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夜の街の学者達



毒の色がごった返し、泥仕合に混ざり合った不夜城。ここは前世紀から変わらないように、
人々を酔わせる毒を垂れ流し、放出し続けた場所。真実を覆い隠し、虚偽を生み出す夜の街。
潮の香りも濁ったような、こんな場所からでも、あの“タワー”の姿は、威圧的に伺うことができた。
しかし、一本裏道に入れば、けばけばしい表通りとは一転して、滅び行く文化の腐敗するさまを、
冷たく傍観する廃棄所の気配。薄暗く、淀む空気。そこを、重い足を引きずるように、
何かに追われるような影が走る。ある店の裏口を叩く。すると、さっとドアが開いたかと思うと、
風のように中へと引き込まれた。
「――よくご無事で。摩耶」
彼女を迎えたのは、裾がほつれかかった紅いチャイナドレスをまとった、酒場女。
年は、四十は越えているだろうか。だが、その安っぽい身なりにそぐわず、ずぶ泥に濡れた
摩耶同様、知性の深い輝きを瞳に宿していた。摩耶は、浅く息をつき、甘ったるい砂糖水を
浴びせかけられホコリまみれになったような髪を、かき上げた。
「……話には聞いていたあなたの所に来られるとは、考えもしなかったわ。酷(ひど)い格好ね、
 私……匂いも酷そう。御免なさい、ところ構わずはいずり回ったものだから」
むせ返るような熱気が、彼女の体から、なま暖かい水滴を蒸発させる。
女性は微笑して、摩耶の手を引いた。
「まず、着替えて下さい。地下シェルターの方へ」
その手を、逆に摩耶が掴む。女性が振り返ると、摩耶の目が、刺すような美しい冷たさで
見つめていた。
「……教えて。あなたなら知っているでしょう。槐谷は今、何処に?」
手に力がこもるのは、震えを押さえるため。一秒先には彼方へと飛び去ってしまうような
事象すら見逃すまいとする瞳の力が、全身から立ち上る疲労の色すら払拭する。
女性は、そっと彼女の手に、自分の手を重ねる。囁くように、しかし、しっかりと、強く言った。
「無事だそうです。一時は安否が気遣われていましたが、確かな情報が入りました。
 そして摩耶、あなたの奪回に全力を尽くせ、と」
「生きて……いるのね」
「満身創痍ながら、一命は取り留めたそうです。やっと意識が戻った状態ではありますが、
 もう危険な状態は脱したと……あっ」
ガクッと崩れる摩耶を、紅いドレスの女が抱き留める。
「御免なさい、膝が……いけない、あなた汚れるわ」
「さ、シェルターへ。ここには誰も来ませんけど、長居は無用です」
彼女に連れられ、摩耶は古典的な地下シェルターへと階段を降りていった。
シェルターといっても、内部の作りは普通の部屋と変わらない。
「こんなに早く、あなたを取り戻せるとは、正直思ってもいませんでした。万全の体制で
 待機してはおりましたけれど……予定外の保安局に移送されたのが、思わぬ幸運でした」
体を洗ってから、摩耶は女性が用意してくれた木綿のブラウスを羽織った。
ただの堅いスチールの椅子に座ったが、それでもあの尋問で座らせられたソファーよりも、
何百倍もホッとする温もりを感じた。
「確かに、収容所のように容疑者を監視するための施設ではないものね。――この私ですら、
 “タワー”のシステムに侵入してみるまで、応答を得られるかなんて、半信半疑だった」
「応えてくれたでしょう? 彼らは」
「……私にIDコードを渡してくれた人は、ただでは済まないのでしょうね。あとの人は、
 うまくやり過ごせたのかしら」
テーブルをはさんで摩耶の正面に座った女性は、
「彼らは、あなたと槐谷氏に、希望を託しているのです。来(きた)るべき日、未来のために。
  ……様々な人間が手を繋がなければなりません。強いられる犠牲は平等ではあり得ず、
 また明確な代償の見込みなど無い。あるのは、いつかは訪れるという、未来への確信だけ」
摩耶が少し視線を上げると、女性は、穏やかに笑む。
「私自身、いつまでリベラシオンに協力できるものか、明日の保証は何一つありません。
 この周辺は、政府も、電波の混乱や無秩序にも目をつむっているということがあり、
 比較的安全ではありますが、いつなんどき、摘発が及ぶか分かりません。けれど、
 私だけではない。一掃しようとしても、しきれないほどの数の仲間がいるということを、
 国家もいずれ悟るでしょう。偶然と幸運によって得た地位に慢心し、誰も批判する者など
 存在しないと押し切ろうとする愚かしさを。――学府に残ることを選んだ者、追われるしか
 なかった者。それぞれの異なる人生の中にも、異なる形の、しかし同じ闘いがあることを。
 私のような社会科学系と違い、業績に思想の反映されにくい理系の学究者達は、
 言論は封殺されても、研究は許されています。れっきとした国家機関、しかし或る
 閉鎖的な場所に押し込められて」
「――研究学園都市?」
「そうです」
彼女は、両手の指を組み合わせた。
「私はあなたを、ここから研究学園都市に送り、そこから槐谷氏を始め、メンバーが
 潜伏する場所へとお届けするつもりです。明日の夜には、研究学園都市に着くでしょう。
 暑いでしょうけれど、どうか耐えてください。保安局は海ルートに気を取られていると
 思いますので、あえて陸路を取ります」
「耐えるのには慣れているわ。大丈夫。空調されている方が具合が悪いくらいよ、私は」
「結構。……安心して下さい。運転手は元弁護士の男性で、あなたの活動を支持し、
 協力してくれている人物です」
「有り難う。……感謝するわ」

――また、新たな輪廻が始まる。摩耶は、溜息をついた。新たな人を巻き込み、
更なる犠牲を増やしては巡り行く運命。おびただしい量の血の上に築かれる、闘いの礎石。
……いつ果てるとも知れぬ、昼と夜の繰り返しの数だけの闘い。



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