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忘却都市



港近郊の歓楽街に逃れてから、偽装トラックにより首都から一旦は南に迂回。
その後に北上して研究学園都市へ。四十度近い荷台で何とかやり過ごし、
都市に着いてからは、科学者達の協力を得て更に北上。都市で、傷による発熱のために
一日を過ごしたが、摩耶が移転した“解放同盟”本部に無事たどり着いたのは、
“タワー”逃走から四日後のことだった。
そこは、動乱の際の崩壊以来、中央政府が既に関心を失い、復興どころか放置されるまま
荒廃した地方都市。政府が優先事項と判断した以外の場所は全く顧みなかったという、
典型例の旧都市だった。その荒れ果てた旧市街地にある旧都市庁舎が、仮の本部
となっており、摩耶がそこに到着すると、それは百人あまりの熱狂的な支持をもって迎えられた。
主立ったメンバーの中には、感激して泣き出す者もあったが、摩耶はそれを宥(なだ)め、
数少ない女性メンバーの一人に導かれ、急ぎ地下へと降りていった。
案内役の女性を外に残すと、摩耶は独り、旧式のドアノヴを回した。前世紀の遺物のような、
機能美すら介在しない、無機的な「お役所」の一室。それでもそこは、まだマシな場所
であるに違いなかった。こうして、怪我人のためのベッドを運び込んだのだから。
「……ただ今、戻りました」
後ろ手にドアを閉めると、彼女は静かに言った。ベッドの横には、ボンヤリとした色の、
携帯電気ランプ。それに照らされた、ベッドの上の男性は、薄目を開けた。
病床にあることを物語る無精髭の下には、しかし年齢を重ねても失われぬ純粋さを持った
表情が見える。
「お帰り……摩耶。――無事で良かった」
摩耶は歩み寄ると、彼がベッドの上体を起こすのを手伝った。
「多くの盟友の介助により、ここまでたどり着くことができました」
「そうか……熱っぽいようだが、大丈夫か」
「はい」
槐谷は、体に数カ所の銃弾を受けたらしく、包帯が衣服の下の身体を、
肌着のように包んでいた。
「……そうか。無理をしないでくれ。とにかく良かった」
まだ多く話すのが難儀なのか、すぐに息が切れる。それを摩耶が、その手を彼の胸の上に
そっと置き、抑える。交わされる眼差しが、言葉を補う。彼は溜息をつき、
「また多くの志士を失った。……振り出しに戻ってしまったな」
「けれどゼロではありません」
摩耶は横にあった椅子に腰掛けた。
槐谷は、起こしたベッドに凭(もた)れながら、軽く息をつく。
「君は、保安局に連れて行かれたのか」
「はい。何も喋ってはいません」
彼女の応えに、槐谷は頭を振った。その、そっと外された視線に悟った摩耶は、
少しの沈黙の後に、言った。
「――洗智長官、直々の尋問を受けました」
槐谷の目が、彼女の頬の傷を見付け、苦しみに細まった。だが摩耶は、無感情に、
「さすがのあの男も、ひどく感情的になっていました。抑えようとはしていましたが。
 私には個人的な恨みがつのっていますから、無理もありません」
「傷は……痛むか」
「いいえ。あの男に付けられて痛む傷など、ありません」
気丈な声が返る。だが槐谷は、そっと目を閉じた。
「彼は……何か、言っていたか。洗智は、私に」
「……いいえ」
先刻の答えよりも、わずかな遅れ。一瞬の間が、躊躇を示した。だが槐谷は、「そうか」
と言うと、それ以上、何も聞かなかった。しばしの静寂(しじま)が、ぎこちない空間を形成する。
摩耶も、しばらくは何も言わず、表情は変わらなかったが、膝の上の拳を、キュッと握ると、
「……あなたもお疲れのことと思いますから、今日はもう、失礼いたします。
 槐谷、どうぞ体を大事にして、早く私達を安心させて下さい。その他のことは、
 私もこうして戻りましたし、どうか心配なく」
「分かった。……本当に有り難う、摩耶」
槐谷はとうとう、目を開けなかった。摩耶は軽く息をついて立ち上がると、
そのまま出て行こうと背を向けた。

「――摩耶」
おもむろに、彼女の背中を呼び止める声。振り返っても、彼は目を閉じたまま。
彼女は数歩を戻った。静かな余韻にたたずみ、そして次にそこに放たれた言葉に、
凝然と立ち尽くした。
「……服を、脱いで」
槐谷の表情はうかがえない。彼女は軽く唇を噛んで、黙って彼の横に付くと、
くるりと背を向け、ベッドに腰掛けた。そして、ゆっくりと胸のボタンを外し始め、
それが全部済むと、そっと右肩から、シャツを滑らせた。
彼女の白い柔らかな肌を引き裂いたような、忌まわしい背中の傷が露わになる。
ナイフで切り刻まれたカンヴァスのように、無機的で、しかも生々しく、痛々しい。
化膿止めと鎮痛剤を服用しても、その痕は、すぐには消えない。
――伝える言葉は、一つだけ。そんな、怨念が刻み込まれた刻印。
それが誰の手に依るものなのかは、問われなかった。
「……酷いことをする」
糸が切れるほど絞られた麻布のように漏れた言葉が、静かな苦痛として、
沈黙にしみ渡る。摩耶の背は、微動だにしない。きっと、その瞳も。
「これくらいのこと、私は何とも思いません。これくらいのことなら、私だって……
 人を殺し、全身が血で穢(けが)れているのですから」
「もう良い、摩耶……もう、良い」
摩耶は黙ってシャツを羽織り、また一つ一つボタンをはめていった。その最後の一つ。
それが終わると、ふと手が止まった。そんな時、槐谷の呟きがこぼれた。
「……その傷は、私が付けたようなものだ」
手が、震えた。

「――いいえ……違う……」
初めて、彼女の肩が、震えた。
「ひとりの男が……女に向けた憎しみ。それだけです。権力者でも何でもない、
 ただの男として」
それだけのこと。ただ、それだけ。そうやって、胸の奥底に、傷口を深く押し沈めてゆく。
どんどん出口を失ってゆきながら。
「悔やんだことはありません。私は……悔やみはしません。絶対に」
同じ刃(やいば)を抱く者――槐谷は言葉もなく、そっと彼女の背を抱いた。
それしか能(あた)わぬ、この薄闇の空間の中で。

彼女は誰よりも知っている。彼と二人、平穏に生きることは叶わないと。
摩耶が槐谷と共に居られるのは、ただ闘いの中でのみ。それを分かっているから、
彼女は闘い続ける。彼と共に居られる保証など何もない平和な未来より、
今という動乱の中に身を置くことしかできない。闘いには不可欠な“象徴”という存在を、
巧みに演じ続けながら――傷つくことでしか叶えられぬ願いのために、彼女自身は一層、
闘いと不可分になってゆく。おそらくはあり得ぬ、成就という未来のことは、何も考えずに。
また、たとえそれが破滅へと導かれる路であっても。
それを知る、ただ一人の男とは、真実の言葉も交わせぬまま。



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