃんの感覚とズレちゃってる
 のかもしれません」
「あの子にだって、具体的なイメージなんか無いさ。今はまだ、外から入ってくる情報から、
 自分を形成しようとしている段階だ。だけど、愛し合うプロセスに、標準的なステップなんてない。
 二人がそれぞれに丁度良い早さを、相手を見ながら見付ければ良いんだよと言うんだが。
 ま、今のあの子には分かるまい。相手をちゃんと見るというのが愛の基本で、自分勝手に
 舞い上がる恋なんて、私は長続きしないと思うね。……君は、それを本能的に知っている
 みたいだから、安心した」
突然、何だか自分の彼女の父親と対面しているような緊張感が漂い、真理が再び堅くなった
のを見て、野枝が笑った。
「プレッシャーかけるつもりはないよ。二人のことだからね。ただ、私のところには、千夏と同じ
 年頃の女の子から、よく手紙が来るんだ。ファンレターというより、悩み相談だな。まー様々よ。
 友人関係の悩みとか、果ては妊娠や不倫、セックスに関することが多いけど。その深刻さに
 比べると、やっぱり君が、千夏を労り思いやりながらいてくれることを、幸運だと思ってしまう
 んだよな。……彼女達は、体は成熟しても、精神が抑圧されて成長できないように矯(た)
 られているから、そのバランスが崩れると、何故そうしたいのか理由も分からないままに、
 衝動的に何かをしてしまう。身勝手な男、無知な女、いい加減な人間……覚悟もなしに、
 他人の人生と自分の人生を繋ぐと、無為に傷つくことになる。そんな時、大体の大人は、
 役立たずだ」
やっと、真理の紅潮した面持ちが、普通に戻ってきた。
「たとえばね、私に言わせれば、今のバァさん達の時代にだって、援交・ブルセラみたいな
 存在は、常にあったんだ。戦前の新聞を調べてた時、そんな記事を見付けて、いつの時代も
 変わらないなと笑ったもんだよ。それを無視して、若い世代を罪の世代として突き放すのは
 考え物だね。不毛なイタチごっこだ。考えてもみなよ、昔は『十五で姐やは嫁に行き』だ。
 その頃より栄養状態は格段に改善されて、体の発育も良くなって、女の子の初潮の時期も、
 ずっと早くなってる。中学生のセックスも妊娠も、そういった観点からすれば、ごく当たり前の
 現象として捉えられる。だから肝腎な問題は、肉体の在処(ありか)じゃない、精神の所在
 なんだってことだと思うんだが。……何しろ精神は目に見えないもんだから、すぐ人間は、
 肉体の問題に終始させる」
ちょっと彼には、どう相槌を打ったものか、微妙な話題。けれど真理は視線を下げずに、
「その悩みに……野枝さんは、何て応えるんですか?」
「応えられない」
きっぱりと言うと同時に、野枝は席を立った。真理が視線で追いかけると、彼女はキッチンで
ヤカンを取って、蛇口をひねった。
「私に答えは無い。私自身、今も何かに問い続けていることに、違いはないから。私を物書き
 として動かしているのは、その問い続ける思いなんだ。私という人間のことはすべて、生き方、
 考え方までも、私の書いたものの中にある。それを通して語りかけることしかできない。
 精神の所在を求めながら、私はこうして生きているというメッセージだけだ。そしてまた、
 他人に答えを求めて待っている間にも、自分の力でできることはあると信じているし、
 何かを求めるなら、自分もそれに見合うだけの努力を前提とするはずだからね」
そして野枝は、ヤカンを火にかけた。
「だから、私にとっての『書く』という行為は、厳しい覚悟によって自律している。
 答えはあげられない、だからこそ問い続ける。……ひとは皆、一人ひとりの人生を背負って、
 問い続けているんだって、そのことを伝えるくらいしか、私にはできないよ。答えは自分にしか
 見付けられない。自分で見付けられる、皆それだけの力は持っているものだと、信じている。
 そして、その苦しみを分かち合うために、愛するんだと思う。……私は、ね」
カウンターの向こう側、野枝の表情は、真理には、それまでの言葉の重さとは裏腹に、
穏やかな落ち着きに見えた。と思うと、野枝はちょっと意地悪く笑って、
「極論を言ってしまえば、私は君と千夏が寝たいというのに干渉する気はないし、妊娠して
 退学になったって構わない。千夏が、それで幸せだと言うならね。そして、その自己決定の
 意味を、ちゃんと自分で理解しているなら。私は、青少年の男女交際が健全安全であれ
 なんてことは、自分の過去に照らしたって、決して言えやしない。ただ、『何事も経験』以上に、
 無闇やたらと傷つくことは、保護者として当然に望まないことだ。――だから、私が君を
 歓迎している理由を、はき違えないように」
過激な極論に、真理は一瞬にして硬直してしまった。すると又、野枝は微笑して、ぐっと
カウンターに肘をつき、彼の方に身を乗り出した。
「さて……私はもう、充分お喋りをした。随分と余計なことまでね。カマシも効いたところだし、
 そろそろ君に、楽しませてもらいたいな」
「は……あ」
張り付いたような顔の筋肉のままだった真理は、今度はつられて、野枝の笑みに崩されて
しまった。



「ママは何でも知っている 5」へ          NOVELSへ           TOPへ