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聖女との対話 4



「次官殿、規定時間の十五分を超過しておりますが、お済みになりましたでしょうか」
緊迫を破ったインターホン。征騎は我に返り、はじかれたように立ち上がった。
くるりと後ろに回り、端末のキーを叩いた。
「申し訳ない、もうあと数分で済む」
「お急ぎ願います。規定外の行動ですから」
精神的な緊張から、ズキズキ痛む前頭葉に手を当てて、征騎は溜息をついた。
「――今のあなたに、私が殺せる?」
振り返ると、再び彼女の眼に捕まる。
「何のために、異なる思想を持つ人間を、殺してまで否定しなければならないのか。
 その意味を、まだ肌で認識したことのないあなたに。……少なくともあなたは、
 もう考え始めてしまったはず」
摩耶の言葉は、胸ぐらを掴むように遠慮なく、しかし思慮深く、重い感触。
息苦しさを喚起させる。彼は言葉を継がぬまま、また消毒液と脱脂綿を取った。
最後に、彼女の頬の傷の手当てをするために。
「人間的な扱いをしてしまうと、後が辛いわよ」
彼の手が、彼女の頬に触れたところで止まる。
「……人間は、自分に近いと感じる存在ほど、殺しにくい。植物が悲鳴を上げたら、
 花を摘み取るのに躊躇しないでいられるかしら。家族のように接してきた愛玩動物を、
 何の感情もなしに殺せる?」
「僕達の闘争は、人間同士のものでしょう」
「そうよ。戦争はみんなそう。でも、本気でそう思った上で殺し合っているというのなら、
 正気とは思えない。私にはね。『下等なもの』、『異質なもの』。そう思いこんで、
 人間を殺す行為を直視するのを回避するのが、まぁ普通の人間かな。『人殺し』をしている
 と意識してやれるのは、プロの戦争屋でもなければ、あとは変質者だけよ。とどのつまり、
 みんな自分が生きるために他人を殺す。そんな単純な理屈を、どうでも良い大義名分で
 飾り立てて、身動きできなくさせる。そんなことで、自分の存在を護れると思っている。
 ……でも、体は正直よ」
傷口がしみたのか、彼女の瞼が震え、陶然と細く閉じられる。
「最後は理屈じゃない。生死を決するのも。――男達がすぐに私を殺せないのは、
 彼らが私を、紛れもなく生身の女、人間の雌(メス)として、本能的に認識してしまうからだわ。
 ……私を抱かないうち殺すことはできないのよ」
閉じられた瞳。彼を脅かすことのなくなった瞳。けれど今、彼はそれを待ち望むように、
新たなる言葉に耳を傾けるように、手を止めた。彼の手がそっと離れると、摩耶が眼を開けた。
ぐっと、捕らえるように。離れゆこうとするものを、力強く引き寄せるように。
そして、引き寄せたのか、寄せられたのか。彼女の手が、彼の頬を押さえた。
彼が見ていたものは、何。彼女の眼……それとも、そこに映った、紛れもない『自分』という
存在の姿。彼が心奪われたのは、どちらだったのか。
あとわずかしか残されていない逢瀬の時に、息も詰まるほどの思いを交わし合うような一瞬。
刹那の情熱。征騎は、何かに魂が導かれてゆくような浮遊感を覚え、ズンッと巨石を
担わされたような、鈍重な、しかし甘美な陶酔をも帯びた痛みを脊髄に感じ――
そして、それとは異なる激痛によって倒れた。
“タワー”全域に非常警報が鳴り響いたのは、それから三分後のことだった。


「“犬”も使え! 絶対に逃がすな! 必ず生け捕れ!」
中央管制室で、洗智がオペレーター達に怒鳴った。
「しかし、容疑者はまだ認識コードを埋め込まれていません」
「リバース・モードを使え。“タワー”の半径一キロ以内なら、関係者しかおらんだろう。
 海に逃げられてしまっては、“犬”の追跡もできなくなる。容疑者の、その他の全情報は
 入力済みだな!」
「リバースは非常事態のみの例外的なセッティングです。制御が効かなくなることも
 考えられます。そうなりますと、追跡はともかく、ネオ・ドーベルマンの殺傷性が……
 以前、捕獲時に容疑者をかみ殺してしまった例がありますが」
「少々傷が付いても構わん。死なない程度ならばな。そこは、全局員を挙げてでも何とかしろ!」
「了解。――ネオ・ドーベルマン第一、及び第二部隊出動。リバースで制御。
 容疑者に接触したものはコールを。容疑者は生け捕りにせよ。また、複数の内通者がいる
 可能性もある。挙動不審者についても報告せよ」
壁にズラリと並んだモニターが、一斉にパアッと赤紫色に輝き、全システムが、
一つの命令に呼応した。
「ウイルスの方はどうだ」
「容疑者が持ち去った端末により、何らかのパスワードを入力したことにより発生したものと
 思われます。対応はしておりますが、既に内通者との接触が果たされている場合は……」
「システムを破って逃れる可能性か」
洗智は、ギリッと唇を噛んだ。
「くそっ……“摩耶”のためなら喜んで命を捨てるという狂信的な連中を飼っておいたのか、
 この国家保安局が!」
「はぁ、あの、誠に恐縮でございます! 以後は、更なる摘発強化を……」
最早、自らの保身で頭が一杯の局長の姿など、洗智の視界の端にも入ってはいない。
「もう遅い! この期に及んで、“摩耶”を取り逃がそうとは……いいや、絶対に逃がすか!
 良いか、槐谷がまだ後継者を持っていない今、蛇の頭を潰せば組織は死ぬ、あの二人を
 欠いた反体制派など、恐るるに足らんのだ! だからこそチャンスだた、それが……」
洗智は、ダンッと柱に拳を叩きつけた、しかし、何とか気を落ち着けようと、呼吸を整える。
「地下で小規模な爆発です。陽動でしょうか」
「一応確認しろ……。攪乱に気を付けろ、内通者が何人いるのかも未確認だからな」
しかし、本来の主たる機能は行政機関である国家保安局本部は、ほとんどのものが文民で、
常駐の武官は総局員の一割にも満たない。
そして、特別配置されることになっている武官は、いまだ到着してはいなかった。



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