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真理との仲直りはまだだし、野枝にはコテンパンにやり込められたしで、週が明けても、
千夏は気分がスッキリしないまま登校した。そうしたら、その日はまた呼び出し。しかし今度は、
医務室にということだった。
「保健医が何の用だっちゅーのよ……」
何をするのもうざったいのに、と机にカマボコ状態。
「でも千夏、今日って木元(きもと)先生の日よ。ホラ、大学から来てくれてる」
隣の席の女子に肩を叩かれ、千夏は少し顔を上げた。
「あの、男の先生? ホントに格好いいの?」
「格好いいっていうよりは、可愛いの! もうオッサンなのに、ウブな感じなんだよ。白衣と
 清々しい笑顔が何ともサワヤカ〜しててさ。まだ独身だってよ。マザコンかな、うっ」
「やっだ、確かめてみよっか? げろげろー」
ほんの些細なことでもすぐ気が逸れるのは、若さの特権。大体、ダレていても体力は消耗
するのだから、はしゃげるネタが有る方が良い。

「――失礼します。二年C組の伊藤ですが」
「あぁ、どうぞ。そこに座ってください」
椅子をキィッと回して振り返った、その眩しいような笑顔は、彼女の身近にはいない、三十代
半ばらしい男性。少年とは違う、頭蓋骨の伸びた精悍な表情に、思わずときめく千夏は、
かしこまって丸椅子に座った。
「あの……何でしょうか」
「あぁ、伊藤さんはね……」
青年医師は、デスクの上の小さな容器を、彼女に渡した。
「尿検査が引っかかってしまったので、再検査をしますから、明後日までにお願いします」
――十七歳のうら若き乙女の身ながら、千夏は一瞬、もう自分には、二度とロマンスは
巡ってこない気がした。
しかし、青年医師は相変わらずサワヤカに、
「再検査と言っても、別に心配はありません。生理の前後で微量に経血が混じったりして、
 女子にはよくあることなんです」
「……そうですか」
別に心配はしていない。このデリカシーの無さも、「ウブ」というのだろうか。こんなもの、
担任にでも渡してくれれば良いのにと、千夏は一気にウツに入り込んだ。
「伊藤……千夏さん?」
ふと顔を上げると、木元医師は、彼女の健康診断書を見ていた。あ、それには体重も載っている
のに、イヤーッ! と、追い打ちをかける行為に、血圧が――
「伊藤さん、つかぬことを聞きますけど……あなたのお母さんは、春奈さんといいませんか?
 お父さんは、秋平さん」
唐突な質問に、千夏は目をパチクリさせた。木元医師の澄んだ瞳が、ひどく真剣に、彼女を
見つめている。
「はい、そうですが」
彼は、何ともいえぬ表情に感情を凝(こご)らせ、遠い記憶を確かめるように、再び彼女の顔を見た。
「あぁ、やっぱり……! 春奈さんに、よく似ている……」
「母を、ご存じなんですか?」
「お父さんも、ご両親はお元気ですか?」
「……事故で。五年前に、二人共亡くなりましたけれど」
その言葉に、彼はしばし呆然とした。そして次に慌てたように早口になって、
「じ……じゃあ、君は今、誰と暮らして?」
「母の親友だった、野枝さんという人です」
二度目の呆然。呆気にとられた様子の青年医師の顔は、あと一回見たら滑稽なほど、何も
言えないカラッポの状態を表していた。
「野枝君と……!?」
やっと絞り出されたような言葉が、記憶と現在との時差の隔たりを示す。


* * * *


夕刻、野枝が買い物袋を下げて帰ってくると、個別に階段が付いているマンションの入り口で、
右往左往している少年がいた。留守らしいが、どうしようという面持ちだった。
「当家に、何かご用ですか」
背後から声をかけられて、ビクッと振り返ったのは、見たところ高校生。野枝に、じいーっと
上から下まで見られて、半すくみ状態だった。
「あ……の、僕は……」
「もしかして君、まり君?」
「母田真理です」
ちょっと憮然とした少年に、野枝は少し眉を上げた笑み。
「だと思った。千夏がモロ好きそうなタイプだ。絵に描いたようにキレイな男の子だねー、君は。
 ……いや、素直な感想。気を悪くしたら、ごめんよ」
実際、真理の線の細さは、少女漫画に出てくる中性的な美少年そのものだった。しかし本人は、
それがコンプレックスなのか、先刻よりも表情が硬くなる。そんな彼に、野枝はクスッと笑って、
「安心して良いよ。私は、君の性格が女々しいとは、少しも思っちゃいないから。――千夏は
 まだみたいだが、まぁ、上がっていきなよ」
「えっ」とも「あっ」とも有無を言わせず腕を掴み、階段を上がる。
「あなたが……野枝さんですか?」
「そうだよ。初めまして、真理君」
鍵を開ける時、にっこり彼に笑って見せたのは、とても柔らかな夕陽の色。
「――紅茶かな。それともコーヒー? 私はどっちでも良いから、好きな方を言ってくれ」
ソファーで落ち着かない真理は、肩をすくめて、
「あ、じゃあー……こ……こぉー……ちゃ、お願いします」
「ストレート? 千夏はいつも、牛乳紅茶かってくらいに、ドボドボに入れるけど」
「僕は……ストレートで結構です」
「千夏も、もう帰ってくるだろう。あぁ、あとオカマが一人帰ってくるかもしれないが、驚かなくて
 良いから」
「は? はぁ……分かりました」
会話の「質」が何か不思議なもので、真理の肩の力は、少しずつ抜けてゆく。
「私の入れ方は、どうも乱暴だと怒られるんだが。一応、今回は気を付けてみたよ。どうぞ」
来客用の白磁のティーセットは、彼によく似合う。野枝は、特に意味は無いのだろうけれど、
また彼をじっと見て、微笑した。真理もつられて、自分でも不可解な笑み。
「千夏と、喧嘩したんだって?」
野枝は腰を下ろすと、早速自分も紅茶を一口。
「もっとも……あの子が売っただけで、君には押しつけられた様子だろう。悪いね、我が儘な
 子で。 いつも君が我慢してくれているのが、千夏の言の葉からも分かるよ」
「我慢なんて……なっちゃんは、気が短いからすぐに怒るけど、よく話せば分かってくれますから」
「我が儘だし、甘えん坊だし……世間をしらない自己チューだから、恐れも知らずに、何でも
 思う通りでないと気が済まない。流石の私も、まいるよ」
野枝が肩をすくめると、真理も苦笑した。
「それでも……可愛くてね。あの子が。――私の、最愛の人の、忘れ形見だから」
ふと、瞳が遠くなる。懐かしみ、愛おしみ、そして……悼(いた)むような。そこには誰も立ち入る
ことはできない、過去という名の、閉ざされた部屋。



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