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聖女との対話 1



「何故、医療スタッフが一名もいないんだ!」
征騎は医務室から、情報室を呼び出した。
「先ほど、23階において高圧ガスが漏れる事故が発生して五名が負傷。
 スタッフはそちらにかかりきりです」
「一人くらい、こちらに寄越せないのか?」
「重傷なのですか」
「いや……分かった」
まったく業務的な口調のモニターの女性を見るのが嫌になり、征騎は早々に回線を切った。
「次官、どうなされますか」
キーボードの横に片手をついたまま、しばしうなだれていた征騎は、ゆっくりと顔を上げると、
摩耶を引っ立てている二名の武官に言った。
「僕が応急処置をする」
「はぁ、しかし」
「長官は好きにしろとおっしゃったんだ。君達は手当の間だけ、出ていてくれるか」
「次官殿の護衛と容疑者の監視が、自分達の任務です」
「医務室には監視モニターも設置されておりませんし」
「僕も護身銃は持っている。……そこに彼女を。ドアの外で待機してくれ。
 何かの時には、声を出す」
「……では、できれば十五分以内にお願いいたします」
先刻の洗智のワンマンぶりから、征騎に対しても逆らわぬ方が懸命と考えたのか、
壁際の堅そうな白いベッドに、ドサッと摩耶を下ろすと、武官は敬礼をして下がった。
征騎は壁のボタンを押し、内側から施錠した。

白々と、当たり前のように室内を照らす天井灯が、今は奇妙な光景を浮き立たせている。
制服の青年幹部の目の前に、白いシャツの背を紅に染めた、悪名高き女性テロリストが、
無防備に身を投げ出している。摩耶は、先刻から微動だにしない。意識があるのか無いのか、
そんな様子で彼が見やると、ふと、彼女の髪に目がとまる。そしてしばらく、そこを離れなかった。
女性は皆、長く美しい髪を誇りとし、それを切ることは、『女』を捨てることに留まらず、
国家に対する反逆の意思表明とされていた。これまで征騎の周囲に居た女性は皆、
穏やかでおとなしい印象を漫然と漂わせていたが、確かにこの女性は、その点でも
全く異なった、異質な存在だった。
不意に摩耶が顔を横に向け、彼と眼を合わせた。
「『生きた』女を見るのは、初めてみたいね」
うつぶせから、彼女は肘をついて、彼の方に体を向けた。
凝然と立ち尽くす彼を見て、彼女は補足。
「自らの『意志』により思考し、行動することを知っている女……ということ」
征騎は初め、彼女が随分年上だと、何となく思ったが、実は精々四、五歳しか
違わないのではないかと、感じ始めていた。こんな風に、真っ直ぐに目を見つめてくる女性は
初めてなので、たじろいで、何か自分の言葉を継ごうとする。
「傷を……消毒しましょう」
何となく目を合わせられなかったのは、彼女の頬に刻まれた傷が、
あまりに痛々しかったからかもしれない。
「起きられますか? 無理なら、そのままでも」
彼が消毒液などをひと揃い棚から出す間に、彼女は黙ってベッドに片手をついて
上体を起こし、彼に背を向けたまま、するりとシャツを脱いだ。振り返った彼は、
思わずその肌の、服の上からでは分からなかった、腕や肩にまでついた打撲痕に、
表情をゆがめた。そして、生乾きの絵の具のような血が、既に白い背中で艶やかに
凝固し始めているのに、一瞬、目を背けた。
「あなた……洗智の甥(おい)か何か?」
彼女は、またベッドにうつぶせになった。
その方が彼女と視線が合わないので、彼には心安い。
「……そうです」
征騎は医薬品一式を、ベッドの横の机に置いた。
「随分、荒れてたわね。予想は出来たけど。……薬ボケのおかげで得したのかも。つっ……」
彼女の背が痙攣し、消毒液を含んだ脱脂綿を持った征騎の手も、ビクッとした。
「済みません……気を付けますが、しみるとおもいます」
少し恐縮した彼の声に、摩耶はクスッと笑った。
「随分と親切なのね、あなた。こともあろうに、この私に。色々と、噂は聞いてるんでしょう?」
「あなたが、ラス・メニーナスの一員だったということは、初めて知りました」
一度止まった手を、再び動かし始める.

「体裁の良い話じゃないものね。――あなたも、いずれ女官達の中から、可愛らしい妻を
 迎えるんでしょうけど。どう、楽しみ? それとも怖い? ……私みたいなのに当たることを
 想像すると」
ふふっと彼女は笑うが、如何に公然とした制度とはいえ、あまり軽々しく女官のことを
口にするのは、憚(はばか)られることだった。黙り込んだ征騎に、摩耶は意外そうに、
「あなた、真面目な人みたいね。洗智より、したたかさは足りないみたいだけど。
 でも、政府の宣伝(プロパガンダ)には打って付けの逸材だわ。若く聡明な、
 清潔感あふれる青年。……どう? よく外国からの使節団の対応なんか、
 させられていない?」
また彼の手が止まる。その脳裏を過ぎったものは、何であったか。
「いつの時代も、プロパガンダは政府御用達……。私も、ただあの“空中庭園”の
 価値観の中だけで暮らしていたなら、きっとそれを認識する力の無いままだったでしょうね。
 ――そして、槐谷との出会いもなかった」
「痛くありませんか」
「大丈夫」
彼は一心に傷を、生乾きの血を無理に引きはがすことのないよう、慎重に拭き取って
いたが、傷の半分を終えたところで、溜息をついた。
「……酷(ひど)い傷だ」
我知らずに漏れた言葉に、自分でハッとする。そんな彼の気配を察して、摩耶が微笑した。
「どちらが残酷かしら。洗智の右目を潰したのは私よ。……わざとではなかった、
 必死だったけれど。――洗智と私と、一体どちらが多く、『統計』にしかならない人の命を、
 摘み取ってきたのかしら」
「あなたは、この体制の何処が不満なんですか」
人命を軽んじたような発言に、征騎はこめかみの辺りが熱くなった。
「あなたは、この体制の何処が素晴らしいと思うの」
視線は交わされないまま、緊張が立ちこめた。静かな応えに、また言葉を奪われ、
思考の不在のまま、征騎は傷を見つめ、残りの傷をぬぐった。まるで、彼自身が流した
血のように感じられる、その生々しさを畏怖しながら。



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